満員電車に向かうその道に
自宅の賃貸マンションを出てから、私の足でも駅までの所要時間は3分。
毎朝、毎晩と同じ小さな商店街を通り抜けて駅までたどり着いた。
距離にしたら100m程度の短い距離に、居酒屋やパチンコ屋、スナックが乱立するような駅近く物件ならではの雰囲気だった。
しかし朝は当然、店を閉めているので駅に向かう人達の通り道としてしか機能していない。閑散、とまでは言わないにせよ、夜の喧騒から明けた余韻がほのかに残っているような状態。
そんな夜に特化したような商店街の中に、小さな託児所があった。
毎朝、通勤前に子供を預けていく女性をよく見かけた。
よくある保育園や幼稚園の様に、敷地があって前で先生が待っているような環境ではない。蛇腹のゲートが閉められており、インターホンを押せば中から託児所の人がお迎えに行くシステムのようだった。
これから出勤というお母さん、インターホンを押すのが日課なのか、子供は抱っこしてもらいながらインターホンを押して先生が出てくるのを待っているように見えた。
子供を抱きかかえる女性の顔は、母の表情だった。
私は歩きながらそれを横目に駅に向かっていたため、その母たちが仕事に向かう時の表情を見たことはないが、母であることはいつでも変わらない。
しかし、少なくとも言えることがある。
改札を抜けた先で母性を感じる瞬間はほとんどなかった。
仕事に向かう、母とは別の表情をした人達ばかりだった。
満員電車の中で、彼女たちは一体何を思っていたのかは知る由もないが、時折いじっている携帯から目を離し、人の間から微かに視える外の景色を見ている時、仕事のメールを考えていたのか、それとも子を思っていたのか。
満員電車の中にも、母は必ず存在する。
しかし、それすらも飲み込むように満員電車は人を乗せて目的地を目指す。