2 : トライスト
トライストは四頭立ての箱型馬車の中にいた。
天蓋つきで立派なものだが、後々足がつくことを恐れ所有するものではなく貸し馬車を使っていた。
彼は大人しくローエンに残っているつもりはさらさらなかった。もともと役職のあってないような地位にいる故、好きに動けるのは好都合だ。
定期的に登城しては周囲にのらりくらりと遊ぶ人間に見せかけているつもりだが、どうにもあの二人だけは自分を信用していないようなところがある。だが、それでもよい。自分が尻尾を見せなければ全て上手く事が運ぶ。運んでさえしまえば彼らがどう動こうともう遅いのだ。
目的さえ叶えば己の身はどうなっても構わないとトライストは思っていた。だが事が露見して彼が失脚などしようものならば、目的そのものが水の泡となるのも事実。
罪を被るのは哀れな子羊。己の出生を呪うが良い、少女よ。
彼は細長い煙草をふかしながら薄く微笑んだ。
「ウィスプはまだか」
「は。もうあと一刻半程かと」
御者台にいた部下が答える。
「遅い。多少揺れが酷くなっても構わん。急げ」
「は」
部下は手綱を取り直すと、鞭を取り上げ力一杯振り下ろした。
あらん限りの速さで移動を続け、ほどなくして馬車が止まったのはウィスプでは有名な通称『ぎんぎら屋敷』の前だった。
御者が門前にて警護番に用向きを伝えると、悪趣味な門扉が音をたてて開かれた。
銀縁装飾の入った白い仮面を着け、詳細な体格が判らぬよう季節外れの厚手マントを羽織ると、羽帽子を被りながらトライストは馬車から降り立った。
「これはこれはようこそおいでくださいました」
揉み手をしながら転がるようにして自ら出迎えに来たギョンカに、トライストは出迎え賃としてガイン金貨を一枚握らせる。リルーからサモア銀貨までしか通貨単位の流通がない地方都市では、金貨は非常に貴重だ。ギョンカは口元を緩ませながらいそいそと客間へ案内した。
無駄に広い客間に通されると、金装飾の茶器に入れられた茶には口つけることなく、単刀直入にトライストは訊ねた。
「首尾はどうか」
「それはもう、万全でございます」
へらへらとした笑みを浮かべながらギョンカが答える。
「収穫祭まで残すところあとひと月もございませぬ。
仰られた通りワインの一部は特別仕込みにしております。味も上々ゆえ、怪しむ者はまずおりますまい」
「例の娘はどうだ」
「ああ、あのチーズ売りの。実は丁度今しがたここへ呼びつけたところでございます。
話を振るとそれはもう仰天しておりました」
ふっふぉっふぉ、とギョンカは笑った。
「初めこそ渋ってはおりましたが、報酬のことを話しますとにべもなく了承しました。まあ、貧乏人は簡単なものですな。
別室に呼びつけて待機させておるところです」
「そうか」
満足そうに頷くと、トライストは懐から袋を取り出しギョンカに渡した。
「これは?」
いぶかしむように中を覗き込んだギョンカに、
「これを使って当日用のチーズを作るよう、娘に指示をしろ。それですべて事が運ぶ」
「おお、ではこれが」
慌てて首を引っ込めたギョンカに、
「そのままでは何も起きん」
と告げながらトライストは静かに立ち上がると、そのまま音を立てずに扉まで移動し突如思い切り取っ手を引いた。
「子鼠が入り込んでいたか」
捻りあげられた右手の激痛に悲鳴を上げたのは、
「レイラ!」
驚くギョンカの呼び声に、
「あ、あああ、御主人様ぁ・・・・・・っ」
と目に涙を浮かべ、レイラは弱弱しくギョンカに助けを乞うた。
「おやめくだされ、その娘は私の使用人ですぞ!」
慌ててギョンカは仮面の男に駆け寄り叫んだ。
「おっ、お茶菓子を、お持ちするようにと、仰せつかって、おりましたので・・・・・・それでっ・・・・・・あああっ!」
ぎりぎりと捻られながらも懸命に弁明する彼女の足元には、確かに手を掴まれた時に取り落とした菓子盆とその中身が散らばっていた。
「ふん」
男は手を捻り続けたまま片手でレイラの顎を掴み、ぐいと見やった。白縁眼鏡の奥にある蒼玉の瞳からぼろぼろととめどなく涙がこぼれ落ちる。そこに映るのは恐怖の色のみだった。
「気のせいならいいのだが。念を入れとくか」
そういうと男は躊躇することなくそのままレイラの右手を捻り絞った。
鈍い音が響くのと同時に共にレイラは絶叫した。
「何をなさる!」
目を剥いて抗議するギョンカに、トライストは再びガイン金貨を取り出し手渡した。
「これで侘び代わりとしろ。俺の気のせいだったようだ」
泣き叫び続けるレイラとおろおろするギョンカを後に残し、彼はその場を後にした。今日のところはこれで用件は終いだ。
あの女。最後まで無抵抗だった使用人をトライストは思い返す。
扉向こうにいたのが偶然か意図的か判らず終いだったが、おそらく利き腕であろう右手は当分使い物にはならないだろう。念を入れてもう片側もやっておくべきだったか。
まあいい。ああして自分が怪しむ様を印象づけておけば、相手も動きが取り難くなった筈だ。無実であっても金を渡せばそれで済む。
用心するに越したことはない。
そんな事を考えていたせいか、角を曲がった瞬間ぶつかってきた相手に気付けなかった事に彼は驚き、跳ねとびかけた相手を思わず片手で抱きとめた。
「ごっ、ごめんなさい。お手洗いがわからなくって走っちゃってました」
慌てたように謝りながら彼女は顔を上げると、相手のその風変わりないでたちに驚いたような顔をした。
トライストは黙ったまま手を離すと、振り返ることなくその場を立ち去った。
チュリカは階段を降りてゆくマントの男を見つめていた。
何かが引っかかっていた。
さっきの抱きとめられた感じ。それに、わずかに感じたあの匂い。
去ってゆくその後ろ姿を見つめながら、彼女はそれが何かを思い出そうとしていた。
そして、それが香煙草の香りだと気付くまで、そう長くはかからなかった。