夕暮れにキス一つ
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秋の日に僕たちは街を見下ろせる高台に向かっていた。朝晴れていたので、絶好の行楽日和だと思い、彼女の箕郷を誘ったのだ。朝起きてテレビを付けると、天気予報で今日は晴れだと画面越しにキャスターが告げる。箕郷の携帯のアドレス宛にメールを打った。今日一緒に山歩きしたいことを。午前九時に街の公園で待ち合わせをし、揃ってハイキングで山へと行く。着いた先で丸一日過ごすつもりだ。普段からずっと勤務先の会社で営業をやっている人間にとって、本来なら休日は眠って過ごしたいのだが、いかんせん彼女がいて暇をしているだろうと思ったので会いたいという気持ちが強まった。誘い合わせてゆっくりと山を登っていく。山間地帯は季節が秋とあってか涼しい。先に僕が歩き、後から箕郷が付いてきた。一歩一歩歩きながら、この高台にほとんど行ったことがないのに気付く。さすがに長年街に住み続けていても、出向いたことがない場所は多いのだ。この山の高台もそういったところの一つだった。ずっと歩いていくと森林の中は鬱蒼としている。灌木などがたくさんあって、まさに野生が垣間見える場所だった。途中で少し休憩を取る。持ってきていたペットボトルにはアイソトニックウオーターが入っていて、摂取すれば体に電解質が入ってくるのだ。スポーツ飲料は体にいいと言われている。僕も箕郷もボトルに入っていた幾分生温い飲み物を飲んでいた。そして休憩が終わったらまた歩き出す。休みだが、山歩きもいいと素直に思えた。あくまで気分転換に、だ。いつもはずっと客の目を窺うことが主だったので。
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「ここだな」
「ええ。……もしかして正明、疲れてない?」
「ああ、ちょっとな。さすがにいつも外にいても車ばっかだし」
「ちょっと羽を伸ばすにはいい場所ね。ここって」
箕郷がそう言って高台の一番見晴らしがいい場所に行き、深呼吸する。僕が近付いていき、揃って軽く体操した。普段から互いに運動不足である。僕も彼女も仕事に追われていて、なかなかゆっくり出来ない。休日は大抵、箕郷が僕の部屋に遊びに来るのだが、その日だけは例外で僕の方から誘った。ここは山でもかなり高いところにあって空気が美味しい。新鮮な酸素が絶えず辺りに漂っている。いつもは排気ガスばかり吸っていて、新鮮な空気を吸うことはほとんどない。彼女も同様だった。街の会社でも普通のOLで、淡々と事務処理などをこなし、後は同じフロアにいる課長の機嫌を伺っているらしい。課のトップが何を思っているのか探らないとどうにもならない。そういった意味では箕郷も大変なのだった。周囲に気配りするというのはどうしようもないぐらい疲れてしまうからだ。
軽く運動した後、彼女が持ってきていたお弁当を広げ、食事を取り始めた。食事に箸を付ける。街のお弁当専門店で買ってきたもので、値段はとてもお手頃だ。二人分のお弁当に五百ミリリットル入りのペットボトルのお茶を二本付けても、二千円弱だった。僕も普段はずっと忙しくて昼食を取る暇があまりない。だからこういった場ではなるだけゆっくりしていた。幸い晴れである。天気はとてもいい。箕郷が深呼吸し息を吐き出すと、口の匂いと一緒に髪の毛のシャンプーの残り香が漂う。女性の香りはとてもよく、僕もそういったものには結構弱い。なぜかしら照れてしまう。お茶を飲みながら食事を取る。普段の疲れもこういったことで癒えた。気分転換というが、まさにその通りだ。気持ちが切り替わる。人間はいつも何かに追われていると、ふっと気持ちを緩めたくなる。自然なのだった。そして互いに食事を取り終われば、高台にある見晴らしのいい場所に並んで座る。何も言うことはなかった。ただいつの間にか接近し合い、キスする。僕が箕郷の唇を自分のそれで覆うと、彼女も追うようにして口付けた。とても甘いディープキスが続く。何を言うこともなしに無我夢中で口付け合った。秋の夕暮れの空の下でキスし終わった後、抱き合う。遠慮は要らないと思った。ただ互いに癒されるのが感じられて……。
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小一時間一緒にいて辺りが暗くなり始めた。僕たちは揃って山を降りるため歩き出す。今日という日が絶好の充電となった。こういったときは必要だ。何も仲間内で集まって飲み会などをし、騒ぐだけじゃダメなのである。疲れたときはパートナーと一緒にいるのが一番いいのだ。もちろんそういったことでガラリと気分が変わる。互いに何かとストレスを溜めがちなので、それを取り去ってしまうのに会うことは必要だ。メールや電話だけじゃ、満たされないものもあるし……。
山を降りて街の目抜き通りの交差点で別れる。別れるときに、
「また会おうな」
「ええ。じゃあまたね」
と言い合い、互いの自宅マンションへと歩き出す。一歩一歩踏みしめるようにして歩いていく。また会える日を待ち望みながら……。いつもは朝と夜欠かさずメールし合っているし、互いに時間が空けば街の中で会ったりもする。街には若者向けのカフェがあって、そこでコーヒーを一杯ずつ頼み、何気ないことを話したりしていた。お茶を頼むと、大概サイドメニューとしてケーキなどのスイーツが付いてくる。お互い甘いものは好きだ。特にコーヒーを飲むと、お菓子が食べたくなる。疲れていた体にエネルギー補給が出来ていた。もちろん仕事で食事がろくに取れないときもあるにはあるのだが、そういった場合、最低でも菓子パンを齧ったりすることがある。一食抜くぐらいは別に構わないと思う。僕も箕郷もそう感じているのだった。ゆっくり出来ないのが、互いの職場の実態である。だけど、休みになると磁石の両極のように惹かれ合った。お互いのことが分かりきっているからだ。そのときぐらい僕も自宅でパソコンに浸るのは止めて、彼女と一緒に過ごす。いつもは営業職がてら、ずっとパソコンを使っていたのだし、業務用の資料を読むことに加えて、パソコンのキーを叩くことも必要だったからだ。そういった意味では彼女もOLとして同じようなことを続けていた。会社員というのは実にそういった職種なのである。ずっと仕事時間中は黙り込み、パソコンの画面を見続けて、必要があれば出来上がった書類などをプリントアウトしたり、コピーを取ったりしていた。淡々とした業務が続くのである。つまらないようだが、これが日常なのだった。
それにしてもあの夕暮れ時のキスの感触が忘れられない。互いにそっと寄り添い、口付け合ったのを未だに覚えている。さすがに人が見ていないときはくっつき合う。それがたとえ部屋の中にいたとしても、野外でも。さすがに惹かれ合うのだ。磁石のプラスとマイナスのように。そして僕も箕郷も同じ太陽の下で今日も働く。単にいつもいる場所が違うというだけで。仕事の合間の休憩時間中に携帯からメールすることもあった。どうしてるだろうな、と思いながら……。そういったときは大抵、社の給湯室で淹れていたコーヒーを飲み、ゆっくりと気持ちをリラックスさせながらキーを叩いて送信ボタンを押し、送っていた。気持ちの切り替えを済ませたら、後はまた仕事だ。業務はずっと続く。就業時間が終わっても残業などがあるので。仕事をしながらでも常に想っているのだった。箕郷のことを。誰も代わりにならないぐらい愛おしい存在として……。
(了)