エレクトロ ガールフレンド 〈前編〉
帰宅途中の夜空が綺麗だった。眩く輝く月に足が止まりそうになったが、止まらずにさらに歩みを早めた。彼女が待っているマンションに戻らなければ。
「おかえり~」
オーディオプレーヤーの前に座ったまま風花が振り向いて言った。
「ただいま」
「今から夕飯出すから待ってて。今日は味噌煮込みうどんだよ、お汁は作ってある。それから貴くんはそれだけじゃ足りないと思うから、ツナ丼も作るよ~」
風花はつけていたイヤホンを片耳だけ外して言った。
「ありがとう、楽しみだよ」
心からの感謝を述べて僕は立て続けに口を開く。
「あのさ、夕飯食べたあと散歩しない?今日月が綺麗でさ、風花と見たいと思って早足で帰ってきたんだ」
「そうなの、すごく見たい。早く帰ってきてくれてありがとう」
風花は歯を少し見せながら柔らかな笑顔で言った。風花はオーディオプレーヤーの電源を切ってキッチンに向かう。短くてカールがかかったような癖っ毛の後ろ姿を見て、胸が溶けそうになった。
夕食を食べ終えて一息ついてから風花に「行こうか」と促した。風花はにこりと笑みを浮かべた。
低い音でじりじりと鳴く虫が聞こえる。聞くたび何という名の虫なのか気になるのだが、何度かそう思っているのに未だ調べることはしていない。
繋いでる風花の手が夜なのにはっきりと見える。白くて子供のような丸い形の手。
「貴くんの言った通りだね、本当に真ん丸できれい。こんな風に月を見るためだけに外に出たの、幼稚園生のとき以来かも」
「僕もそうだよ」
12月なので外はとても寒く、吐息が凍ってしまうようだった。僕も風花も厚手のコートを羽織っていた。
「冬の月が綺麗に見えるのはね、気温が低いために水蒸気が少ないからなんだ。水蒸気が少ないと、月がぼやけて見えることがないんだよ」
「へぇ~。確かに夏の月はこんなに真っ白には照らしてくれないよ。少し濁ってる気がする」
「はは、濁ってるか」
自販機で風花にココアを買い、自分はコーヒーを買った。かじかんだ指先が溶けていく。風花がほぉっと空中に息を吐いて煙を作った。
「今日のこと、おばあちゃんになっても忘れない。貴くん本当にありがとう」
風花がはにかむように笑った。僕は泣きそうになった。コーヒーを持った手元の温かさみたいに、儚い瞬間だと感じたからかもしれない。そうしてまた手を繋いで行きの道をゆっくりと引き返した。
「ただいま~」
夜の8時、風花が帰ってきた。
「おかえり」
「今日はお客さんがなかなか帰らなくて、お店の片付けが遅くなっちゃったの。ごめんね」
「お疲れ様。風呂洗っておいたよ。今日は金曜日だしどこか食べ行こうかと思ってたんだけど」
「うん、わたしもそうしたいと思ってた。とんこつラーメン食べたい」
「ラーメンでいいの?給料入ったばっかりだし、焼肉でもと思ったんだけど」
「お肉もいいね。いっぱい食べていい?」
「もちろんだよ」
風花が両手を上げて「わーい」と言いながら喜んだ。僕は笑った。
お腹を満たしマンションに帰ってきた。真っ先にストーブをつけた後、風花がほうじ茶とアイスを出した。
「食後のデザートどうぞ。それね、最近発売された新商品ですっごくおいしいの。食べてみて」
風花が太鼓判を推すアイスは、「フェアリーカップ リッチミルクティー」という商品名のカップアイスだった。スプーンでつつくと柔らかく、奥まですんなりとささる。口に入れるとふわりとした食感の後とろりと溶け、濃厚なミルクティーの味が舌から広がった。
「おいしい。ミルクティーそのままをアイスにしたみたいだ」
「でしょ」
風花は焼肉屋でたらふく、特にネギ塩タンを飽きるまで食べ、ご飯を大盛りかきこんでいたのに、それでも胃にまだ全然隙間があるとばかりに、アイスを次々と素早く口に運んでいた。
僕はそんな風花を横目にテレビをつけた。これといって観たい番組はないけれど無音より落ち着くし、テレビを眺めるのが暇な時のいつもの習慣だった。風花はアイスを食べながら僕の横で無表情にテレビ画面を見つめていた。アイスを食べ終えると風花は立ち上がって風呂を沸かしにいった。戻ってくるとオーディオプレーヤーの前に座りこみ、イヤホンを装着した。風花は最低でも1時間以上はいつもああやって音楽を聴いている。風花の暇な時の習慣は、テレビに代わって音楽を聴くことだった。
風花は雑誌の挿絵を書く仕事をしている。挿絵を書くだけで生活ができるほどの依頼は無く、個人経営のカフェでバイトをしながらで、イラストレーターとしての仕事は実質副業だった。そして風花は、自分のイラストや本を展示したカフェを開くという夢があったので、カフェのバイトも日々勉強しながら一生懸命働いていた。
風花は音楽からイラストのイメージを湧かせるらしい。だから暇さえあれば音楽を聴くそうだ。
風花はいろいろなCDを持っているし、ウォークマンには僕の知らないミュージシャンの名がたくさん連なっていた。特にテクノやハウスなどのダンスミュージックが好きなようで、最近僕もダフトパンクというグループを勧められたので聴いてみた。曲調の幅の広さに感心し、何曲かがかっこいいなと思った。しかしそれ以上深く知ろうだとか、もっと違う音楽が聴いてみたいだとか、そこまでは思えなかった。僕は元々音楽にあまり関心がなく良く聴いたといえば、学生時代にMr.Childrenを通学中に聴く程度だった。風花にそれを話したことがあって、
「ミスチルかぁ~。わたし、ミスチルのPADDLEが好き。すごく元気が出る曲だよね、何回も聴いたよ。暗い曲もいいよね、ALIVEって曲。あの暗闇から光に導いてくれるようなメロディーと歌詞がぎゅっと…久しぶりにわたしも聴きたくなっちゃった」
と熱い返答が返ってきた。それが意外だったので印象に残っていた。
テレビから流れるのはバラエティー番組。芸人が笑い声や野次を飛ばしている。あまり面白くなくチャンネルを回し、クイズ番組に変える。最近はトーク番組やクイズ番組ばかりだ。内容は退屈だけれど億劫ではない。ぼんやりとすることが目的で、そんな時間が嫌いではないからだ。
風花の後ろ姿を見る。固まったままじっと動かない。彼女は今どんな音楽を聴き、どんな世界を巡らせているのだろうか。
僕は同棲を始めたばかりの頃、テレビじゃなく音楽をつけていいよと言ったが、風花は大丈夫だと首を振って「毎日音楽つけてても隣の人たちに苦情きちゃう。あとね、わたしイヤホンで聴くのが好きなんだ」と言った。だから毎日ずっとこんな感じで、それが当たり前になった。決して仲が悪い訳ではないが、一緒のソファに座り一緒にぼんやりと時間を共有することがほとんどなかった。
僕の今まで付き合ってきた恋人達の中で、風花みたいな子はいなかった。どの恋人も一緒のソファに座って一緒の時間を過ごした。退屈な時間が流れたときは僕を見つめて甘えてきた。そんな風に過ごすことが、僕の横に彼女が座っていることが、普通だとそれまで思っていた。何が「普通」だと決めつけてはいけないと風花に出会って思うようになった。「普通」の基準は人それぞれで、他人が口出しするものではないのだと。
土曜も日曜も風花はバイトに行った。日曜は昼下がりにパンとケーキを持って帰ってきたのでパンを一緒に食べた。
風花は早く帰ってくると挿絵の作業にかかり始める。風花の絵は優しいタッチの柔らかな絵柄だった。それは風花の人柄、そのままを表すように。
CDデッキの上にインディーズバンドのCDが置いてあった。今はこのCDがお気に入りなのか、オーディオプレーヤーに差しっぱなしのイヤホンをそっと両耳にはめる。歌の入ってない、アグレッシブな演奏だけが響く。ギターの音もベースの音も荒々しく鳴っているのだけれど、ところどころの電子音のメロディが物悲しさを漂わせている。
「その曲いいでしょ。そのバンドのライブ行って泣いちゃったの」
風花がココアを両手に僕の後ろにいた。
「風花が泣いちゃったのも分かるな。泣き叫びながら笑っている感じの印象が切なくなるね」
「ふふ、嬉しい感想。貴くん、今度一緒にライブ行こうよ」
「ライブかぁ。行ったことないな」
「楽しいよ。行ったら絶対元気もらえるよ。行って良かったーって思うよ」
「そうか。じゃあ風花、今度連れてってよ」
「うん」
風花がにこりと笑いながら頷いた。風花が作ってくれたココアを一緒に飲んだ。飲み終わると風花はまた作業しに別の机のほうに戻っていった。苦しそうにこめかみを作って絵を書いている風花の様子を見て、僕は邪魔になるだろうと「出かけてくる」と言い、電車に乗って隣の駅の大きい本屋に行った。特に欲しい新刊が出た訳でもないが、何か良さそうなタイトルがあれば一冊買って一階のカフェで読もうと思った。
日曜なので本屋には人がいた。一階のガラス張りのオープンテラス付きのカフェも、席はどこも人が埋まっているように見えた。
最初、マンガコーナーに行くがこれといったものがなく本書コーナーに移動する。途中音楽雑誌のコーナーを通ると、風花が好きだった気がするバンドの表紙が目に入った。
サスペンスフェアのコーナーに立ち止まって一冊手にとったとき、斜め後ろから呼びかけられて振り返る。
「貴教、だよね?」
一瞬呼びとめられた声に驚いて頭がフリーズしたが、しばらくして思い出す。
「恵?」
「当たり」
恵は大学時代のテニスサークルのマネージャーだった。会うのはサークルの飲み会以来で3年ぶりだ。
「久しぶりだなー。恵は今この辺に住んでるの?」
「そう。転職して商社の事務やってる」
「そうなのか」
「聞いたよ、貴教同棲してるんでしょ、新しい彼女と。何人めよ、これで」
「なんだよ、その言い方。まるで僕が遊び人みたいじゃないか」
「遊び人とは言わないけど、貴教昔からモテてたじゃん」
「そんなことないよ」
恵はさばけた口調が特徴の、気さくでさっぱりとした性格だった。久々に会ったというのに乗っけから恋愛の話に突っ込んでくるあたりが図々しいというか、さすがだと思う。
「はいはい。で、どうなの?今の彼女とは」
恵の言葉に、風花の姿がぽうっと浮かぶ。
「いい子だよ、すごく。尊敬することが多いよ」
自分の夢に向かって真っ直ぐに突き進む彼女の姿は眩しい。微動だにせず音楽を聴いているあの時間はきっと、頭の中に自分の世界を描いている時間。イヤホンから流れる電気を飲んで充電しているように見える。
風花の世界に自分もほんの少しでいいから入ってみたい。ほんの少しでも僕という存在を、彼女の世界を構築するのに使ってほしい。僕という存在を押しつけることは、彼女にとって邪魔なだけなのははっきりと分かっているのに。そう思ってしまう自分がひどく子供じみて嫌気がさすことがある。風花のことを想う、今この時も。
「大丈夫?すごく具合悪そうな顔してるけど」
恵の声で、ここが今本屋であることに気がついた。
「せっかくだからお茶しようよ。下にカフェあったよね」
「うん、でもそろそろ帰らないと」
「なによ冷たいわね。ちょっとだけでいいから」
恵はそう言って僕の手首を掴み引っ張る。連れていかれるがまま、カフェの席に座った。
「ブラック一つと、キャラメルラテ一つ。二つともホットで。ねっ貴教、コーヒーはいつもブラックだったよね?」
「うん」
「じゃ、それでお願いします」
恵が店員に笑顔を作りながら小さく頭を下げた。
「で、なんで元気ないの?」
恵が下から上へ、僕を覗きこむようにして言った。
「いや、元気だけど」
「嘘よ。彼女と上手くいってないんでしょ?」
「そんなことない」
僕は声を張り詰めて答えた。
「そう?苦しそうな顔してたからさ。ま、あんまり無理しちゃダメよ」
恵がそう言ったと同時に、店員がドリンクを運んできた。コーヒーの匂いが鼻をくすぐり、誘われるように白いカップに口をつけた。
「おいしい、キャラメルラテ。貴教のも飲ませてよ」
恵が言うのでカップをゆっくり皿と一緒にずらす。恵は僕が口をつけたほうを自分の前に持っていき、一口飲んだ。
「いい豆使ってるねこれ。ってほんとは豆の味なんて全然分からないけど」
べっと小さく舌を出して恵が笑う。
「本当に変わってないよな」
「あらありがと。貴教もあいかわらずイケメンだよ。鼻筋キレイ」
そう言って恵が僕の鼻を人差し指で触れてきた。
「さっきからなに。ふざけすぎ」
「ふざけてなんかないわ」
恵は目線を僕からずらしてキャラメルラテをすすった。そうして沈黙が流れる。周りは他にもお客がいたので、ざわざわと人々の話し声が沈黙の気まずさを和らげた。
ふとカフェに流れるBGMが耳に止まる。気になって、iPhoneのBGMの曲名が分かるアプリをタッチする。調べてみた結果の通り、風花が教えてくれたダフトパンクの曲だった。
「なにしてるの?」
恵が不思議そうに僕を見ている。
「今のBGMが気になってさ。このアプリに聴かせると分かるんだよ」
iPhoneの画面を恵に見えるように近づける。
「貴教、わざわざ音楽のこと知りたがるキャラだったっけ。驚いた」
「前はそうじゃなかったんだけど、彼女が音楽好きで詳しくて」
そう言うと恵が面白そうに口角を上げて笑う。
「へぇ、随分彼女に影響されてるのね。前の貴教からは考えられないわ。いつも女の子のほうが好きって貴教に寄りかかる感じじゃなかった、今までの恋愛」
「ああ、そうだったのかなぁ。でも今はそうじゃないよ。僕ばかり好きみたい。彼女はいつも遠くにいるみたいで時々、今まで感じたことのない気持ちになる」
「ふぅん、だからそんな疲れた顔してるんだ。別れちゃえば?追いかける恋愛なんて貴教、向いてないわよ」
恵が決定づけるかのように言った。
「疲れてなんてない。分かったようなこと言わないでくれるか」
語気が強く、大きくなっていたことに自分で驚いた。慌てて「ごめん」と謝りを入れる。
「らしくないね。出よっか」
恵は笑顔で言った。何かを含むような、胸をざわつかせる笑みだった。
店の外に出て、お互い沈黙のまま最寄りの駅まで歩く。ひと気がなくなってくると、恵が僕の腕を掴んで道の端に引き留めた。
「iPhone貸して」
そう言って乱暴に僕のコートのポケットに手を入れてきた。
「私の番号登録しておくから、何かあったら連絡してね」
口の端を歪ませるような笑みを作り、瞳のどこまでも黒々とした奥のほうを僕に覗かせるようにじっと見つめ言った。
「貴教がそんな顔もするって初めて知った。悔しいの私」
恵は未だ僕から視線を外さないままで。
「貴教のこと長い間好きだった時、あったから。…久々に会ったら再熱しちゃった。また会おうね」
恵はそう言って僕から離れて行った。その姿が小さく、見えなくなるまで、僕は立ちつくしたままだった。
〈続〉