第九話
あれほど激しく降っていた雨は、降り始めたときと同じようにいつの間にか止んでいた。
それどころか、雲は既にところどころ亀裂が入り、その隙間からまた真夏の太陽が地上を照らしている。
しばらくの無音が訪れた後、思い出したかのように蝉が鳴き始めた。
その蝉の声が、雨が降る前の勢いに戻って、ようやく俺と新田の唇が離れた。
新田の瞳は、まだ俺の目線と同じ高さにある。
その少し下の頬が真っ赤になっているのは、きっと暑さのせいではない。
俺の顔を包んだ新田の手が燃えるように熱い。それなのに、とても寒いかのように小刻みに震えていた。
「ねえ、私怖いの」
呟くように新田が言った。
「私にはやり残したことが多すぎる。
だから、絶対に生きなきゃいけないの。だけど……」
怖いの。
新田はもう一度そう言った。
ここに至ってようやく俺は、新田の気持ちに、唇に触れた温かさの正体に気が付いた。
本当はもっと前に気が付いていてもよかったものを、馬鹿な俺は答え合わせが終わった後に気が付くのだ。
そして、答え合わせが終わってなお、俺には新田にかけてあげられる言葉がなかった。
「もし私が生きて帰れたら、その時はこのやり残しの続きがしたい。
その時まで、待っててって言うのは迷惑かな?」
きっと新田は、保証が欲しいのだ。
手術が成功した後の人生を、誰かが望む新田未央ではなく、自分自身の意思で生きる新田未央として過ごすという保証が。
そして、理由は分からないが、新田はその未来を共に生きたい相手として俺を選んでくれた。
「俺は……」
迷惑なんかじゃない。いつまでも待ってるよ。
どんな言葉をつなげるつもりだったのか、今となっては俺自身も分からない。
なぜなら、俺の口を新田の人差し指が抑えたからだ。
「なんで?」
俺の言葉が、新田によって遮られるのはいったい何度目か。
今回が、一番その意図が分からない。
新田は指を離すとくるりと反転し、小さくジャンプしてベンチを降りた。
「やーめた」
それは、どこか重たい雰囲気をまとっていたこれまでの言葉とは真逆の、何かが吹っ切れたような明るい声だった。
「悲劇のヒロインを騙って告白大作戦。
絶対失敗すると思ってたのに、うまくいきそうになって焦っちゃった」
おどけた声で、新田が言う。
まだ俺に背を向けたままなので、どんな顔をしているのかは分からない。
「おい、何言ってるんだ。今の話が全部嘘だって言いたいのか?
そんなの信じられるわけないだろ」
目の前で聞いていた俺には分かる。新田の言葉に偽りはない。
「全部嘘ってことはないよ。私が藤原君を好きなのはほんと。
普通に告白する勇気がないから、卑怯な手を使っちゃた。もしかして、ファーストキスだったかな?ならごめんなさい。
だけど私もファーストキスなの。だからおあいこ……っていうのは少し虫が良すぎるかな?」
矢継ぎ早に紡がれる新田のおどけた言葉には、まるで現実感がない。
「何のためにそんな嘘を吐くんだ?
そんな嘘をつかなくったって、俺は新田のことを……」
待っている。
その一言は、再度新田によって阻まれる。
「嘘は私が病気だってこと。
そういうことにしておいてよ」
その声は、今にも泣きだしそうに聞こえた。
背を向けた新田の顔は、やはり俺の方からでは確認できない。
「今日の出来事は全部、私が藤原君の気を引くためにやったこと。
万引きする現場を見せて興味を引かせたのも、そのまま映画に誘ったのも、カップルシートになったのは本当に勘違いだったんだけど。
映画の後、ここでした話も全部、藤原君のことが好きな私のただの自作自演。そういうことにしておいてよ。
もし私が死んだら、藤原君は背負わなくてもいい重荷を背負ってしまうことになるじゃない」
最後の一言は、消え入りそうで聞こえなかった。
「藤原君は優しいから、私の嘘を真に受けたなら、きっと私の告白を断れない。
そうでしょ?」
新田の問いかけに、俺は即答できない。
確かに、俺は新田に対して悪からぬ印象を抱いている。しかし同時に、付き合いほどに異性として魅力を感じているかと問われれば、分からない。
それは、新田がどうこうという話ではなく、単純に俺が異性への感情に名前を付けることが出来ないからである。
「だから、今日のことはすべて忘れてください。
それで、夏休みが終わって学校が始まったらもう一度告白をします。
今度は小細工なしの、本気の告白。
だから、回答はその時まで取っておいてください」
新田が振り返った。
その瞳には、やはり涙が浮いている。
だけど、俺はそれを指摘しなかった。
「分かった。楽しみに待ってる。
だから、俺からも一つお願い」
俺は、右手の小指を差し出した。
新田は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になって俺の指に自分の小指を絡める。
「君がゴールを決める姿を、俺は楽しみに待ってるから」
指が離れた後も、小指には新田の感触が残ったままだった。
時は流れて、二学期初日。
クラスに、新田の姿はなかった。
担任が、病気の治療のために長期間の入院が決まったと説明している。
クラスの喧騒を、どこか遠くのことのように感じながら、俺は右手の手の小指に残る感触を確かめた。