On the bridge.
秋の小景。
もういいんじゃないの?
交差点の信号待ち、晩秋の夕暮れどき。帰宅の人のかたまりの中で美佐子は唇をかみしめる。
ムリして着ているスーツも、低いけど一応かかとのあるパンプスともお別れして。
ついでに鞄の中の学校から持ち帰った仕事も、ぜんぶ捨てたって。どうせ誰も引き留めもしない。誰からも評価されない。と、いうか来年の三月で雇用任期が切れる。次の更新が、もらえるかどうかわからない。
信号機から電子音が夕空に流れてビルにこだまする。複雑な三叉路の信号は長く、みなイライラと青に変わるのを待っている。
今年もだめだった。
去年も、その前も。大学の教育学部を出てからすでに五回受けた採用試験はすべて不合格。
それでも美佐子は、なんとか非常勤で教職に就いている。
でも、違う。
正職員の先生たちとの格差は痛いほど感じる。とくにこの季節。もうすぐ冬のボーナスの支給だ。
自分には関係ない話だ。
地元の銀行や郵便局の職員がボーナスをぜひ貯蓄へと勧誘に訪れ、差し出されるチラシを受け取るときの切なさ。いつもは親しくしている教師たちをひどく遠く感じる。
同じくらい働いているのに。産休の教師のクラスを受け持って、朝から晩まで働いているのに非常勤講師の美佐子にはボーナスは一円たりとも支給されない。
お金だけがすべてじゃないって分かってる。
やりがいのある仕事だし、子どもたちはかわいいし。
でも、でも。
情熱でカバーできる時期はもうすぎたのだ。
目に力を入れすぎて、きっと何か怒りをこらえているように傍からは見えるのだろう。美佐子の周りにはほんの少し空間ができている。
年が明けたら春には友人の結婚式があるし、別の友人の出産も控えてる。
友人たちは大人になっていく。人生の伴侶をみつけてお母さんになっていく。いつまでも『先生になりたい』なんて子どもっぽい夢を語らない。
美佐子の気持ちはまだ高校生ぐらいのままなのだ。肉体だけが年を重ねていくようで、内と外でのギャップとむなしさは年々大きくなるばかりだ。
だから、もういいよ、辞めよう。
美佐子は白い息を吐くと、思い切りかみしめて痛くなっていた顎をさすった。
三月まで学校で仕事をて、四月になったら世話焼きの叔母に誰か紹介してもらおう。どうぜ見合いをするなら教職の人がいいな。きっと話もあうだろうし、自分も教師の仕事を理解している。
そうだよ、自分が教師になるより教師と結婚したほうが、よほどイイ。自分でどうにかしようなんて肩肘はらずに、誰かに頼って生きればいい。
誰も責めたりしない。そういう暮らしをしてる人たちはふつうに、ありきたりにいるんだし。
それで、いいじゃん。もう。
美佐子は、長いため息をつくと丸まった背中を伸ばした。
信号が青に変わって人の波が動き出す。
信号を渡ると、すぐに大きな川にかかる橋だ。
川の上を吹く風は冷たい。マフラーに顔を埋めて歩く。足が冷える。手が冷える。冷気は体に充満して美沙子自身が氷柱になったように感じる。
はあ、と息をつくと鼻のあたりに湿り気とわずかな温かみが生まれる。小さな温かさをたよりに駅へと急ぐ。
橋を渡りきる手前で、欄干から川面を見つめる小さな影を見つけた。欄干の隙間から熱心に下をのぞき込んでいる。隣には青年がいる。
「はくちょうだよね」
男の子の声だった。特徴のあるエンブレムつきの革のランドセルと仕立てのよい制服。市内にある私立の小中高一貫校の子だ。
「そうかな」
外仕事らしい、大きめの襟にボアのついた上着に、作業服の腰からタオルをさげた茶髪の青年が男の子と一緒に川面をのぞく。
「そうだよ、ぜったいにはくちょう。冬だもん、はくちょうだよ」
言われて青年もうなずく。
「あと、カモ? 結構いるなあ」
ふたりの会話に足を止めた。同じく川岸に目を凝らす人が数人いる。美佐子もなんとはなしにその並びに加わり、橋のしたに目をやった。
すでに暗い川の淀みには、橋をライトアップする明かりのおこぼれで、わずかに鳥が群がっているのが見えた。
「ザンセツいるかな」
男の子が熱心に鳥を見つめている。
「ざんせつ? 」
男の子はちょっと意地悪そうに笑った。
わかる? ぼくのクイズに答えられる? 口に出さないだけで、大人たちに質問を投げかけたようだ。
周りの大人たちは、ふと考えを巡らせ始めたようで、首をひねったりスマホを取り出したりしている。
美佐子にはすぐ分かった。
「大造じいさんとガン、椋鳩十。ガンの頭領の名前が残雪!」
右手を高々とあげて張り切って答えた。
おう、という小さなどよめきに美佐子は我に返った。
みなから向けられた視線が恥ずかしくて、美佐子は挙げた手をあわてて下ろして口元を押さえた。
「すげー、物知りだね」
茶髪の青年が明るい声で美佐子を手放しにほめると、まわりの見物人も、一様にうなずいた。男の子も少し感心したのか、目を見開いている。
「いえ、その、わたしの学年が、ちょうどこれを勉強中で」
美佐子が言い訳めいたことをもごもごと話す。
「ガッコーの先生なんだ、さすがー!」
よけいなことを口走ったことに、美佐子は穴があったら入りたい気持ちになった。
違うんです、正式な教師じゃなくて臨時なんです、非常勤なんです。そんなこと言えるはずもない。熱くなる頬に手を当てて鳥を見るふりをした。
残雪の謎がとけて満足したのか、ささやかな人垣は崩れて男の子と青年、そして行きそびれた美佐子だけが残った。
「ほんと、タイガくんはなんにも知らないんだ」
男の子は視線を川岸に投げたままで不満げに言った。言われた青年は頭をかいた。
「ごめんなー、おれ高卒だしなー」
怒るふうでもなく、青年はあっけらかんと答えると、男の子は鼻の上にしわを寄せた。
「こんどジュギョウ参観あるんだよ、かみの毛はそめてよね」
青年は伸びた前髪をつまんだ。よく見ると、青年の両耳には都合五個ほどのピアスが開けてあった。指輪ひとつつけずにいる美佐子は女として引け目を感じた。
「算数も国語もニガテ。タイガくんはできないことが多すぎるよ」
「そうかなあ。キャッチボールとかスキーだったら自信がある」
青年がボールを投げる仕種をしたが、男の子は不満げに頬を膨らませた。
この二人は、親子なんだろうか。少なくとも血がつながっているようには見えない。
片や私立の一貫校の生徒、片や肉体労働の従事者。しかも青年は美佐子とあまり歳が違わないように見える。三年生くらの子どもがいるには若すぎるし、どうにも不釣り合いに見える。
そんな美佐子の不躾な視線に気づいたのか、青年がにこりと笑った。
「ああ、おれ、チチオヤ一年生だから」
恥ずかしげに、でも嬉しそうに青年は少年の頭をぽんぽんとなでた。もっとも少年はうっとうしげにその手を頭からどけた。
なさぬ仲の二人のまえで、美佐子は気まずげに曖昧に笑った。
「ガッコーの先生って、あんた頭がいいんだね」
口のききかたはぞんざいではあったけれど、声音は柔らかく会ったばかりの美佐子に尊敬の眼差しを向けている。
「ぼくのお母さんだって、すごいんだから。けんりつ病院でかんごししてるんだから」
県立病院、県職員か、と美佐子はすぐに敗北感を味わった。
「いえ、その、私……臨時の非常勤講師で、正式な教師ではないんです」
なんだか『教師』と誤解されたままだと居心地が悪くて美佐子は訂正した。知らぬ間に視線が足下を向いている。
磨かれた合皮の小さな靴と、汚れた大きな作業靴、それにくたびれたパンプスが視界に入った。
「なんか、ちがいがあンの?」
あまりに軽い口調。何も知らない青年に美佐子は苛立ちを感じて顔を勢いよくあげた。青年は美佐子と視線が合うと、とびきりの笑顔をみせた。
「だって、子どもたちからしたら、センセーにはかわりないじゃん」
美佐子の体が内側からゆれた。
「おれ、尊敬する。えらいよ。おれが教えられないこと、なんでもガッコーが教えてくれる」
なんの含みも感じられない、素直な言葉だ。
「マサタカはすごい勉強ができるんだ。本もいっぱい読むんだ」
男の子の肩を引き寄せて、髪をもみくちゃにする。
「くん、まさたか君!! ちゃんと君づけにしてよ」
男の子は青年へ文句を言ったけれど、されるがままになっていた。
「リンジとか、大変だな。オレもずーっと日雇いでさ。学歴もねぇし」
青年は細い眉を少しゆがめて美佐子を見た。その瞳の中に、美佐子は彼の苦労を見たような気がした。
「あ、教えてくれてありがとう、な。ひとつ覚えた。はとむくじゅう」
「椋鳩十、だよ! もー恥ずかしい、帰ろ」
少年の両手で腕を捕まれて、青年は美佐子に背を向けた。
「しっかりしてよ、タイガくんはぼくのオトウサンなんだから」
車のライトが頬を赤くした少年と、両目をぱちくりさせた青年を束の間照らし出した。青年は叫ぶと、やにわに高々と少年を抱き上げ肩車をした。男の子の控えめな悲鳴と青年の笑い声が美沙子の耳に届いた。
美佐子は橋の欄干に手をおいたまま、そんな二人を見送った。
センセ―にはかわりないじゃん。
美沙子は胸の中で何度も繰り返した。
大変だな、って言われた。
大変だよ、給料安くて。そのくせ朝から晩まで仕事して。毎日がいっぱいいっぱいで。楽しいことより大変なことのほうが多いよ。
宿題をいつもやって来ない子、自己主張が激しくて団体行動を乱す子、ぎゃくに何を尋ねても返事をしない子。
それでも、できなかったことがちょとでも出来るようになった瞬間や、自分より弱い子を手伝ってあげているのを見かけたり、子どもたちの純粋さにふれるとき、たまらなく嬉しい。
……なりたいな。
先生になりたい。
大好きな小学校の先生にあこがれて、自分も同じように先生になりたいと思った子どものときの願いが甦った。
美佐子の目に熱い涙が盛り上がった。
あと一回だけ。来年、採用試験を受けよう。
周りに気づかれないように、目元をぬぐった。
忙しいとか、言い訳しない。もっともっと勉強して悔いを残さないってくらい頑張る。だから、あと一回だけ。家に帰ったら両親に伝えよう。
美佐子は欄干から手を離して深呼吸した。
振り返ると、あの複雑な三叉路を人の波が渡ってくる。道のむこうに立っていたときの、怒りがいつのまにか消えていた。代わりに胸の中に灯りがともる。
美佐子は仕事の詰まったバックを揺すりあげると、駅へと向かった。
まだやれる。
二三歩進んで、青年の言葉を小さくつぶやき、くすっと笑った。
−−はとむくじゅう
美佐子は晩秋のイルミネーションがきらめく中を歩いていった。
おわり
お読みいただき、ありがとうございますm(__)m