崩壊する惑星と、命と、僕ら。
孤独――訪ねるにはよい場所であるが、 滞在するのには寂しい場所である。(ヘンリー=ショー:生没不明)
眼前の空が、異様に赤い。
僕とノアは今、荒涼の岩石砂漠に屹然として構える彩色の台地群の上にいる。この台地群では、虹の色彩を深くしたような土が、幾本も佇む台地、残丘の側面で、地層のように帯を成している。僕らは、その台地群の中でも最東端にある台地に登って、さらに東に見える草原地帯を俯瞰していた。
向こうに茂る広大な草原は、かつて見た時、天頂で照る黄金の月と調和するように、黄金色の草本植物が生い茂っていた。また、そこにアカシアが松葉色の冠を被って点在し、その辺りをシマウマや象、ライオンなどが肩を並べて、放浪、安眠していた。つまり、そこらの区域は、夜に映えるサバンナ地帯だったのである。
だが今、それらの景色は著しい変様の中にある。極東から額を覗かせて煌々と焼け盛る太陽が、そのサバンナを無慈悲にも、赤く染め荒らしていた。
特にこの台地から見ると、その光景がはっきりと見て取れる。僕らの視界の先では、赤橙に燃える草原が陽炎に揺らぎ、人間的意志と知能を得た数々の動物達の黒い影が、真っ赤に照り輝く太陽を背にそこを闊歩していた。
本来ならば、数百年に一度しか見る事のできない絶景。長き夜の明けと、感嘆すべき赫焉の景色だ。
今、朝焼けに揺蕩う動物達にとっては、恐らくこれまで何度も見てきた光景なのだろう。しかしだからと言って、この美しい赤の景色が、そう簡単に軽くあしらわれてしまうような、在り来たりで、価値の薄い物では無いはずであった。彼らは、幾分気の遠くなるような時間の中で生活している。また、この惑星での日の出の周期は長い。それ故に、彼等が長い夜の内に焦がれた太陽への想いは、決して蔑にされてしまうほどに有り触れた物ではないはずなのだ。ところが、そんな久しい陽の光に中てられた動物達の足取りは、この遥か離れた台地の上でも感じ取れてしまうほどに、悲しげで、絶望が顕れていた。
今、僕の隣でも、ノアが愕然の表情を浮かべながら、彩色の地べたに立て膝をついている。彼女も、彼らと同じくして、この光景に絶望していたのだ。美しく整った顔を涙に歪めて、マシュマロのように白く柔らかい四肢に硬い骨を強張らせて、何千年も欠かさず梳かし続けた美しい黒髪を掻き乱して、ただ悲しみに打ちひしがれていた。
泣いている。
彼女も、この世界も。
どうやら、この惑星はもう暫くして崩壊してしまうらしい。
彼女が何万年と寄り添って、安寧を保ってきた世界が、冷徹で厳格たる物理法則によって、人文の栄華と共に砕けてしまうらしい。
ノアも、目の前の動物達も、どうしようもないほどに歪んでしまった世界に悟ってしまったようで、ただ茫然として、涙を流すしかなかったのだ。
獣達の慟哭が、草原のみならず、四方八方の至る所から聞こえた。どれも、受け入れられざる運命に悲嘆する想いを語っていた。
僕はどうしたらいいのだろう。何故運命は僕らを裏切ったのだろう。
誰か、知ってるなら教えてくれないか。もし、この世界を救える方法があるならば、彼女とこの惑星を救う方法があるならば、僕らが歩むはずだった運命を取り戻せる。
……虚空に哀願しても意味無いか。
僕は、壊れ行く世界を視界に据え、そして目を閉じる。瞼の裏は暗黒――ではなかった。日の光が透き通って仄かに赤い。両目が少しずつ熱せられていくのを感じながらも、僕はこの世界を反芻した。
貝殻の塔。
神殿カタストロフィ。
要塞プラネタリウム。
迷宮フィソロフィ。
哀惜に濡れた森。
彩色の台地群。
砂波に揉まれる洋琴。
――あと何があったっけ。
僕は、彼女との旅路に訪れた数々の神聖なる地と、それに関する知識を、思い出せる限りまで引っ張り出す。それと同時に、ノアと過ごした奇妙で神秘的な生活が思考を覆っていく。脳裏に映る、彼女の表情、仕草、想い。振り返って見れば、彼女は全てこの惑星のように美しかった。
「……壊れるなんて有り得無い」
ノアの魅力に奪われつつあった思考が、突如、左耳に劈いた彼女の呟きによって掻き消される。横を見れば、未だ立て膝をつき、髪を乱れさせ、前を見据えながらも泣きじゃくる彼女の姿があった。
「だって……、だって貴方は現にここにいるじゃない……! 貴方がここで死んだら、この惑星はいったい何なの、どこから生まれたの!?」
喚き声が、台地帯に響く。噦りを抑えて叫んだ声は、次第に息を切らして弱り、やがて咽び声へと変化する。そして、立て膝をついていた姿勢は壊れ、その妖艶な体躯はべたりと地面に倒れ臥した。顔を自らの陰に隠し、僕に聞こえるか聞こえないか程度の声で訴える。
「それは私にも言えるわ。私も……私も何者かわからない……! 」
言い切ったときに、ノアはちらりと僕を一瞥した。その瞬間に、彼女の目尻が、赤く腫れていることを確認した。それが、周りの赤い世界によるものでは無いことは明らかだった。
「……一つだけ言える事があるわ。ただ、それは信じたくないの。本当に、信じたく無いの。」
彼女は僕の横から、少しずつ離れた。まるで、だんだん僕を拒絶するように。何か大きな溝が生まれてしまったかのように。
彼女は臥せていた体を起こしたが、顔だけは決して上げようとしない。恐らく、口を噤み、心に充溢した思いが、感情的に発露するのを躊躇っている。
僕は、そんな彼女を見兼ねて「いいよ。そんな溜め込まないで。僕らには時間が無いんだ。好きに言ってくれていい」と、彼女の想いを鑑みず、軽率に促してしまった。
彼女は、不安に開閉する唇を止めて、下唇を噛む。そして、僕を見据えた。顔の右半分の表情は、太陽の光を受けて赤く悔しがっているようだった。もう半分は逆光を受けて暗く、悲しんでいるようだった。
彼女は一筋、涙を頬に垂らした。そして口を開く。
「……貴方、偽物なんでしょ?」
その涙ぐむ声は、告白する間にも、言うのを躊躇っていた証拠だ。
彼女は、だってそれならこの運命の辻褄が合うもの、と再び顔を伏せて、嘲るような声で小さく付け足した。その嘲りは、彼女自身への卑下なのか、僕への侮蔑なのか、その真意は分からない。ただ、彼女の胸を刺すような、鋭利で重い言葉が、僕の心に深い切り傷を付けた。心は形而上の存在だったはずだ。でも何でだろう。それが酷く脈を打って、どす黒い血が溢れているような気がしてならない。
僕は、知らぬ間に両目を濡らしていた。
赫々たる、眩しい光を浴びた頬は熱い。そこに、僕の心情をそのまま顕したような、凍てつく涙が垂れた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
続き、頑張ります。