根幹にずっと居座る言葉
太めだけれども、どこか繊細さを兼ね備えた指がチョークを構える。チョークはゆっくりと黒板に触れた。一定のリズムにのった軽快な音が室内に流れたのち、黒板に力強く白い文字が刻まれる。
「君たちには、本質を見抜ける人間になってほしいのです」
と、最初の最初に。自己紹介どころか挨拶もしていない段階で美術の先生は言った。
小さめの美術室は、ごちゃごちゃしていた。必要な分の机と椅子を詰められて、余った後部のスペースには何が入っているかわからない段ボールが積まれている。
左側の壁には額縁に入れられた絵が三枚飾られていた。どれも人物画だ。油絵の匂いが室内に漂っている。右側にある窓下の流し台をのぞきこむと使い古された筆が転がっていた。
そんな中で、黒板に書かれた美しい文字は激しく主張する。
本質を見抜け。
「とはいえ、いきなりそんなことを言われても意味がわからないでしょう。どうですか?」
静まりかえった教室に先生の声だけが反響する。深いテノールだった。先生は短い首を少しだけ動かして辺りを見回した。四十人くらいの生徒たちは何も言わずに、ただ座っている。
「例えば……、君たちが歩いていると、道端に石が転がっているとしましょう。ただの石ころならば君たちは、蹴りとばすことができますよね?」
まあ、当然のことでしょう。というように先生はうなずく。
「しかし、石がただの石ころでなく、地中に埋まっている岩の先であったならば、君たちは蹴ることができずに転ぶか、運が悪ければ足の指の骨を折ってしまうでしょうね?」
独り、またもうなずいた。
「君たちが転ばないようにするためには本質を見抜く必要があるのです。本当に石は石であるのかを」
生唾をのみ込むことさえ、ためらわれるような沈黙が流れる。沈黙はいつだって音をたてない。
黒板の上に立てかけられた時計だけが正確に、時を刻んだ。
「どうも駄目ですね。さっきから反応がありません。君たちは人形ではないのですから、私が話していることに関係のあることであれば自由に発言をして構いませんよ」
と、先生は頰をかきながら困ったように微笑んだ。
「さて、本質を見抜くことがどういうことか、わかっていただけましたか?」
先生は最前列に座っている、艶やかな黒い髪を後ろに流す女の子の顔をのぞきこむ。ぴんと背筋をのばした女の子は冷ややかな笑みを浮かべて静かにこう答えた。
「いいえ、先生」
「そうですか。……君は?」
先生は窓側に座っている私を見つめる。黒い眼鏡の向こう側。小さな二つの目は、私が適当に答えることを望んでいなかった。
「わかりません。だって、それは……とても難しいことのように思えるから」
「君は正直ですね」
と、先生は顔をくしゃくしゃにして笑う。その笑みはわからない人をちっとも責めていなかった。私は少しだけあたたかい気持ちになった。
「君たち、表現は水面と水中の間から物を見た時に生まれます」
「先生、それはどういうことですか?」
こんがりと肌が焼けているショートカットの少女が質問をする。
「つまり、普段見ないような視点から物を見ることが大切だということです」
ここで。
「本質を見抜けなんて、きれいごとだ」
と誰かが苦々しく言った。後列に座っている、耳にピアスをした男子だった。
「本質を見抜けたら誰も転んだりしない」
形のいい唇から発せられた言葉は、私の心に繰り返される。
本質を見抜けたら誰も転んだりしない。
「そういう先生は本質を見抜けるんですか?」
そんなわけがないと決めつけて嘲笑を含ませた瞳は、寂しそうな笑みを浮かべる先生を映していた。
「確かに本質を見抜くことは難しいことです。先入観、錯覚、さまざまなことが人の邪魔をしますからね」
そう、だよ。
私がやるせない気持ちでなんとなく見上げた空は、窓ガラスを通しているにも関わらず、青かった。瞳孔に突き刺さるような眩しさを感じた私は、無限に広がっているのであろう、空から目をそらした。