第一話
夏休みも半ばを過ぎたその日、参考書を買いに本屋へ出かけたのは気まぐれだった。
昨日までの猛暑が少し和らいだ午前十時、遅めの朝食をとった後、俺藤原和也は自転車に乗って街で一番大きな本屋へと向かっていた。気温は既に35度に迫る勢いで上昇し、一漕ぎごとに湿気を含んだ熱風が体を打つ。
もう一時間早く出るんだった。
家を出て三十秒、俺はそう後悔しながらペダルに力を込めた。
小学生の頃はラジオ体操に参加するために夏休みでも六時には起きていたが、中学に上がるとその習慣もなくなった。
それでも、半年後に高校受験を控える今年の夏は午前中の涼しい時間に勉強をするために比較的早起きを心掛けている。
昨日なんて、小学生の妹がラジオ体操に行く前に起きていた。
年に数回あるとても目覚めのいい日で、朝から参考書が面白いように解けた。
調子に乗って、予定外のペースで進めたものだから今日やる分がなくなってしまったのだ。
今日ぐらいは休んでもいいかとも考えたが、ちょうど好きな作家の新刊が発売日だったので本屋へ行って新刊と参考書を買うことに決めたのだった。
家を出て十分。それだけの時間でシャツの色が変わるくらいの汗をかいたので、本屋の冷房は少し寒いくらいに感じた。
天気のいい夏の午前中にわざわざ本屋に足を運ぶ人間は少ないようで、店の中に人影はまばらだった。
店員も、レジの裏で談笑している二人だけのようで、セミの喧騒が響き纏わりつくような暑さがあった外とは、別世界のようなのんびりとした時間が流れている。
入口に平積みにされた話題本を冷やかしつつ、目当ての単行本の棚へ向かう。
単行本の棚は、店の一番奥にある。
「あれは、新田?」
目当ての作家の本が並ぶ棚で立ち読みをする白いワンピースを着た女の子がいた。
うなじが見えるほどのベリーショートの女の子は顔を見なくてもクラスメイトの新田未央だとすぐに分かった。
クラスの女子の名前なんて、半分も記憶していないのだが、新田未央に関しては、一年生のときも同じクラスだったおかげでフルネームで思い出せた。
確か、学年でもトプクラスの成績優秀者だったと思うが、受験を控えたこの大事な時期に本屋で立ち読みとは、余裕があるんだな。
俺も、本を買いに来た立場なのだが、地元の二流高校を志望校にしている俺とは違って、新田は毎年何人も赤門をくぐる生徒を輩出している名門私立を目指しているはずだ。
それなら今頃、塾で夏期講習の真っ最中だと思うのだが。
そう思いながら声をかけようとしたその時、俺は信じられないものを見た。
新田が、たった今まで立ち読みしていた本を何のためらいもなく自分のカバンへと仕舞ったのである。
あまりに自然な動きだったので、それが犯罪であると気が付くのに一瞬のタイムラグがあった。
新田の手元を見つめたまま固まった俺。鞄に本を仕舞い、振り返った新田が俺を見つけた。
二人の視線がぶつかる。
「あ……」
先に、声を出したのはどちらだろうか。
「おはよう、珍しいところで会うね」
先に話しかけてきたのは新田だった。
新田の声で俺にかけられていた硬直が解ける。
「おはよう。参考書を買いに来たんだ。
新田は?」
先に話しかけられたせいで、俺は万引きの件について尋ねるタイミングを逸していた。
「私もそんなところ。毎日、何時間も机にかじりついてたら頭がおかしくなっちゃうよね」
にこやかに笑う彼女は、たった今万引きを働いたばかりだとは思えないほど溌溂としている。
ついさっき、万引きの現場をこの目で確かに見たはずの俺ですら、その事実を信じられないでいた。
「そ、そうなんだ。
新田でも息抜きとかしたくなるんだな」
「なに?藤原君は私のこと勉強ロボとでも思っているのかな?
まぁ、勉強は嫌いじゃないんだけど、それでもたまにはそういうのを全部投げ出してしまいたいって思わないこともないんだよ」
クラスですらこんなに話したことはない。
俺は、新田が本を入れた鞄に目をやらないように必死に視線を上げた。
「息抜きが本屋っていうのも新田らしいな」
「へへ、実はここ最近勉強、勉強でなかなか遊ぶ機会がなくて、そしたら遊び方を忘れてしまったのですよ」
おどけた風に笑う新田を見て、俺は少し違和感を感じた。新田は、こんな話し方をする奴だったっけ。
俺の新田に対する印象は、「学級委員をやっていそうな女の子」だ。
根が真面目で、正義感が強く、穏やかな性格をしているというイメージが強い。
だが、今目の前にいる新田は、変に明るくて話し方も少しひょうきんだ。
うわべだけを見ればとても楽しそうなのに、なぜかとても無理をしているようにも見える。
それに、さっきの万引き。
明るい新田の姿に惑わされそうになるが、万引きは確実に起こっていた。
だからこそ、明るい新田の姿には何かが引っかかる。
俺は意を決し、万引きのことを新田に尋ねようとした。
「新田、あのさ……」
「ねえ、藤原君もしよかったらなんだけど、この後私と一緒に遊んでくれない」
新田の言葉が、俺の指摘を予知したうえでの発言だったかはわからない。
しかし、またしても出ばなをくじかれた俺は、万引きを指摘するタイミングを二度も逸したのである。