第六話
映画が終わった。
それまでスクリーンに注がれていた集中が解かれた途端、左手が痺れていることに気が付いた。
驚いて目を向けると、新田の右手と俺の左手とががっちりと絡み合っていた。
「うわっ」
驚いて、慌てて話そうとしたが新田の方が強く握っているので離れない。
「なあ、新田……」
手を放さないか。
そう言おうとした俺は、新田の横顔を見て固まった。
新田未央は静かに泣いていた。
その両目は映像が消えた真っ白なスクリーンを一心に見つめ、見開いた瞳から途切れることのない涙の線が頬にできている。
俺は慌ててポケットに手を突っ込んだ。
家を出るとき、汗をぬぐうためにと詰め込んだタオル地のハンカチ。
結局汗は服の袖で拭ったので、今日はまだ使っていない。
そのハンカチで新田の頬を流れる涙をせき止める。
ハンカチが頬に触れたことに気が付いた新田が、驚き顔で俺を見つめた。
「私、泣いてるの?」
まるで、それが不思議なことのように新田は言った。
俺がうなずくと、新田は一度瞬きをした。
涙の線が途切れる。
「そう、私泣いてるんだ」
映画館では、他の観客が泣いている小さな音が響いていたが、新田の涙はそのどれとも違うように思えた。
「やっぱり私、この話は好きになれないな」
新田の右手の力がまた少し強くなった。
俺と手をつないでいることに気が付いているのか、それとも無意識なのか、俺には判断ができない。
「確かに悲しいラストだけど、二人の心は最後の瞬間までつながっていたと思うよ」
「心がつながっていることは幸せじゃないよ。
愛する人と同じ時間を生きることが、幸せなんだよ」
新田は前を向いたままそう言った。
確かにこの話は、発表された当初からラストに対する賛否の意見が入り乱れた。
主人公はヒロインの嘘に気付いていたのか?主人公が告白しようとしたとき、ヒロインがそれを遮ったのはなぜか?二人は幸せだったのか?
いろんな意見が出た。
しかし、作者があのラストの意図を説明することはなかったので、今でも答えは出ていない。
俺は、物語は作者の手を離れた瞬間から読み手のものだと思っているので、あのラストシーンの解釈も人それぞれでいと思っているのだが、あのラストを指して「この作家作品の中で、あれだけは好きになれない」という読者は少なくない。
だが、新田の言葉はそれらの感想とは少し違う気がした。
「そろそろ出ないと、次の上映が始まっちゃうね」
涙を止めて新田がそう言ったとき、劇場には客は一人も居なくなっていた。
新田が先に立ち上がる。
釣られて新田の右手とつながれた俺の左手が持ち上がる。
「お、おい」
手を放さないのか。
新田に聞く前に、もう一度左手が引っ張られる。
絡まった指に圧力がかかる。新田の手の力がさらに強くなったのだ。
「藤原君、早く出ないと映画館の人の迷惑になっちゃうよ」
新田は振り返ることなく、つながれた手に言及することなく笑って言った。
涙で赤くはれた目が無理に笑顔の形になっていることを考えると、俺はそれ以上何も言えず、新田に手を引かれ映画館を出た。
「少し歩かない?」
映画館を出るとすぐに新田がそう提案した。手はまだ繋がれている。
時刻は午後二時前。真夏の季節に散歩をするような時間ではない。
だが俺はその提案に反対しなかった。
元々、映画が終われば万引きのことを新田に尋ねるつもりだったから、人の多いショッピングモールよりもいいと思ったからだ。
ショッピングモールの裏には大きな市民公園があり、新田はそこへ向かっているようだった。
自動ドアが開いた瞬間に忘れていた熱気が体を包み、冷房で冷やされていた体は一瞬にして汗が吹き出し、不快指数が跳ね上がる。
ショッピングモールから公園までは徒歩で五分ほど。歩行者は、俺たち以外に誰も居ない。
民家の前を通るたびに、大通りに面して設置された室外機から放出される熱風が容赦なく襲う。
そんな状況になっても、新田は手を放そうとしなかった。
もうどちらのものかもわからない汗で滑りそうになる手を、新田は必死に掴む。
映画館を出て少し冷静になったことで、左手に伝わる新田の手のひらの感触がさっきよりもはっきりとわかる。
意識してはいけない。
そう思えば思うほど、全身の神経が左手に集めるような気がしてくる。
気が付けば、俺の方からも手に力を入れていた。
「着いた」
だから、新田がそう言うまで公園に着いたことにすら気が付いていなかった。
小高い山に囲われた芝生の広場には、先客がいないようだった。
例年のこの時期は、小さい子供を連れた家族ずれやカップルなどでそれなりに賑わう場所なのだが、国が警戒情報を出すような猛暑日に訪れる馬鹿は俺たち以外にはいないだろう。
一応、公園の南側には池と噴水があるのだが、今年の水不足のせいで水位は半分ほどになり噴水には運転停止中の張り紙がある。
水が足りていないせいか、芝生の広場の方も心なし元気がないように見える。
「ここって、こんなに寂れてたか?」
無意識に声が出た。
「それでもきれいだよ」
どこにも力が入っていない声で新田が言った。
その声を聴いた途端、俺の肩に入っていた力がふっと抜けた。
「新田、君は今朝万引きをしたよね?」
これまで散々言い出すタイミングを逃していた言葉は、自分でも意外なほどに自然と口に出た。
新田の顔が一瞬固まったような気がしたが、次の瞬間には何かを諦めたように笑っていた。
急に左手が軽くなった。
新田が手を放したのだと気が付くのに数秒が必要だった。
気が付いた時には、新田は三歩ほど前方にいた。
今の今まで手をつないでいたせいか、三歩がどうすることも出来ない距離に感じる。
三歩先の新田が振り返る。
「喉が渇いたね、何か飲みながら話そうか」
この時ほど悲しい笑い顔を、俺は今日にいたるまで見たことがない。




