雨の日の喫茶店
雨が降っている。しかし、その雨雲の裏側には太陽が輝いているのだろう。空は明るくてまるで銀色のシーツで覆われているようだった。「銀色の川が落ちてくる」という曲があったな。確か賛美歌に歌詞をつけたのだったと思うけれど。この明るくて湿っていて、輝くような空が好きだ。晴れの日よりも好きかもしれない。
私は、大学からの帰り道、ふと、傘をさすのをやめた。もう雨に当たっても良いという気持ちだった。大学で、友達が彼女と歩いているのを見てしまったからだ。何だかやるせないような気分になって、自分の内からにじんでくるもやもやする部分を洗い流したかった。そうして、しばらくアパートまでの道をとぼとぼと歩いていた。私のアパートの近くには緑地が多く、歩くのにはもってこいだ。しかし、あと五分もしないで寂しい部屋にたどり着いてしまうのが嫌で、いつもとは違う路地に入り込んだ。別に、誰に気を留められるものでものない。この辺りには大学生の住むアパートがたくさんある。自分のような人間が一人や二人いたところで何も起こらない。そう思いながらあてもなく歩いていた。
三十分も歩いていたら、雨脚は弱まっていたものの、やはり体がしっとりと濡れてきた。もうそろそろ家に帰ろうかな、と思い立って踵を返すと、さっきは気づいていなかったがすぐ近くに小柄な女の子がいる。おかっぱの髪の毛に、少しレトロな感じのするワンピースを着て、こちらをじっと見つめていた。高校生くらいだろうか。自分よりもかなり背の低いその子のことを、どこかで見たような気がした。もしかしたら同じ大学の学生なのかもしれない。あまりにも突然現れたものだから、つい、ぼうっと見つめてしまった。
「あの、何か?」
当たり前の事だが、怪訝な顔をされてしまった。ああ、私としたことが失礼なことをしてしまった、とすぐに反省する。でも、正直に言うべきことも何もない。急に恥ずかしくなって、適当に嘘をついた。
「あ、あの…そこ、その喫茶店って…」
目の前にあった扉を指さして、いかにもその店のことを聞くように尋ねる。我ながらうまいごまかし方だと思った。彼女は、ちらりとその扉に目をやると、
「ああ、お客さん?そろそろ開店ですけど…。入ります?」
と言った。しまった、関係者だったか。バイトかもしれないし、何なら店の子かもしれない。適当に嘘をついてしまったものだから、気の利いた返しもできず、私は黙ってうなづいた。
カランカランと鈴を鳴らして店内に入ると、その店は思っていた以上にこじんまりとした、いかにも大学生が好きそうな店だった。マホガニーのような濃い色の木を基調とした店内は、老舗の喫茶店らしい独特な密閉感があって、大抵の人間にとって居心地が良いことだけは確かだった。少なくとも、落ち着きたい気分の人にとっては。温かい、何か美味しい匂いのする空気を感じて、思わずため息が出た。少女は、店に入るなり吸い込まれるように奥へ入っていき姿を消してしまった。他に店員もいないその店の中で、私はなんとなく入り口から一番奥の二人掛けのテーブルに座った。角の丸いテーブルも、布張りの椅子も、雨で冷えた体にちょうど優しい温かさだった。私は、店員が出てくるのを待ちながら、友達のことを考えていた。
彼は、大学に入って一番初めに口をきいた人だった。出席番号が近かったのだ。それで、何となく話し始めて、会ったその日に一緒に学食に行って、一人暮らしの相談なんかもして、実はアパートも近くて、そのままお互いの家を行き来するようにもなった。特別な気持ちがあったかというと、向こうにはそういうものは何もなく、こちらが少し意識してしまっていただけだと思う。気が付いたら、自分とは違うサークルに入っていて、違う仲間と過ごすようになって、彼女もできていた。私は、何だか何もしないうちに取り残されてしまったような気がして、悲しくなった。もっと彼との仲を深められていたら…。いや、最初からそういう気持ちは彼にはなかったのだから、どのみち私は失恋していたのだろう。窓の外を見ていたら、店長らしき人に声をかけられた。
「いらっしゃいませ。遅くなってすみません。ご注文は?」
「あ、すみません、まだ見ていなくって…」
テーブルの端に小さなメニューが立てられていた。生成りの色紙に裏表で、軽食と飲み物が書かれている。几帳面だけど可愛らしい字。私は、とりあえずここはコーヒーだろうと、とっさに注文をしてしまった。後からメニューを見返して、追加でピラフも頼むことにした。
「それにしても、雨、やまないですね」
コーヒーを運んできたとき、店長に声をかけられた。良く見ると、自分とそれほど変わらないくらいにも見える、若い男性だった。店長じゃないのかもしれない。
「そうですね。すぐやむかと思ったんですけど…。」
天気の話ほど当たり障りのない話はない。私は、ここで話が途切れることを予期しながら答えた。しかし、その人の反応は予想外だった。
「君、もしかしてそこの大学の学生さん?」
「あ、そうです。わかりましたか。」
親しげに話しかけられてしまった。店長らしき青年は笑顔で話し続けた。
「実は、僕の従弟がそこに通っていて。面白い友達がいるよって話してたんですよ。その友達はね、背がとても高いのに、可愛いものが好きで、花柄の傘なんかさしてて…」
私ははっとした。店の入り口には自分の花柄の傘が置いてある。
「だから、もしかしたら君、従兄の友達なんじゃないかなって」
「…その人の名前ってもしかして…」
「貴文。井上貴文。文学部の…」
「あー。貴文かあ…確かに店員さん、少し似てますね!」
「そう?僕のほうが五つも年上なんだけど…あ、なんだか余計な話しだったね」
そう言って、青年は軽く手を振ると、カウンターの内側に戻っていった。私はドキドキしていた。こんな偶然があるのか。あいつ、従兄がこんなところに住んでるのに、アパート借りてるなんて、反則じゃないか。でも、こういうのを運命っていうのかな。運命だとしたら、神様は一体何を啓示しているのかな…。
カウンターの裏側では、あいつの従兄の青年が、ジュウジュウと音を立てながらフライパンを振っていた。いい匂いもしてくる。匂いを嗅いだら急に胃がキュッとなった。切ない気持ちと空腹は少し似ている。少し泣きたくなる。私は、熱々のピラフを食べながら少し泣いた。そうして、おなかがいっぱいになった頃には雨も上がっていた。
「ごちそうさまでした」
「はい。あ、傘忘れないようにね!」
「ありがとうございます。」
「次は貴文も誘っておいで」
「はい…」
私は、思いっきり笑顔を作ってその喫茶店を後にした。少しだけ温かい気持ちだった。
「お兄ちゃん、さっきの人帰ったの?」
「ああ、あ、あの人やっぱり貴文の友達だったよ」
「やっぱり!私もそうじゃないかと思ってたんだ。だって珍しいもんね、男の人が花柄の傘さしてるの」
「うん、見た目は結構いかついのにね」
「実は、店の前にいるときから怪しいと思ってたんだ」
そう言うと、少女は空になったピラフの皿とコップをトレイに載せて片付け始めた。テーブルの上は、少し濡れていた。