約束―κατάρα―
番人改め、エライアとして名前を授かってから幾夜か経った。
未だに長い夢から覚めていないのではと、エライアは時々頬をつねるが痛いだけ。現実だとようやく悟ったのは、再びルナが彼の所に訪れた時だった。
彼女はいつも夜も深まった時分に姿を現す。当然、その時間にはエライアは眠っている。彼女が地上に降り立った時、風がその事教える、それが合図だ。そうして彼は眠りから覚める。
初めの頃は、昼型のエライアにとって体と頭がついていかず、起きているのもやっとだった。最近になってやっと慣れてきたが、そのせいで昼寝の時間を設ける事になった。
流石に、ルナもそこまで気が回らないらしい。女神の自由奔放さから来ているのだろうか。
出会ってからエライアは何となく気づいていたものの、ここまで抜けているルナが神というのも何処か信じ難い。それでも、隠しきれていない風格や佇まいは人と掛け離れていたし、何より彼女が発する言葉にはいつも力が宿っていた。
“エライア”と名付けられたあの夜から、彼はルナに惹起されていた。ただ彼女が美しいからだけでは無い。そこに居るだけで、千言万語を費やしても表現し得ない圧倒する何かがある。
しかし、このまま黙って過ごすのも神を冒涜しかねない。女神だと確信してから、エライアは今夜とうとうルナにそれを指摘する事にした。
すると、どうだろう。ニコニコと笑っていた顔が途端に固まり、目が右往左往する。冷や汗を流し、終いには静かに涙を流す。つまり、図星だった。
「…やっぱり、神様だったんだ」
女神だと暴かれたルナは、目の前でがっくりと項垂れていた。バレないと思っていた彼女も如何なものか。それ程まで変装と振る舞いに自信があったのだろう。
「不覚だわ…。最初から私が女神だと知っていただなんて…。おまけに、それをしばらく隠していたのも卑怯よ…」
「…耳を隠しているのもそれが理由でしょう?」
「……えぇ。でも、もうバレてしまったし、煩わしいから解くわ…」
ルナは麻紐を指先で摘んで引っ張り頭を軽く振ると、クセになる事もなく長い髪がサラサラと流れ落ちて、草の上に月白の絨毯が広がった。
「うーん、やっぱりこの姿が落ち着くわ…」
両手を組んで空に伸ばし、ルナはリラックスした様子を見せる。
ただそれだけの動作なのに、エライアは傾倒しそうになる。
そんな熱い視線が注がれている事に気づいたルナは、少し照れ臭そうに微笑み首を傾げた。
「……な、なぁに?」
「…いや、その…髪を下ろした姿も似合ってるなって…」
「へっ!?あ、そ…そう?」
ルナは肩に掛かる横髪を手に取り、弄ぶ様にくるくると捻る。照れ隠しのつもりだろうが、頬は紅潮していて口元も緩まりきっている。そこに、神の威厳は無い。
堪らずエライアは小さく吹き出した。
「…ッ、クク…本当に、随分抜けている女神様だね」
「ふ、不意打ちは苦手なの!」
「おまけに人見知り」
「元々こういう性分なの!もう、エライアは意地悪だわ…!」
悲しんでいたかと思えば、今度は喜んだり怒ったり。喜怒哀楽が激しい女神である。
寝静まった夜だというのに随分賑やかなこの状況に、エライアは様々な感情を思い起こす。
この場所に来てから一人で過ごす時間が長かった為、感情を表に出す事も無かった。そのせいか、この変化に戸惑ってしまう。
何より、何故ルナがここまで自身を気に掛けるのかが分からないままだった。名前を与えた事も、今こうして話しているのもただの気まぐれではと、どうしてもネガティブに考える。
そこまで彼女も考えてはいないかもしれないと、エライアは素直に尋ねる事にした。
「…それにしても、どうして僕に興味を?やっぱり、片翼の出来損ないだから?」
「それは関係無いわ。そうね、私はエライアの姿を夜しか見れないのだけど、いつも一人で聖域に居て眠っている貴方を毎夜見ていたら気になったの。どんな声をしていて、瞳は何色なのか、笑顔はどんなものかしらって…。そんな理由では、駄目…?」
理由を求められて答えたルナの言葉に、偽りは微塵も感じなかった。今一つ理由として欠けるが、これが女神の本音だという事は確かだった。
「…僕は面白味も無いし、魅力には欠けると思うけど…。でも嬉しいよ、そう言ってくれて」
「エライア…」
安心した様に互いに微笑み合うのも束の間、エライアが苦悶の表情を浮かべる。ローブ越しから気にする様に足首を触っていた。そこには、奴隷としての証である足枷がある。ルナは以前それを見たが、足首周りの怪我は酷いものだった。
ルナの力を以ってすれば、足枷を外す事は容易に出来るが、エライアの承諾無しにそれをやってしまうのは気が引ける。神と言えど、人の意思は尊重する。
「……その、足枷…外しましょうか?」
無意識に触っていたのかエライアは手をパッと離す。
「…え、あ…いや…そんな事までしなくていい。外そうと思えば、自分で外せるしね」
「でも、そのままだといずれ足が…」
「これは…過去を忘れない為の、代償だから…」
ルナはエライアの過去を詳しくは知らない。
世界が二分される前の事は、ルナにとっても辛いものだった。
彼女は人間を嫌悪や憎悪をそこまで抱いていなかった。しかし、闘争が起こってしまい、神々の協議の結果離れざるを得なかった。人間と亜人の関係性も、全てが悪くなかった訳では無いが、そうだった数の方が圧倒的に多かった。どうしようも無かった。
奴隷として生きていたと言うエライアだが、もしかしたら親しい人間や仲間の亜人が居たかもしれない。
だからこそ、詳しく尋ねる事は出来なかった。
「ごめんなさい、立ち入った話を…」
「ううん。それより、ここに来るのは構わないけど、他の神々に何か言われないの?」
「…風の精はこの事を知っているけど、他はまだ内緒にしているわ。バレたら大目玉を食らうでしょうけど」
現段階では、親友のシルフィード以外はこの事を知らない。彼女にも口止めしている。
そもそも引っ込み思案なルナに、神や精霊は興味の対象から除外されている。それだけに、万が一どこかで漏れてしまえば、醜聞として広められてしまう。
ルナは自分が咎められるのは一向に構わないが、エライアがそれを受けるとならば、例え全てを敵に回そうとも立ち向かう根性はあった。
「大丈夫よ、私がエライアをまも…」
守ると言い終える前に、エライアが言葉を遮った。跪いてルナの手を取り、口づけの代わりに自身の額に彼女の手の甲を押し当てた。
「…僕は、貴女に第二の生を与えられ、全てを捧げた身。この生がある限り、君に尽くし従おう」
「ま、待って。私はそんなつもりで、貴方に近付いた訳じゃ──」
「僕が、そうしたいんだ」
「…エライア。貴方のそれは……いいえ、何でも無いわ」
顔を上げたエライアがルナに向ける眼差しは、敬慕や崇拝のそれであり、ルナが抱く愛情とは違うもの。
神と亜人は、対等にはなれない。そう突き付けられた気がした。
月の神殿に戻ってきたルナは、細やかな装飾があしらわれた寝台に横たわり、完全に不貞腐れていた。涙で褥が少し濡れてしまい湿っぽい。
守護石を外したルナの力は身体から漏れ出して、若干制御が効いていない。感情に呼応する様に硝子や陶器はカタカタと揺れたり、彼女の近くに置いてある水瓶は砕けている。
「…上手くいかないわ」
「当たり前よ、名前まで与えちゃって。神なんだから崇拝されて当然。対等でありたいなんて無理な話だわ」
陰気な空気を払うかの様に、シルフィードはバッサリと言い放つ。
「…私は、エライアとはもっと、その…こう…」
気恥ずかしさからか、ルナはゴニョゴニョと口籠る。煮え切らない態度に、シルフィードも少々呆れた様子だ。気心が知れた間柄だからこそ、はっきりとした物言いが出来る。
「もう、ハッキリ言いなさい。キスがしたいんでしょ?それとも何、それ以上進みたいの?」
「そうなの…って、ち、ちちちちち違うわ!!」
慌てて否定するものの、ルナは赤面してそば殻を詰めた枕に顔を埋める。
「押し倒せば良いのよ、ドーンって」
「私はそんな淫靡な事はしないわ!!」
揶揄えば揶揄う程ムキになるルナを見て、内心は転げ回って笑いたいシルフィードであった。
「ほんっと、一目惚れをした乙女の姿ねぇ。面白いからそろそろ話のネタにしていい?」
「私は真面目に考えているの!」
「はいはい」
シルフィードは可愛らしい口に手を当てながら、大きな欠伸をする。風の精霊は気が移ろうのが早い性分。そろそろこのやり取りも飽きてきた。
「どうでも良いけど、もう帰っても良い?また今度聞いてあげるから。じゃあね」
「あっ、ちょっとシル!……もう…」
目もくれず去っていくシルフィードに、ルナは肩を落とし溜め息を吐いた。ズキズキと胸が痛んで手を当てる。
恋を知ってしまった女神は、もう後には戻れない──。
翌晩、またルナは聖域に訪れた。しかし、初めて会った川辺に、いつもの姿が無い。
自分に愛想を尽かしたのではと不安になり、辺りを見回す。気配は遠くから感じた。それを辿ってみると、エライアは木に凭れて寝息を立てていた。
「……最近は私が夜に来るから…疲れていて当然ね…」
そっとエライアの頬に触る。夜風に晒されたのか、酷く冷たく感じる。ローブから覗く顔も疲労が伺えた。今日は月が雲で隠れているせいかそれは余計に濃く表れていた。
ここでようやくルナはエライアを振り回していたのではと、自責の念に駆られる。ラピスラズリの瞳が涙で反射してキラキラと輝く。
「…ごめんなさい」
「……どうして謝るの」
俯いたままだがエライアの声が聞こえて、ルナは動揺する。
「お、起きてたの…」
「今起きたよ。ごめん、来ていたんだね」
頭に掛かっていたローブを捲り、エライアは眠そうに目を擦る。そして、泣いているルナを見て困った様に微笑んだ。
「…どうして泣いているの。ルナは、泣いてばかりだね」
エライアは手を伸ばそうとするが、ルナがそれを拒む様に振り払う。
「………ごめんなさい、今日は帰るわ。ゆっくり休んで──っ!?」
「そんな状態の貴女を放っておけないよ。僕は大丈夫だから」
突然の事でルナは言葉を失う。エライアは片手で彼女を抱き寄せたのだ。耳に吐息が掛かって、ルナの全身に熱が帯びる。
今度は優しく離れると、ルナはエライアの胸に手を当てて俯いた。
「…貴方に優しくされると、胸が痛むの。とてもとても、痛いの」
ズキズキ、ズキズキと胸の痛みは増していくばかり。異性としての『好き』という言葉が喉まで出かけていたが、ルナはそれをグッと飲み込む。
「……ルナ?」
「私のお願い…聞いてくれる?」
神の願いは、それこそ絶対的なもの。ルナに忠義を尽くすと決めたエライアは、それに抗えない。極端な話、死ねと命じられれば自ら絶つ事も出来る。
「……僕に出来る事なら。何をすれば良い?」
「私と、これからもずっと一緒に居てほしいの」
もっと無理難題を命じられるかと思いエライアは多少身構えていたが、そうで無かった為、フッと緊張が解れる。
「…あぁ、分かった」
その願いはルナからすれば、女神の単なるわがままであり、口約束であった。契約などで縛るつもりは毛頭無い。
エライアにとっては、それは契約であり、服従であり──。
風が吹き荒び、エライアのローブがはためく。
隣りに居たルナは、本来あるべき場所に帰った。いつもの静寂が戻る。
足首に痛みが走り、全身から脂汗が吹き出る。
「──っ、ぐっ……うぅ…」
ルナと居る間は、加護の影響かこの激痛が和らぐ。
「……これで、良いんだ」
女神であるルナに、異性としての好感をエライアは確かに抱いている。それでも、一度彼女に愛というものを求めてしまえば、いずれ訪れる別れに耐える事が出来ない。それなら従者として生を終える方が、きっとお互い傷つけずに済むはずだ、と。
「……貴女の愛には応える事は出来ない。それでも、許されるなら…」
エライアは、己の生がもうあまり残されていない事を悟っていた。
深く深く眠りに落ちる前に、彼の頬に冷たいものが伝う。
それを拭い去ってくれるものは、誰も居ない。