置き土産
夕暮れの丘を荷馬車はゆっくりと進む。荷台に売れ残った商品は一つも無く、野菜や麦粉の袋、香味料等が積んであった。
ガタガタと規則正しい揺れが続くうちに、いつものようにキュウはすっかり眠り込んでしまったらしい――胸に蜂蜜菓子の袋を抱いたまま。
「明日、みんなで食べるの」
帰りに食べてもいいよと言ったのに、何度もそう言っていたキュウ。
菓子なんて、二人で暮らし始めてから一度も買ってやれたことがなかった。どんなにか口にしたくてたまらないだろうに、先週も同じ事を言って買った飴を分けてくれて。ありがとうと言うと、とっても嬉しそうににこにこしていたっけ。
『ありがとう』なんて言葉、二人の時はよっぽどのことがない限り使うことがなかった。どうやって明日を生き延びようか、そればかり考えていたあたしは、両親の名を呼んで泣いてばかりのキュウにいつもきつく当たっていた。
『男でしょ、何泣いてんの!泣く暇あったら小屋の掃除手伝いなさいよ!ほら、手を動かして!泣いたって1リルーにもなんないわよ!』
いつもべそべそしていたキュウが変わったのは、一年程経ってのことだ。
それまであたしはキュウの前で一度も涙を見せたことがなかった。けれどもある夜、トイレに起きてきたキュウに号泣しているところを見られてしまった。
『チュリカ、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。なかないで』
そう言って何度も頭を撫でててくれたキュウ。
次の日から、彼は滅多に泣かない子どもになった。黙って仕事の手伝いをし、どんなに貧しい食卓でも文句を言わず、あれほど呼んでいた両親の名を口にすることも無くなった。
けれどあたしは、今でもキュウが夜中に毛布を頭からかぶって泣きじゃくっていることを知っている。そしてそれをあたしに悟られまいと懸命になっていることも。ジェイスが来てからは共に寝ているためそういった事がなさそうなのは救いだった。
「そういやあ、今日はお迎えが来なかったなあ」
あたしがキュウの頭を撫でていると、すぐ後ろの御者台のジェイスが火のついていない香煙草を咥えたまま(一気に無くすのが惜しいから節約するのだそう)、のんびりと言った。あたしは黙ったままでいることで聞こえていないフリをした。
「まあ、奴さんにも忙しい日はあるわな。フラれたわけじゃあないさぁ、ドンマイドンマイ」
笑いながらそう言うジェイスに対して、あたしは腹が立った。
「何その言い方、まるであたしが気にしているみたいじゃない!
言っとくけどあたしとアスクはただの友達であって、お付き合いしてるとかそういう関係じゃないわ!勝手に誤解しないで!」
「はいはい」
「大体!あたしはアスクのことなんて、これっぽっちもそんな風に見てないわ!」
「はいはい……って、そうなのか?」
急にジェイスが振り返ったので、興奮して身を乗り出していたあたしは思いがけず間近で顔を見つめ合ってしまった。
「だ、だって、そんな、恋愛なんてくだらないことにうつつ抜かす暇あったら、1リルーでも稼がなきゃいけないし」
あたしは慌てて身を引きながら答えた。
「そ、そりゃあ、アスクはいい人だけど、でも」
「いやぁ、そりゃもったいない。俺はあの兄ちゃん、将来結構イイ男になると思うんだが」
「将来なんて不確かなもの考えられないわ。それに、そんな先まで待つ事なんてできない。
そう、そうだわ、どうせお付き合いするとしたら、それこそ今現在がイイ男でないと」
「俺みたいな?」
「そう、俺みたいな……って。えっ」
思わずぽかんと口を開けて見やると、ニヤニヤと面白そうに笑う無精髭の男の顔が覗き込んでいたので、あたしはずさあぁっと一気に腰ごと引いた。
「っ、くくっ、あっはっはっは!いやあ、話も反応も可愛いねえチュリカさん」
「ひっ、人をおもちゃ代わりにするんじゃないっ!!」
あたしは積んでいた荷の中から買ったばかりのチーズ作成用の大木ベラを出すと、力いっぱいジェイスの頭を叩いてやった。
その後も荷馬車はゴトゴト走り、やがて宵のとばりが見え始めた頃に自宅に到着した。扉を開けた状態に石で固定し中へ荷物を運び入れるため、あたしは先に荷台を降りた。
まったくもう、ジェイスったら人をからかって。ぶつぶつ言いながら施錠を空けようとして、あたしは気付いた。
開錠されている。
一瞬にして、脳裏にあの時の光景がよみがえる。あたしは慌てて戸を空けると一気に中へと踏み込んだ。
「どうしたぁ、チュリカ」
荷物を運んできたらしく戸の外からジェイスの声が呑気に響く。
「チーズが・・・・・・」
あたしはただ呆然と、あの時と同じ台詞を吐く。
けれど意味は真逆だった。
盗まれていた筈の熟成用のチーズが、全て棚に揃い戻されていたから。
「まあ、よかったじゃないかぁ」
香煙草に火をつけながら呑気にジェイスは言った。
「手も付けられていない。状態もいい。元の通りに整理されて、何が目的かは知らんが良心的な泥棒さんだ」
「泥棒は泥棒でしょ。気持ち悪過ぎるわ」
「まあまあ、そうカリカリしなさんなって。特に他に荒らされているところも無いんだろう?」
ジェイスの言葉にあたしはハッとした。そうだ、箱、箱は無事!?
お金よりも何よりもまず、箱の安否が重要だった。
あたしは慌てて寝室へ行くと急いで箪笥の一番下の引き出しを引き取り、小箱を取り出した。振ってみるとコロコロと中身が入ったままだ。
よかった……。
あたしは安堵してしっかり隠し直した。そのうちもっとちゃんとした隠し場所を考えなければいけない。だが、中身を知ってしまうと、その恐ろしさに自分の手元近くに置いておかなければ不安になってしまう。
中身を見ていけないよ。
父のその言葉を守れなかった事が今更ながら恨めしい。
あたしは溜め息をつきながら部屋を後にし、他に金目の物が盗られていないか確認をした。特に盗られているものは無いと、一通り確認してジェイスに伝えると、
「世の中にゃあ、いろんな泥棒がいるもんだなあ」
と、どこか感心したふうにジェイスは言い、来週末にでも市で新しい施錠を買いに行こうという話になったのだった。
そしてあたし達は簡単な夕食を取り、疲れが溜まっていたため早々とおやすみの挨拶を交わし、眠りについた。
あたしは寝室で、ジェイスとキュウは家畜舎に作った特製藁ベッドで。(あの日以来ずっとそうなのだった)
ふと、あたしは目覚めた。
まだ真夜中だ。閉じられた押し上げ窓の隙間から月の光がほんのりこぼれている。
夕飯に塩漬け魚を多めに食べてしまったせいだろうか。喉が渇く。水桶まで行かなきゃ、と思っていても、ひどく瞼が重くて動きたくない。
ぼんやりと半目のまま動かずにいたあたしの視界の隅に、ゆらりと黒い影が映った。
(え……?)
思わず息が止まる。
何……、お化け?あ、じゃあ気付かないフリした方がいいの?
よく『死者の魂は共鳴し合う者を冥土の道連れにする』とか言うし。
息を止めて目をつむったあたしの近くで、影が動き続ける気配がする。音はほとんどしなかったので、やっぱりお化けだとあたしは確信した。
やがてお化けの気が済んだらしく気配が遠のいていくのが分ったので、あたしはホッとして思わず溜め息をついてしまった。息が止まったままだったため、予想以上にそれは大きなものとなった。
慌てて目を開くと、次の瞬間、影の気配が音も無くあたしのすぐ傍に来ていたため、あたしは思わずひっと声を漏らしてしまった。
ベッドのふちに手をかけて、影はあたしを覗き込んだ。ふわっと香煙草の香りが届く。
「……あ……ジェイ、ス……?」
「いつから起きていた」
「え……」
答えを言おうとする前に、ジェイスはぎしりと音をたててベッドに乗り上がると覆い被さるようにしてあたしの両手足を押さ込んだ。
「なっ……」
「大声を出すな。質問に答えろ。いつから起きていた」
低い声が冷たく耳元で囁かれ、あたしの肌が粟立つ。知らない。こんな話し方する人をあたしは知らない。
「いや……っ」
「何を見た」
「し、しらな……だって、てっきりおばけって……」
ガタガタ震えながら必死で答えるあたしの顔を、押さえ込んだままジェイスはじっと見ていた。暗闇の筈なのに、まるであたしの顔がはっきりと見えていて、観察しているかのようだった。
やがて、ふっとあたしの身体が楽になった。ジェイスがベッドから降りたのが分り、あたしは急いで隅に這い逃げた。
「あー、その、すまんな」
ぼりぼりと頭をかく音とその声音は、いつものジェイスのものだった。
「まあ、俺も男だしな、血迷ってたのさ。世話んなった女の子に夜這いなんざするもんじゃない。
また変な気起こさんうちに、とっとと出て行かんとな」
ジェイスは暗闇でかしゃかしゃと音を立てながら何かを取り出し、
「これは迷惑賃だ。チュリカ、怖がらせてすまんかったな」
そう言ってあたしの首に何かをかけ、くしゃっと頭を撫でた。
そして、
「そんじゃあ、さよならだ」
とだけ言い残すと、彼は静かに部屋を出ていった。
表扉の開く音、そして去ってゆく馬の蹄の音だけが、静かな夜更けに小さく響いていた。
あたしは、しばらく動けずにいた。
香煙草のかすかな匂いだけがその場に起こったことが夢でないことを教えてくれていた。それと、胸に当たる冷たい重みも。
やがて、あたしはのろのろと窓際へ行くと、持ち上げ窓を押し開いた。
高い空に月が煌々と輝き、その明かりの下で冷たく光るそれは、革紐が通された銀色のプレート。トゥル・ヤーンの称号符。
レプリカと思えないほど美しくガラス玉が光るそれを、あたしはそっと裏返した。
――『ジェライム・トライスト』。
いくつかの紋様記号と共に、おそらくジェイスの本名であろう名が刻まれていた。