或る契機
マニラの夏は予想以上に蒸し暑く、午後六時を回る前に、私は適当に宿を選んだことを早々と後悔し始めた。部屋に備え付けのエアコンは安物で、どれだけ強めの設定にしてみようとも、貧弱な扇風機の様な生温い風しか出て来なかったのだ。知性と想像力を寒さは凍り付かせるが、暑さは失敗したシチューの様にどろりととろけさせる。カチンコチンに凍ったものならばもう一度暖めて元に戻すことも可能だろうが、どろどろに崩れてしまったものはもう一度冷やしてみたところで今更どう仕様も無い。私は部屋で寛ぐことを諦め、屋外に出ることにした。案の定夕陽が置き土産に残して行った素晴らしいまでの熱気は私をうんざりさせたが、体を動かしていれば少しは気晴らしになるだろうと思い、寧ろ汗をかきに行く位の気持ちで、私は足早に猥雑な人込みの中を歩いて行った。
約束の時間は七時なので、移動の時間を考えると何処かへ見物に出掛けるには遅過ぎた。取り敢えず、朝バンコクのホテルを経つ前に恐ろしく無味乾燥なパンと貧相なサラダを無理矢理腹の中に詰め込んだ後は何も口にしていなかったので、小腹を満たしておきたかったのだが、その日は偶々人出が多かったのか、それともその辺一帯は何時でもそうなのか、私が覗いてみたレストランは何処も込んでいて座れそうになかった。私は行列に並んで美味しいものにありつくよりはファーストフードで手軽に済ませてしまう性質なので、目に入った一番近いハンバーガーショップで───偉大なるアメリカ帝国万歳!───当面の空腹を鎮めた。そして旅疲れの体には有難い、こってり甘いイチゴシェイクをちびりちびりを啜っている内に、少し落ち着いてものを考える余裕が生まれて来て、それと共にあの厄介な憂愁が性懲りも無しにまた舞い戻って来た。
脳裏に展開する全ての光景が、何か分厚いガラス越しに演じられる即興劇ででもあるかの様に、味気無い非現実感が垂れ込めて来た。それと同時に道行く人々の話し声や車の音、近くの席の中年女性がズズズとジュースの残りを啜る音や、無精髭を生やしたスーツ姿の男がクチャクチャと口を開けてものを噛む下品な音等が急に気に障り始めた。この世の些細で能天気な出来事や行為の数々は私にとって唯々不快なノイズでしかなくなり、気付かれる変化のいちいちが煩わしく、うざったく、面倒なものと化したが、だからこそここから何処へ逃げられる訳でもないと云う厳然たる事実が、私を苛立たせ、焦らせた。
時刻はまだ黄昏前で、夏の長い日はまだ終わるまいとしぶとく地上に居座り続けていたが、青醒め衰弱した夜がこの下た喧騒の中に沁み込んで来るのは時間の問題だった。私はこれではいけないと思い、これから初対面の人間に会って適切な判断を下さなければならないのだから、意識の状態を成る可く散文的で現実的なものへと引き摺り下ろそうと試みた。が、良く有ることだがこの試みは余り巧くは行かず、かと云ってじっくり納得の行くまでこの気分に浸っていられる程の時間的余裕も無いので、私はパソコンをケースの中から出して、とにかく何としても目前の問題に注意を振り向けようと頑張ってみた。数日前、私にバンコクでの予定を切り上げさせる気にさせた、必要最低限のことしか書かれていない二通の文面を読み返してみて、私は嫌でも考え込まざるを得なかった。私の所へ怪し気な話を持ち込んで来る者は時々居る。大概は真正の戯言か、さもなくば金のことしか頭に無いケチなハイエナ共の見え透いた作り話だが、中には本当に興味深い話も無い訳ではない。これらのメールはその三種類の内のどれなのか、容易には判断が付き難ねた。先方が多少は私の書いたものについて知っていることは確かだが、単に何処からか表面だけ聞きカジったものなのか、それとももっと深く正確に読み込んでいるのか───恐らくは前者ではないかと思われた。では彼の意図しているところのものは何か? 変人が書いたものにしては、文章には筋が通っていておかしな所は無かった。私を担ごうとしている者が書いたにしては、話があやふや過ぎた。私を騙す積もりなら、もっと尤もらしい話をでっち上げて来るのではんだろうか。いやそれとも却ってわざと話を曖昧にして、信憑性を上げようとしていると云う可能性も無いだろうか?
埒も無い考えに耽って私は半時間を潰し、何の具体的な結論にも至らなかったものの、多少の心構えを整えて、指定された場所へと向かった。外に出ると共に再び人間的な蒸し暑さに包まれ、不愉快さが一気にぶり返した。細い通りにひっそりと佇む喫茶店のドアを潜ると、外見に比して割と広い店内にはテーブル席に男性が一人、男女が一組、それに店員が一人カウンターの向こうに立っているだけで、目当ての相手はまだ現れてはいない様だった。クーラーは程良く効いていたが、表の熱気の残りがまだ体内で燻っていたので、私は他の客から見え難い隅の方のテーブルを選ぶと、アイスコーヒーを注文した。私が到着したのは予定の七分前だったが、相手は約束の時間にきっかり十分遅れて現れた。
予告通り薄い青色のシャツの胸ポケットに三本のペンを差したその中国人男性は店内をざっと見渡すと、直ぐに私が判ったらしく、こちらから合図を送る暇も無く、躊躇いも無くずんずん歩いて来て、カウンターの脇を通り過ぎざまレモンソーダを注文すると、私のテーブルの真ん前に立ってぐいと手を差し出して来た。
「やぁやぁやぁ、クロモリさんですね? 直ぐにお顔が判りまさした。こんな所にわざわざお呼び立てして御足労をお掛けしました。いえね、私も何分あれやこれやと野暮用の多い身の上でして。それにこう云った取引はやはり直接会ってお話しした方が宜しいかと思いましたのでね。」
早口ではないが一気にそうまくし立てたその男の流暢な英語は酷く訛ってはいたが、私の知っている中国訛りとはどうも微妙に違っている風に聞こえた。
「リャン・ウーさんですね、どうぞ宜しく。」
初手で少しばかり毒気を抜かれた私はそう言って相手の手を握った。彼はやや平べったい丸顔とそれに不釣り合いな妙に筋の通った細い鼻をしており、一見すると人懐っこそうな笑顔を浮かべてはいたが、注意して見ると上からぺったりと貼り付けた様に変わらないその微笑と常に何かを覗き込む様な目の中には、ストレスの多い環境下で働き続けている実際家らしい、偏狭とも言える鋭い表情が浮かんでいた。
「ああそれよりも遅れて来たお詫びを。本来なら私が先に来てお出迎えする筈だったのですが、いえね、つい先刻まで小さな印刷所で交渉していたんですが、それが予想外に長引きましてね、また値上げするって言うんですよ。何しろ弱小出版社にとってはほんの僅かの値段の違いが死活問題に繋がる訳ですからね、何処の台所も苦しいって時に何処にも逃げ道が無いってのは辛いものです。」
ウー氏はそう言うと慌ただしそうにどっかと私の向かいの席に腰を下ろした。そしてハンカチで額の汗を拭い、きょろきょろと目だけで辺りを見回した。早々とレモンソーダが運んで来られると、店員に「有難う」と言った後で一気に三分の一程を飲み干し、ひと息吐いた。
「良い席を選びましたね。ここなら余計な邪魔が入ることも無い。この店は直ぐに判りましたか? 割と目立たない所に在りますからね。」彼は相変わらず微笑を貼り付けた顔で言った。
私は軽く座り直した。「簡単な地図を添付して頂いたお陰で助かりました。タクシーの運転手に聞いて大体の見当が付けられましたから、後は簡単でしたよ。この辺は区画がすっきりしていますからね。」
「ああ、ではこちらへはタクシーで?」
「いや、昼過ぎ遅くにマニラ空港に着いて、そこで遅い昼食を摂ってからタクシーを拾ってホテルへ直行したんですが、その途中一寸だけ寄り道しましてね、その序でに確認しておいたんですよ。」
「ああ! ではでは市内の観光などはされていないのですね。残念です。時間が有れば私自身メトロを案内して差し上げたいところなんですが、何分ね。」彼の交える身振りは控え目だが的確だった。「御旅行中だとお聞きしましたが、今までどちらへ? ああ、宜しければですが。」
「何、構いません。ここに来る前は二日ばかりバンコクに居ました。」
「それはそれは。お急がせして申し訳有りませんでした。」
「いえ。こちらも特別急ぎの用事が有った訳でもありませんから。ここへは良く来るんですか。」
「時々ね。私の事務所が直ぐ近くに有りましてね———私の根城ですよ、そこでするのではない方が良い商談の時は主にここを利用しています。良い店なんだが客は多くなくてね、それでも熱心な固定客が居るから保っている様です。主人には悪いが、その方がこちらには都合が良いのですよ。大丈夫、ここの主人は信用の置ける人です。
さてさて………。」
彼はそう言って小脇に抱えた薄手の鞄のチャックを開け、中から大きな白い封筒を取り出して、テーブルの上に載せ、それを私に差し出す仕種をしてみせた。
「それでは早速ですが本題に入りましょうか。これが私が手に入れた品物です。これを貴方に買って頂きたいのです。」
私が目だけで周りを見回し、少し躊躇う様な素振りを見せていると、彼は店の奥を指してこう続けた。
「どうぞ、中を見ても構いませんよ。ここがお嫌でしたらあそこに化粧室が有ります。遠慮は要りませんよ。」
私は封筒を手にしかけて次の様に続けたが、何故自分がこの段階で、会って五分も経っていないと云うのに、斯くもリスクの有る発言をしたのかは良く解らなかった。些か軽率な言葉だったとは思うが、相手を言葉によって試そうとする時、私は屢々酷くせっかちに、露悪的になってしまうのだ。
「私がこれを持って居なくなったらどうします? そちらは丸損ですよ。」
覗き込む私の瞳に、彼は破顔一笑し、両手の親指と人差し指で、長さ三〇センチ程の長方形を作ってみせてこう答えた。
「その化粧室にはこんな小さな窓しか有りませんよ。外には出られません。それからこの店の裏口はそっちには有りません。それに貴方はそんなことはしませんよ。」
「私を信用すると?」
「ええ。」
「私達はついさっき会ったばかりですよ?」
「それでも、直接会って少し話をしました。」
「自信がお有りの様ですね。」
そう言うと彼は少し真面目な顔付きになった。
「多少は人を見る目は有る積もりですよ、クロモリさん。それに私は職業柄、常に熟慮する余裕が与えられている訳ではありません。乏しい判断材料から決断を下さねばならないことなどしょっちゅうです。そう云う時はどうするかお分かりですか? 直観の導きに従うんです。これだ、と閃いたらそれに素直に従うんです。そうすれば、大体後悔しない結果が出せます。私はこの遣り方で結構上手くやって来たと思いますよ。」
「貴方の直観はどの位当たるんです?」
彼は少し考え込む様な素振りをしてから、「六五パーセントかな?」と言った。そこで私も笑顔を見せた。私の中には、少なくとも彼の人柄に関しては、少しは信じてみようと云う気持ちが芽生えつつあった。だが彼には明らかに知性も有った。知性有る人間は屢々人を欺くものだ———自分自身も含めて。だが彼は微笑し乍ら続けた。
「大丈夫、貴方は私を裏切りません。貴方は小手先のトリックを使う人ではない。貴方の目はもっと遠くを見る為のものです。」
私は意外そうな表情を浮かべて、探る様に言った。
「ひょっとして、私の書いたものを読んだのですか?」
「少しだけね。」彼はそれだけ言って目を細めた。メールではあの件については、人から聞いたと云うことになっていたが、取引相手のことは良く知っておこうとする周到な職業意識の為せる術か、それとも単に好奇心が強いのか、ともあれ彼の確信に満ちた口調から判断して、彼が読んだものが一体どれなのか、私は疑おうとはしなかった。
暫しの沈黙の後、私は一応他の客には見えないよう持つ角度を気にし乍ら封筒を開け、その場で中身を取り出した。中には、大判の写真が七枚と、活字で何か書かれた書類が一枚入っていた。写真は白黒で、元々小さなものを大きく引き延ばしたものらしく、細部まで克明と云う訳ではなかったが、比較的鮮明だった。写っているのは一面の黒い塊———恐らくは大量の土砂と、それに冷たく光る、略同じ大きさをした球体と正四面体だったが、内一枚は四面体の方が殆ど切れてしまって球体だけが映っており、一枚は若干、もう一枚は大きくブレていた。順番がバラバラでどうなっているのか良く分からなかったが、どうやら二つの物体が土砂の上を転げ回っている一連の動きを撮影したものらしかった。書類の方はまちまちな人名リストで、名前の代わりに只線が引かれているものや、名前の後に電話番号やメールアドレスが記載されているものも有った。私は暫くの間、写真を何度も繰り返し仔細にに検分したが、やがて溜息を吐いてテーブルの上に置き、その上から書類を重ねて隠した。
「どうです?」黙ってレモンソーダを飲んでいたリャン氏はそう言って、目を輝かせて身を乗り出して来た。
私は一息間を置いて問い返した。「何処でこれを?」
「ああ、興味が出て来ましたか?」
「先ずは確かめたいだけです。貴方はこれに本当に価値が有ると………詰まり、これらが贋物や勘違いではなく、本物であると信じておられるのですか?」
「私がどう思うかなど、この際大して意味は無いのではありませんか。そもそもこれらの写真に写っている対象そのものについては、私は全くの無知ですし。私は貴方に、これらの写真について知り得た情報をお伝えすることは出来ます。それを聞いて貴方がどう判断なさるかは、貴方の自由です。貴方が価値が有ると判断すれば価値が有るし、そうでないと判断すれば、これは無価値と云うことになります。」
「成る程?」
「但、私自身の個人的な見解を述べさせた貰えるのであれば、ここはやはり食らい付いておくべきだと思いますね。誰かがこんな、誰も知らない様なものをでっち上げる為に合成写真を作るとも思えませんし、ここに写っているこの二つの物体の外見は、」と彼はそこで少しだけ声を潜めた。「見た限りでは貴方の言うところの〈皇帝とその一族〉の描写に良く似ている様に思います。これはひょっとしたら彼等を追う手掛かりになるかも知れません。それに、結果的にこれが無価値な情報だと判ることになるとしても、とにかく先ず試してみないことには何事も始まりません。殊に、手に入る情報の量が極めて限られているとあってはね。真実に至る可能性は全て当たってみるべきです。」
勘所を衝く売り口上だったが、その口調には茶化したり調子に乗ったりする様な感じは無かった。私は椅子に腰掛け直して先を促した。
「結構です。お話しを伺いましょう。」
「そうでなくては、メール一通でわざわざ三千キロも旅をして来た甲斐が無いと云うものです。」彼は大きく手を振ってみせた。
「では何からお話ししましょうか。
おおそうだ、まだきちんと自己紹介もしていませんでしたね。私の仕事を先に説明しておきましょうか?」
「筋の通った話であれば、それは後でも構いませんよ。」
「解りました。では順番に話すことにしましょう。」
「その、出来るだけ詳細にお願いします。」凡その背後の事情は予め調べておいた積もりだったが、話が詳しくなればそれだけ頭の中で事実関係を検証をすることも容易になるだろうとの見込みからだ。
彼は全くベースを変えずに話を始めた。「では、この写真が撮影された経緯から。先月の初め、チベット自治州に有る廃坑に成った炭坑で大規模な爆発が起こったことは御存知ですか?」
「ええ、ニュースで読みました。確か過激派の反乱分子が隠していてた爆弾が誤って爆発した、と云うことになっていましたね、公式には。」
「ええ、中国当局の主張ではそうなっています。ですが色々と不審な点が多くてね。先々月同じくチベットで数千人規模のデモが有って、僧侶が三人殺害されたことは御存知ですか?」
「それも読みました。」
「そのデモが起こった町と問題の廃坑と云うのが、………いや、一寸待って下さい。」
彼はそう言って鞄の中からノートパソコンを取り出してカチャカチャ弄り始め、少しして地図の映った画面をこちらへ向けて話を続けた。
「見て下さい。ここがデモの有った町。そしてここが爆発の有った廃坑。直線距離にして五〇キロも離れていません。フィリピンや日本の様な土地で、特にこの様な大都市部で五〇キロと云ったら結構な距離になりますが、チベットは広いですからね、目と鼻の先も同然です。この爆発事件の後この辺一帯で、テロへの警戒と云う名目で規制や弾圧の強化が行われました。詰まり中国側にとって、この爆発は大変次都合が良かった訳です。爆弾を持った危険な連中がうろうろしているとなれば、強引な捜査や尋問を行い易くなりますからね。これが………」
彼はまた違う映像を出し、大勢の狂乱する人々が映った写真を何枚も私に見せた。
「これがデモを起こした人達です。迫害され、生きる権利を奪われた人達です。ここのチベット民族と云うのは、アメリカのレッド・インディアン並に追い詰められた無力な存在ですよ。爆弾どころか、小銃さえ持っていません。彼等の殆どは物理的な武器など何も持ってはおらず。精々が投石が良いところです。彼等が掲げている白い布がお判りですか? これは降参を意味する白旗ではありません。チベットの伝統的な民族衣装を象徴したものです。これが彼等の武器です。僧侶達の様な曾ての君臨し搾取する側の特権階級であった者達にはまた別の思惑も有りましょうが、そうでない大部分の人達は、安全な暮らしと誇りを手に入れたいだけの、概して平和を愛する普通の人達です。決して流血を望んでいる訳ではないのです。付け加えるなら、三人もの人間が殺され、何十人も負傷者が出ているのに、警官隊の方からは死傷者は発表されていないのです。」
私はその脱線的な見解にすっかり同意する訳ではなかったが、先を続けさせる為に特に何も言わなかった。
「爆発事件の方の報道にも奇妙な点が幾つか有ります。先ず、報道された事実が極端に少ないことが挙げられます。当局は最初は過激派の仕業と断定しましたが、その根拠となる様な具体的な証拠は何ひとつ提示していません。まともな捜査が進めば、その『過激派』とやらは何処の誰で、どの位の規模と背景が有って、何を目的として活動しているのか、少しは判明しても良さそうなものでしょう。ところがこの件に関しては報告は全く為されていません。続報が皆無なのです。そうした絶対的な情報量が大いに不足しているにも関わらず、現地は安全確保の名目で一切の立ち入りが禁止されていて、今もそれが続いています。マスコミが入れないんですよ。詰まり全く民間の調査が出来ないと云うことなのです。
ですから、これは思想弾圧をやり易くする為に中国が行った自作自演の事故だとうと云う見方も強い訳です。何しろ写真や映像がひとつも公開されていないのですからね、この情報時代におかしな話です。そもそも爆発そのものが本当に有ったのかどうかさえ定かではありません。報道に携わる者の端くれならば、事の真偽を確かめたいと思うのが当然でしょうが、正規のルート、詰まり、中国政府が許可した枠内での取材が絶望的と来ているのですから、まともな方法でぶつかって行ったのでは何ひとつ出来ないでしょう。
そこへ目を着けて商売しようと云う者が現れました。地元に住む少年です。年は十五。リストの一番上に有る名前がそれです。彼は何処からか旧式だけれども性能の良い隠しカメラを手に入れて、事件の三日後、現場を訪れて、計十五枚の写真を撮りました。一般に公開されている現場の写真は当局が発表したものしか有りませんでしたから、ニュース価値は有ると考えた訳です。隠しカメラが使い難かったのか、そもそもカメラと云うものを使い馴れていなかったのか、構図が滅茶苦茶だったりピンぼけだったりしたりしているものも有りましたがね、具体的にどうやって撮影したのかは判りません。実際の写真から判断する以外に無いのです。」
「残りの写真は何処です?」
「詳しくは追って順に話しますが、今はもう他の所へ売ってしまったのでここでお見せすることは出来ません。ですが写っているのは比較的近距離の土砂と瓦礫の山ばかりです。それぞれに位置関係すら不明なものばかりなので、貴方が見たとしてもお役に立つかどうかは疑問ですね。」
「詳細は判らないと言いましたが、本人に話を聞くことは出来ないのですか? 連作先の欄が空白に成っていますが。」
答える口調はその内容に比して酷くあっさりしたものだった。「ああ、それはもうどうしたって連絡の取り様が無いからですよ。彼は死にました。殺されたんです。この写真を撮影した二日後に警官達と小競り合いに成りましてね、一緒に居た者達と共に殴り殺されたんです。この一件はニュースには成りませんでしたから、当然御存知ないでしょう。情報は非公開になっているので、詳細は不明です。」
「貴方はどうやってその件を知ったんです?」
「その写真を次に手にした方が確認しました。リストの二番目、地元の新聞記者です。」
「名前が空欄に成っていますね。」
「危険だからです。そこに書いてある連作先も、直通のものではありません。連絡先の下の方に書いてある単語が謂わば合い言葉に成っていて、会話の中にそれらを織り込めば意図は通じます。彼は少年が亡くなる前日にその写真を買い取りました。少年が殺された件も、彼が現場へ行って確認したと云うことです。一応こっそり彼の両親を探し出して探りを入れてみたそうですが、二人とも彼の秘密のアルバイトについては本当に何も知らない様だったそうです。彼はその写真を自分で記事にしようなどと愚かな真似はせずに、直ぐに知り合いの別社の記者にそれを送りました。何処だと思います? 何と新華社通信ですよ。リストの三番目です。こちらの連絡先も直通ではなく、名前も偽名です。私も本名は知りませんが、それなりの地位に居る人物であることは間違い無い様です。当然そちらでも記事になど出来る訳が無いので、彼は裏技を使いました。御存知かも知れませんが、これは検閲や規制の厳しい国では良く有ることなのですが、何か素っ破抜きたい事実が有って、自国では報道するのが難しい場合、その情報をわざと外国のマスコミにリークするんです。これが出来るのは或る程度のパイプを持っているジャーナリストに限られますが、運が良ければ外国のメディアには載りますし、更に条件が良ければ、例えば『アメリカのニューヨーク・タイムズではこう報じた———』と云った具合に括弧付きの記事として、国内でも報道することが出来る様になります。今度の場合、新華社の彼は先ずリストの四番目に有るロイター通信社の社員に接触を試みたのですが、そこでは受け取りを断られました。これは政治的な思惑が有ってのことではなく、単純に写真のニュース価値が低いと判断された為の様です。実際のところ、現場写真とは云っても素人が手探りで写したものですからね、情報としては可成り断片的で、事件の様子を伝えるものとしては些か纏まりが無さ過ぎたのです。ですがロイターの方では一応中国国外のマスコミに打電して買い取り先を探してくれました。買い取ったのはシンガポールの中規模の新聞社で、広告主に阿らない、独自の調査網で知られる所です。担当者はリストの五番目の方だったのですが、ここでも買い取ったは良いが結局記事には成らないと結論が出た様で、私に買い取り先を探してくれと依頼して来ました。」
「成る程、そこから私に辿り着いたと云う訳ですか。」
「そう云うことです。」
「残りの写真は今何処に?」私は再度尋ねた。
「或るネット新聞社が買い取りましたよ。元々金の無い所なので酷く買い叩かれましたがね。条件が揃えば何れ何等かの形で日の目を見ることになるでしょう。そうでなけれは………。」彼は手でものが沈み込んで行く仕種をして見せた。「かの少年の数少ない生きた証は、闇の中で風化して消え去ることになります。」
「その連絡先は一番最後のものですか?」
「そうです。サイトのアドレスも書いておきました。ですが一応念を押しておきますが、向こうに渡した写真には本当に土砂と瓦礫しか写っていません。はっきり言って、全体的な破壊状況を判断する材料としても力不足なのは否めません。ここにある写真との関連性も不明です。飽く迄、私共が検べた限りに於ては、ですが。」
「そうですか。」
私は再び写真を手に取って一枚ずつ見乍ら、目を離さずに続けた。「貴方の方でそれらのスキャンデータか何かを取っていないのですか?」
彼は肩を竦めた。「取引の内容の全てに記録を残しておきたがったり、バックアップデータを手許に残しておきたがる人も居る様ですが、私は死者は一度死んだらそっと墓に埋めておく性質でして。」
「その写真を売ったのは何時のことです?」
「五日前です。未だ写真が掲載されている様子はありません。ボツになったのかも知れませんが、何等かの理由で公表を遅らせると云うのも良くあることです。」
彼はまたパソコンをカタカタやると、問題の新聞の画面を話に見せてくれた。
「どうします? 若しそちらも買い取りたいと云うのであれば、交渉の依頼を受けても良いですよ?」
私の目の中を覗き込んで来る、小さいが大きく見開かれた目を覗き返すと、私は暫し返答に詰まった。この男は嘘を吐いている様には見えないが、本当に信用して大丈夫なのか、確認調査をする手間とそれによって得られるもの、或いはその行為が呼び込むであろう危険の大きさ、彼の話が本当だった時。嘘だった時、それぞれの場合に於ける脅威の具体性———そうしたことどもを巡る逡巡が、未だ私の中で確とした落ち着き先を見付けてはいなかったのだ。だが結局は私は彼との取引を成立させることにした。若しこれがインチキな与太だったとしても、空想癖の激しい間抜けが一人出来上がるだけだ。だが仮に本当だとしたら笑い事では済まない。肝心の目撃者が既に死亡しており、証言すら遺されていないと云うのでは、どの道賭けに出るしか無いではないか? 人類の世界に対する重大な脅威、広大なる地球の歴史の恐るべき暗部、生命や知性についての根本的な再定義を我々に要求して来る純然たる驚異………仮に問題の爆発が中国政府が起こしたものだとしても、当局は彼等の存在に気が付いているのだろうか。気付いていないが、それとも発見してもその重要性を理解出来ていないと云う可能性は、当局が彼等に目を付け、何等かの形で利用する為に研究しようとしていると云う可能性に比べて、どれだけ高いのだろうか。そもそもあの爆発や事故現場との関連性は何だろうか。炭坑が元々彼等の棲息地か、或いは通り道と繋がっていて、爆発のショックで偶々焙り出されて来たのだろうか。それともあの爆発は彼等を焙り出すのが目的で引き起こされたものだのだろうか、それとも爆発の原因となったのが彼等自身であると云う可能性は無いだろうか………まさか当局に深層を問い質せる訳も無し、況してや現状で現地へ調査に赴くことなど自殺行為だ。手に入る情報は、仮令それがピンボケの写真一枚だったとしても、確実に手に入れ、こちらの判断材料を増やしておかなければならない………。
これらのことを頭の中で素早く検討すると、私は余り間を置かずに口を開いた。「お願いします。今日と同じ位の額であれば代金の方も問題有りません。交渉が必要なら応じます。進展の報告は今日と同じアドレスへ。それから………。」私は一度口を閉じ、目を伏せてから再び彼の目を見て続けた。「今日の件に関して。他に何か関連する情報が手に入る様であれば、今後も仲介をお願いしたいと思うのですが。」
彼は頬の笑みを大きくするとこう言った。「ああ! 実はもう随分昔のものになるのでしょうが、鉱山の方で作った地質調査記録が手に入るかも知れません。単なる地図ではなく、試掘や採鉱後の詳細な結果等も記載してある筈のものです。この辺の鉱山は大抵露天掘りで、掘ったら掘りっ放しのものが多いですからね、これは比較的恵まれていますよ。鉱山自体は廃坑に成っていますから今では歴史的な資料でしかありませんし、現在も別に所謂過激派の拠点になっていると云う訳でもありませんから、戦略的な価値も有りません。入手はそれ程難しくはないと思います。」
その申し出は瞬時に私の想像力を強く刺激した。若しその坑道の何処かが人間の与り知らぬ地下に潜むものどもの活動領域にぶつかっていたりしたら、驚異を垣間見る為の入口が確認出来るかも知れないのだ! 一方で、現場は既に大量の土砂と瓦礫のな中に埋もれていて、仮令そこの地下に入口が存在していたとしても、もう入れないであろうし、障害物を撤去して入口を探すには、個人の力では荷が重過ぎること、第一マスコミすら立ち入りが禁止されている現状では、現場の近くに寄ってみることすら出来ないであろうと云う認識が、過度の期待は禁物だと戒めていたが、少なくともこれが私自身が初めて摑んだ手掛かりかも知れないと云う事実は、私を興奮させずにはおかなかった。
「入手経路を訊いても良いですか?」慎重に声を抑え、努めて平静を装い乍ら私は言ったが、その抑制は若しかしたら向こうに気付かれていたかも知れない。
「リストの二番目の方が手に入れてくれることになっています。当局の検閲の手が及んでいなければ昔の記録は地元の資料館で簡単に手に入るでしょう。但、最新の詳細な地図も付けるとなると、場合に依っては鼻薬が必要になるかも知れません。」彼はこう答えた後穏やかに私の方を見詰め乍ら、また暫く黙り込んだ私にそれ以上売り込みをするでもなく、凝っと私の答えを待っていた。
私は警戒を完全に解いた訳ではなかったが、彼を信用しても良い様な気がした。基本的に独立独歩、一匹狼で動く私はそれ程広い情報網を持っている訳ではないが、彼は顔も広い様だし、その活用の仕方も心得ていて、代理人として有能だろう。それに必要に応じて駆け引きは出来るのだろうが、少なくとも私に対しては正直に判断材料を提示した方が話が早いことを理解している。それに、世間のジャーナリストに有り勝ちな、下世話なところや即物的なところ、或いは信念過剰なところや逆に過度に世間擦れしているところが、彼の言葉や表情や仕種から発せられる全体的な雰囲気の中にはそれ程感じられないと云うのも気に入った。それに話がここまで順調に進んだと云うことは、向こうも私のことを信用出来る取引相手と見做していることを意味してはいないだろうか。友人にしたいタイプとはまた少し違うが、取引相手としては上々だった。私はこの際、彼の利用価値に賭けてみようと肚を決めた。
「………解りました。先ずはこの仕事、お願いしましょう。」
私が小さく頷いて依頼を口にすると、恐らく彼の方でも返答は判っていたのだろう、その後はてきぱきと料金と必要経費の限度、商品の送付方法、後金を払う前に商品の内容を確認した場合の連絡方法等を取り決めて行った。そして私は一度トイレに立ってから、今月分の代金を入れた封筒に次回用の前金を追加して彼に渡し、写真が入った大判の封筒と、裏に幾つかのメモの有る名刺を受け取った。彼は封筒の中身を改めなかったが、それを指摘すると「必要有りません」と言って笑い、手を差し出して来たので、私は黙ってそれを握り返した。その手は少しざらざらして、僅かに湿っていた。
「貴方は先に出て下さい。私は後から出ます。ついでに片付けておきたいことも有るのでね。」彼はそう言ってノートパソコンを手で示した。そして私が立ち上がろうとすると思い出した様に「ああ、お勘定は結構ですよ、コーヒー代は私が払っておきますから」と言い、私が口を開く前に、膝の上に置いていた封筒を入れた鞄をトントンと指先で叩いてこう続けた。
「どうせ貴方の財布から出た金です。」
私は微かに笑みを見せて小さく頷き、その儘喫茶店を後にした。扉を開けるといきなり腹立たしいまでの熱気が襲って来たが、真っ直ぐ宿へと向かう私の頭の中では、地図の精度を確かめるためにはどの筋を当たれば良いかとか、写真を分析して貰うために吉岡君に連絡を取ってみようかとか、現場一帯の地質状況を正確に知る為にはどの資料を調べれば良いのかとか、そんなことばかりで一杯だった。