第五話
「私まだ怖いの。
失敗する可能性はほとんどないことも分かっている。
だけど、どうしても勇気が出ないの」
どんなときでも明るいヒロインが、珍しく弱気なことを言った。
いつもの屋上で、並んで座っていた二人の間に少しの間沈黙が流れる。
すると、急に主人公が立ち上がった。
「俺はさ、足を怪我して一度は生きる希望を失ったんだ。
君からしたら、五体満足に生まれてきただけでも幸せだと思うかもしれないけど、俺にとっては生きる意味っていうのはサッカーだったんだ。
だから、サッカーができないってことは死んでいるのと同じなんだ」
「医者には、現役復帰できる可能性はほとんどゼロに近いとまで言われた。
だけど、君に出会えたことでもう一度あがいてみようという気持ちが芽生えたんだ。
俺は、必ずプロに復帰する。だから君も、生きる希望を絶やさないでほしい」
主人公の励ましで、ヒロインは手術を受けることを決意する。
主人公もまた、長く苦しいリハビリを開始するのだった。
***
半年後、主人公は歩けるまでに回復できれば奇跡と言われていた状態からランニングができるまでに回復していた。
ヒロインもまた、つらい治療を乗り越えいよいよ手術の日を迎えた。
「私、生きてくるね」
手術前、主人公の手を握りヒロインはそう力強く宣言した。
「ああ、一緒に生きよう」
主人公は、その手を強く握り返した。
***
手術は予定よりも一時間早く終わった。
家族でもない主人公がヒロインに会えたのは手術から四日後、集中治療室から出てきた後のことだった。
「有言実行!」
ピースをしてはにかむヒロインは、少しやつれたように見えたが嬉しそうに笑った。
「今度は、あなたが生きる番だよ」
ヒロインの激励に、涙目の主人公がうなずいた。
***
主人公は、驚異的な速さで回復し、絶対に不可能だと言われていた現役復帰にあと一歩のところまで来ていた。
一方のヒロインは、手術後まだ病室から出ることを許されていなかった。
元気になるどころか、日に日に痩せていくヒロインを見て主人公が心配そうに尋ねる。
「手術は本当に成功だったんだよな?」
ヒロインは、その問いにいつも笑顔で答える。
「当たり前でしょ。今は少し体力が落ちてるけど、そのうちあなたよりも元気に走り回るようになるんだから」
その言葉を聞いて、主人公は安心したようにリハビリへ向かう。
その後姿を見ながら、ヒロインは一人になった病室で静かに泣くのだった。
***
さらに半年が経った。
主人公は、プロ復帰の日を明日に控えていた。
ヒロインはまだ、ベットから起き上がれていない。
「ごめんね、試合観に行けなくて」
「いいよ。それよりも、君に伝えたいことがあるんだ。
俺は、君が……」
真剣な口調の主人公を、ヒロインが遮った。
「明日の試合、あなたがゴールを決める姿をここから見ているわ」
そう言って、小指を立てた左手を出す。
主人公は、黙ってその指に自分の指を絡めた。
***
試合は、両チーム得点がないまま後半30分を回った。
主人公が、監督に呼ばれる。
「行けるか?」
「行けます」
怪我をしたデビュー戦からおよそ二年。もう一度同じ場所に戻ってきた。
主人公に、怪我を恐れる気持ちはなかった。
ただ、自分はここで生きている、と彼女に証明したい。その一心で、スタジアムで一番光が当たる場所へと駆けて行った。
***
テレビの明かりだけの薄暗い病室に患者の異変を知らせる心電図のけたたましいアラームが鳴り響く。
担当医とナースが駆けつけて懸命な処置を施すが、一向に鳴りやまない。
朦朧とした意識の中で患者がつぶやく。
「もういいです。自分のことは自分が一番分かります。
アラームを切ってください。彼の活躍が聞こえない」
もう目を開けることすらできなくなった彼女の最後の願いだった。
一年前の手術は、成功してなどいなかった。
彼女の体にメスを入れた執刀医が見たのは、それまで見つかっていなかった新たな病巣であった。
そして、その病巣は既に手が付けられないほどに進行していた。
結局、医師は新たな病巣を見つけたものの、何もできずに開いた腹をもう一度閉じるほかなかったのだ。
手術が早く終わったのはその為だった。
術後、その事実を知らされたヒロインは、しばらく黙った後、ポツリと呟いた。
「彼には内緒にしておいてください」
***
アラーム音の消えた病室には、テレビから流れる実況と応援の音だけが響いていた。
すでに試合はロスタイム。
お互いに決定的なチャンスをつかめないまま残り時間は僅かになっている。
その時、実況が彼の名前を叫んだ。
敵陣でパスを受け取った彼は、ディフェンダーを一人また一人と交わした。
「フリーになった!」
実況が叫んだ。
その直後、テレビの奥で割れんばかりの歓声が起こった。
病室の心電図は、既に脈を刻むのをやめていた。
彼女の目から一筋の涙が流れた。
グラウンドでチームメイトにもみくちゃにされている主人公に、優しい雨が降り注いだ。
笑顔の彼の目からは、とめどなく大粒の涙があふれていた。