3:ラジャの樹上
ジェライム・トライストは6番棟の森の中を歩いていた。
枯葉を踏む乾いた音が心地よく耳に馴染む。秋が深まってきたとはいえ、今日は日差しが暖かなために木々の隙間から漏れる光は明るく爽やかなものだった。
やがて、ジェライムは森の中央にある広場に出た。
ラジャの巨木も秋模様で暖色の色味を帯び、広場一帯に枯れた葉をこぼしていた。
この樹上だけが、幼き頃宮殿に訪れた自分が心からくつろげる唯一の場所だった。ひっそりとこの森に忍び込んではラジャの木を秘密基地として隅々まで登り伝ったものだ。
そうして傷だらけになって訪れた6番塔で、母は微笑みながら髪に絡んだ枝や葉を文句も言わずに取ってくれた。
あの頃が、自分にとって最も平和で幸せな時だったのかもしれない。大木に向かって歩きながらジェライムはそう思う。
だが、母はどうであったのだろう。
彼女は自分の前ではいつも笑みを絶やさなかった。
けれどダ・ラ・ヤーンとなった今、前任であった母の事を考える度に思う。もっと早く気付くべきであったと。
――ヤーンの正体を隠す本当の理由は、王族の最も濃い血を産み守るためにあるのだ。
気付いたところで何もできない事は分かっている。
だがせめて、母が籠の鳥だと知っていればその心を癒すことに専念できていたであろうに。
そう過ぎた事をつらつらと考えてしまうのは、それは――。
ザッ、ザッ。
四肢に力を入れジェライムはラジャの大木を登ってゆく。
「やあ――こんにちは」
下方にある枝の内側には既に先客が座っていたので、ジェライムは向かいの太い枝に腰掛けた。
「せっかく驚かそうとわくわくしてたのに……分かっていらしたの?」
残念そうな声を上げたのはシルワール――いや、こうして二人きりでいる間だけは『シルヴィア』という名の少女――であった。
「いつの間に木登りなぞ覚えられました」
「こっそり特訓しました」
誇らしげな顔でシルヴィアは言った。きらきらと輝くその瞳の色に、ジェライムは自然と母のそれを重ねて見ていることに気付く。
――そう。歳を重ねる毎に、日に日に彼女は若き日の母の肖像に似てきている。
「あなたが紹介してくれた侍女、本当に何でもできるのね。寝室のカーテンや柱を使って連日指導してもらったから、私、随分とお猿さんに近付けたと思うわ。
だって、ここならばきっとその姿でいらっしゃると思っていたから」
洗いっぱなしのぼさぼさ頭に適当な服、履き慣れたブーツの城外用の格好。それが今の彼の姿だった。
「もうすぐ出立されるのね……『ジェイス』」
寂しげにシルヴィアは微笑んだ。
「次はいつ、帰ってこられるの?」
「そうですね……貴女の誕生月より前までには」
「本当は、もっと6番塔にいて欲しいのだけれど……でもそんな我が儘を言っては駄目ね」
「貴女はもっと我が儘になるべきだ」
ジェイスは手を差し出し、それを掴んだ少女の身体を引っ張った。
「きゃあっ」
驚いて悲鳴を上げたシルヴィアは、次の瞬間軽々とジェイスに持ち上げられていた。
「一人で全てを抱え込んでは、壊れてしまう」
ジェイスはそっとシルヴィアの身体を隣に降ろして座らせた。
並んで座る眼前には、重なり合う緋色と黄色が混じった海からほろほろと葉の雨が降っている。
「――私ね、『お友達になって頂戴』ってあの侍女に言ったの」
その様を眺めながらシルヴィアは呟いた。
「あの人、とても好ましいわ。元気で逞しくて働き者で、物怖じしないし機転も効いていて。
今度ね、ショウバヅタのリースの編み方を教えてもらうのよ。出来上がったら6番頭塔の扉にかけておくわね」
「あれは未婚女性の家に飾るものですよ」
「あら、だって私の寝室に飾るわけにもいかないでしょ。ペアである『ヤーン』への贈り物、受け取って頂戴」
「はい」
ジェイスは苦笑しながらも了承した。
ほのぼのとした空気が流れる中、思い切ったようにシルヴィアが口を開いた。
「ジェイス……私、あなたが好き」
「私もですよ、シルヴィア」
(――違うの、そういう意味じゃないの)
シルヴィアは泣きそうになった。今のジェイスの言い方は、異性としてのそれではない。
『愛しているの』
そうはっきりと告げれば、そうしたら、彼はどんな顔をするだろうか。
まだ子どもとして見られているのかもしれない。
政では夫婦でありながらも、決して結ばれることはないのだと知ってはいても。
それでも、この偽りの日々の中、せめて育てた想いは本物なのだと伝えたい。
シルヴィアは顔を上げ、恋する相手に向き直った。
「ジェイス、あの、私――」
「シルヴィア」
ジェイスは遮るように名を呼ぶと、ぽんぽん、と少女の頭をなだめるかのように撫でた。
「土産は何がいいですか」
「…………あなたが傍にいてくれるなら……それだけでいい……」
シルヴィアはそう呟くだけで精一杯だった。