1 : 出会い
夏の乾いた風に乗ってやってくるのは、バザールの刺激的な匂いとむっとするような熱気。
汗や香料に混じって鼻をくすぐる香ばしい香辛料の香りがあたしのお腹を強く動かす。これはきっとカジャブだ。
豚肉を甘辛く刺激的な味付けにしたものをそぎ切りにして、発酵させないパンにバナバ菜やローストしたナッツと共に挟み、たっぷりと胡椒を挽いたそれはこの辺りでは夏に人気の料理だ。冷たい飲み物に刺激的なカジャブはよく合う。おそらくそう遠くないところに店を出しているのだろう。
想像するだけで生唾が沸き、ますます強く腹が鳴った。
「チュリカぁ、腹減ったよう」
おそらくさっきから同じことを考えていたのだろう。
傍らに座り込んで一緒に店番をしていた弟のキュウが、我慢できなくなったらしくあたしを見上げて唇を尖らせた。
「そうね。そろそろお昼食べよっか」
答えながらも、そういいものは食べられそうにないなとあたしは内心がっかりしていた。
思っていた以上に売り上げが悪い。
ここウィスプの街のバザールでチーズを出している店は今のところあたし達の他にそういない筈なのに、この調子じゃ一週間分どころか数日凌ぐだけのお金も稼げるかどうか。
とりあえず、キュウに頼んで安い香草入りの固パン――腹持ちも良く身体にもいいが、味はいまいちだ――を買ってきてもらい、それにチーズを挟んで水で流し込むことにしよう。
そう決めて口を開きかけた瞬間、
「うおぉい、ど、どいてくれえぇっ」
突然慌てふためいた叫び声と共に、何かがあたしの目の前に突っ込んできた。
「キュウ!」
叫んで思わず弟の上に覆いかぶさる。簡易店舗の支柱や布がガラガラと崩れ落ち、馬のいななく声とともに何人もの怒声が飛び交う。
あたしはぎゅうっと目をつむったまま、必死に身を固くしてキュウを抱きしめていた。
神様、あたしはいつ死んじゃってもいいです。だけど弟のキュウだけは、キュウだけは――あ、でもキュウだけ残っちゃったら、その後どうやって生活していくのだろう。牛の世話やチーズ作り、家のこまごましたことなんか、まだ10歳のあの子にはとても――。
「か、神様、やっぱりあたしもっ。どっちも助けてぇえっ」
「何わめいてんだ」
冷静な声にハッと我に返り、振り向くように顔を上げると、頬が触れ合うほど間近に少年の顔があった。
「へぁっ」
普段異性に縁が無いと咄嗟に可愛い声なんて出せない。
驚きのあまり奇声を上げてしまったが、キュウに覆いかぶさったあたしに、さらに覆いかぶさるようにしている彼の体勢から考えるに……おそらく彼は、あたし達を助けてくれた、ということになるのだろう。
「あ、あの……」
「怪我は無いか」
そう言いながら、少年は私の身体から離れた。
むすっと不機嫌そうな顔にどう言葉をかけていいものか迷っているうちに、
「じゃあ」
とだけ言い残し、その少年は去って行ってしまった。
お礼、言えなかったな。あたしは放心状態でそんなことを考えていたのだけれど。
「チュリカぁ、重いよう」
キュウの苦しげな声で現実を思い出し、辺りを見回して呻いた。
「……どうすんのよ、これ」
無残、の一言ですむ惨状だった。
棒や布自体はロバで運んで来られる程度のたいして重みの無いものばかりではあったけれど、それらがすべて滅茶苦茶に散乱し、その下で商品はかき回すようにして踏み潰されていた。
おそらくもうほとんどのチーズが駄目になっているのに違いない。そしてその傍ではふみ潰した元凶であろう一匹の牡馬が、鼻を鳴らしながら興奮したように身体を揺すっていた。
「どう、どうどう」
馬を静めようとなだめていた一人の男が、見られていることに気付いたのかこちらを振り返った。そして決まりが悪そうな顔で近付いてきた。
「すまねえな姉ちゃん。
俺が調子に乗って馬なんか借りたりしなきゃこんなことには……お、怪我は無いようだな。うんうんよかった、俺の日頃の行いが効いたんだな。
まあお前さんの店は潰れちまったようだが、角の端っこだったんで周りに迷惑かかんねえのは幸いだった、はっはっは」
「何笑ってんのよ!あんた、よくもうちの商品全部駄目にしてくれたわね!
どうしてくれんのよ!!」
思わず目に涙を滲ませながら、あたしは息巻いた。悔しい、全部が駄目になってしまった。
お金が得られなくなってしまった衝撃もさることながら、丹精篭めて作ったチーズが無残に蹴散らされた挙句簡単に笑い飛ばされたことに、あたしは猛烈に腹を立てていた。
「あたし達がオンナ子どもだからってへらへら笑って馬鹿にしやがって!
ダーナン国のイェスタグル・ロゥ(『勇敢なる士』の意)なんて、嘘だ!もう何処にも居やしないんだ!」
叫びながら涙が次々に溢れていった。
男は慌てふためいたように手を広げ、片腕に掛けていた袋に手を突っ込んでゴソゴソとやっていたが、やがてしわくちゃの汚らしい布の塊を出して私に渡そうとした。
「ほれ、ハンケチだ。
すまねえ、馬鹿になんてちっともしてねえよ。まあ、その、なんだ、俺が悪かった。
……頼む、泣かないでくれ、俺は女と子どもに泣かれるのには弱ぇんだ」
女に泣かれるのに弱い。なんだか物語のヒロインのようではないか。
思わず涙を引っ込めて男を見つめると、無精髭のいかつい男はホッとしたようだった。
「うんうん。笑顔でいるのが一番いいのさぁ。
子どもが泣くのは父ちゃんに怒られた時だけでいい」
あたしは思いっきり男の頬を引っ叩いてやった。
男は自分をジェイスと名乗った。
なんでも最近仕事を辞めたばかりで、貯めた金が無くなるまで旅でもするかと、何となくここウィスプの街までのらりくらりとやってきたのだという。
「まあ、大金を持ち続けるのは性に合わんのよ。ついパァッと使いたくなっちまってね」
それで馬でも借りて移動してみようかと思い立ったらしい。
馬はダーナン、いやこの近隣諸国では主要な乗り物だ。
大抵の移動手段が歩く以外にない中、馬を使えば人が数日かかる道もあっという間に移動できる。その為大変に重宝されるのだが、貴重であるが為、貴族以外で所持できるのは金持ちの商人くらいのものである。
そんな中で繁盛する商売が馬貸家と移動定期便だ。
馬貸家はその名の通り馬を一定期間もしくは区間単位で貸す商売で、先払い制である。一通りまとまった金をその箇所での馬貸家に渡し、国に無数に散らばる馬場亭という馬の休息所まで移動した後、そこで組合が共通発行している証文を見せて差し引き精算をする。なかなかに金のかかるものなので、主に富裕層の道楽や仕事の早便等で利用されていた。
移動定期便は、馬車が停留所毎に客を乗せるというもので二頭立て馬車と四頭立て馬車とがある。こちらは比較的手ごろなので、主に一般人が利用をしていた。もとは一頭立て馬車に郵便物を運んでいたというのが語源らしい。
「馬なんか使って何処まで行くつもりだったの」
あたしはジェイスに尋ねながら、無残なチーズの亡骸をせっせとかき集めていた。
過ぎてしまったことをくよくよしても仕方がない、ただ無心に残骸と化した商品を台車に積み上げていくだけだ。
損害は気にしないことにした。というか、この男が本当に馬を使うくらい金を持っているのなら、少なくとも店に出していたチーズの原価くらいぶんどってやれば良い。さっきから横で店の支柱やら屋根布やらをひとまとめにしている男を見て、あたしはそう考えていた。
「うーん、それがなーんも考えてなくてなぁ。まあ、でき心っちゅうやつだ」
呑気な笑顔でジェイスは答えた。
乗ってはみたものの慣れない手綱さばきに馬が苛立ち始め、そのうちジェイスが誤って馬の腹を蹴ってしまったため、暴走して突っ込んでしまったらしい。
話を聞くほどに呆れるが、まあ、金があると気楽に話したり、片付けまで進んでやっている姿を見る限り、人は良さそうだ。
交渉次第では慰謝料も取れないだろうか。
そんなあたしの考えを知ってか知らずか、ジェイスは一通り片付けの手伝いが終わると腰に手をやって伸びをしながら、
「よーし、んじゃ、やってくれや」
と、近くにいたボロ服を着た男に呼びかけた。
「へえ、そんじゃ」
言われた男は、台車の中の崩れたチーズをひょいひょいと三つの籠に分類をしていった。
先程ジェイスが探してきたその男は残飯屋といって、食べられるものなら大抵のものを引き取り、微々たる額ではあるが金も払ってくれる。一等から三等まで状態の良いもの順に分けた食べ物は、そのまま売れるもの、加工(傷んだ部分を除去したり洗ったり)すれば売れるもの、豚の飼料として売るもの、と状態に応じて分けられる。
崩れたチーズも洗いさえすれば質はいい筈なので、大抵は二等の籠に入れられていた。見ていて辛い光景ではあったが、確かに廃棄するよりはマシだ。あたしは黙って消えゆくチーズを見つめていた。
残飯屋が去っていくと、ジェイスは私に向き直り、
「じょうちゃん、本当にすまんかった」
と、深く頭を下げた。
「まあ、起こったことは仕方ないけれど、その分しっかりと弁償していただきますからね!
それと!じょうちゃん、って言い方はやめて。あたし今年で十七になるんだから」
ジェイスの目がまんまるになった。
「なんだって、こいつぁすまんすまん。
おれぁてっきり十一、二歳くらいの子どもかと……そんな棒っきれみたいなちっこい体してんだもんなあ。
もちっとこう、年頃らしくぷくぷくと肉付けないと――」
再び、あたしは思いっきり男の頬を引っ叩いてやった。
造単語や特殊設定が入ってきます。
補足はこちらに記述していきます。
(読まなくても大丈夫です)