プリン・ア・ラ・モードの恋
■乙葉
私の勤める会社は、海外の書籍を多く扱う出版社だ。社内翻訳者として、いつもだったらミステリーを専門にしてるのに、回ってきたのは何故か恋愛ものだった。いえ、正確に言うなら、「家も仕事も捨てて世界へ飛び出し、自分を愛する旅」に出る物語ね。私とはほど遠い世界の主人公。
イタリアで最高のピザを食べ、インドで座禅を組み、バリ島で運命の恋人を見つける。
イタリア編とインド編はなんとか翻訳できた。でも、最後のバリ島が難所だった。
運命の恋人。原文の意味は分かるのに、日本語に直そうとすると途端に色褪せてしまうような手触り。イメージは掴めているのに、適切な言葉を、恋に落ちた人のふわふわ感をぴったりと言い当てられないもどかしさ。
原文のような、我を忘れるほどの感情の波っていったいなに?
そんなふうにデスクで悩んでいる姿を見て、編集長が生暖かい目でこちらを見ていた。とりあえず睨んでおく。
……ええ、そうよ。喪女で悪かったかしら?
ここで無理やり書いたとしても、それはただの翻訳ね。死んだ言葉になってしまう。それは、原作者への裏切りにほかならない。
はぁ。こんな時は散歩でもしていたほうがまだマシね。
「……取材に行ってきます」
「ああ、乙葉君いってらっしゃーい」
「……いつか締める」
「んー?なんだい?なにか言ったかな?」
「いえ、なにも」
とりあえずサンプルでも探しましょう。午前の温かな陽気さえ恨めしく思いながら、オフィス街にある会社から街に繰り出した。
街ゆく人を目で追いかけ、ベンチに座る男女の会話に生垣越しに耳を澄ませ、手を繋いで歩く幼稚園児を観察する。
……分からない。
「駄目ね……イメージが全然湧いてこないわ……」
ふと、日が翳る。気づけば見知らぬ路地裏だった。考え込むうちに、どこかで曲がり間違えたらしい。
踵を返して大通りへ戻ろうとした、その時。『ジャズ喫茶 ミッドナイト・ブルー』の青い看板が目に入った。
午後三時。……少し、休憩しましょうか。
☆
ドアベルをからりと鳴らして入った店内には、コーヒーのほろ苦い香りが満ちていた。カウンター横には飴色のスピーカーとオーディオプレーヤー。窓からはやわらかく午後の光が差し込み、間接照明が革張りのカウンターチェアを淡く照らしていた。
「い、いらっしゃいませ……」と、三十代位の男性店主が迎えてくれた。
……なぜ、私の顔を見て吃るのかしら。隈が酷くて目つきが悪く見えた?最近は、家に帰ってからも考えが纏まらなくてあまり眠れていないから、辛気臭く見えるのかもね。
五席しかないカウンター席の一つへと腰を下ろし、やわらかな鞣し皮のメニュー表をめくる。そこで身体がずんと重く感じ、手が止まってしまった。疲れた……。
「……オススメはなんですか?」
「あっ、はい。オリジナルブレンドのコーヒーとプリン・ア・ラ・モードです」
「では、それをお願いします」
「ええ。少々、お待ちください」
初めて入るお店なんだし、オススメを頼めばとりあえず大丈夫でしょう。注文したものが来るまで、かすむ目を閉じた。
ぷつ、ぷつ、とオーディオからレコード特有の音が聞こえてきた。始まったのは、目の前で古いジャズバンドが演奏しているかのような、生々しい臨場感の音楽。この曲は、ケニー・バレルの『ミッドナイト・ブルー』ね。あれ?なんで知ってるのかしら?
『バレルのブルージーなギターが良いんだって!』
記憶の隅で、誰かが言った。
――だれ?
「失礼します。オリジナルブレンドのブラックコーヒーです」
「あ、ありがとうございます」
まあ、良いでしょう。
白地に小さな青い花が散らされた瀟洒なカップに、黒い液体がゆらりと波紋を浮かべている。口に含めれば、酸味が強く主張してきて思わず眉間に皺が寄ってしまった。失敗したわ……。酸味の強いコーヒーは苦手と伝えれば良かった。
どうやって飲み干せばいいかしら。ミルクを頼む?でも私はブラック派だし……。
「お待たせしました。当店自慢のプリン・ア・ラ・モードです。どうぞ、召し上がれ」
それを見た瞬間、音が消えた。乾いていた目に、急速に潤いが戻るのを感じる。世界が、きみと私の二人だけになったかのよう。
きらきら輝く特別なステージに立つきみは、艶やかな小麦色の肌をおしみなく晒していた。真っ白でふわふわの帽子をかぶり、色鮮やかなアクセサリーを身にまとって。思わず鼻を近づければビターな香水が鼻をくすぐる。
震える手のままスプーンできみに触れれば、繊細なきみも、ふるりと体を震わせた。
そして、一口食べれば、春風が吹き抜けた。
胸の奥で、薄紅色の牡丹が花開く。触れれば散ってしまうと分かっているのに、手を伸ばしてしまう。
夢見心地でスプーンを運び、半ばまで食べ進めた。そこで、傍らのコーヒーが目に入る。さっきまで飲むのを躊躇っていたもの。あ、もしかして。
一口、飲む。新緑が芽吹いた。
尖っていた酸味がまろやかになり、プリンの甘みと生クリームのコクを優しく包み込んだ。互いの良さを引き立て合う、絶妙な調和。
負けたわ。
☆
空になった器が下げられた後も、陶然とした心は地上に戻ってきてくれなかった。でも、この恋心が冷めないうちに翻訳をしたい。帰らねば。
「ごちそうさまでした。とても、とても美味しかったです」
「それは良かったです」
「……また、来週来ます」
「ええ、いつでもお待ちしています」
後ろ髪を引かれる想いはあるものの、羽根が生えたように身体が軽い。
ああ、幸せ。
ドアベルをからりと鳴らし、ヒールの音を軽快に響かせて帰路に着いた。
大丈夫、また来週会いに来るわ。愛しの黄身。待っててね。
■貴志
僕の初恋は、小学生の時だった。隣の席の乙葉さん。彼女が僕の落とした消しゴムを拾ってくれた、なんて些細な出来事。でも、"絶対に笑わない女"なんて揶揄われていた女の子が、僕にうっすらと微笑んでくれたんだ。恋に落ちるのに十分だろう。
でも、当時は恋よりも夢中になっていたものがあったんだ。それは、大ファンだった、ケニー・バレルを研究すること。
ギターを弾いて自分で再現しようとしたこともあったんだけど、どうしても指先が全部一緒に動いちゃって。幼いながらに、自分の才能の無さに妙に納得していたな。
でも、この素晴らしい演奏を聴けば、皆も良さに気付いてくれるはずなんだ!と考えて、携帯プレーヤーを持ち込んで教室で再生してたな。
「バレルのブルージーなギターが良いんだって!」
「へー、そうなんだ。それより校庭でサッカーしようぜ!」
「あ!待ってよー!」
結果は惨敗。ついでに先生にも見つかってゲンコツをもらった。うう、聞いてほしかっただけなのに。
☆
そんなこんなで、あっという間に大人になり、夢のカタチは緩やかに変化した。それは、小さくても良いから一国一城の店を持つこと。何年か必死にサラリーマンで稼ぎ、休日は喫茶やお酒の勉強に励んだ。
そして、ようやく路地裏に店を構えることができた。昼間はレコード音源のジャズ喫茶、夜はカクテル主体のバー、隠れ家的な大人の雰囲気のお店。こういうの、好きな人きっと多いと思うんだ。何より僕が大好きだからね!
最初はお客さんに見つけて貰えなかったし、赤字続きが何ヶ月もあってめげそうになっていたけど、ここ最近は口コミでお客さんがそこそこ来てくれるようになって、経営も安定してきたんだ。
「貴志さん、ジャズが好きなのかい?」
「ええ、小学生のころからの筋金入りです」
「私も好きだよ。ここのお店はとても落ち着くねぇ」
「ありがとうございます!僕のこだわりが大爆発してますからね!」
「ははっ!君は面白いことを言うね!」
常連のお客さんと一緒に雑談を楽しめる。そんな穏やかな毎日に、突如として変化が現れた。
☆
週も半ばの水曜日。午後二時半、今日は久しぶりにお客さんが途切れたな。……僕だけの空間なら、ケニー・バレルを流しちゃおうかな?
よし!そうと決まれば、さっきのお客さんの後片付けをして、机をピカピカに磨いて、音楽鑑賞と洒落込みますか!
お気に入りの、キリマンジャロとブラジルのブレンドをネルドリッパーにセットし、93度のお湯を注ぐ。こちらは、当店のオリジナルブレンドでして。キレのある爽やかな酸味とすっきりしたあと味が堪らない、とお客さんにも好評です。
淹れたてのコーヒーを一口飲む。今日もおいしい。さて、あとはレコードを再生するだけ――
からん、とドアベルが鳴った。
おっと、お客さんだね。
カップを置いて振り返れば、記憶の蓋がぶわっと開いた。
僕の、初恋の人。
小学生の頃と変わらず、大きな丸メガネをかけ、長い黒髪を緩く三つ編みにして、前に垂らした姿。間違いなく乙葉さんだ。
「い、いらっしゃいませ……」
あ、ヤバ。吃っちゃった。必死に冷静な店主を装い、席へと座ってもらう。ヒィ!心臓のバクバクが止まらないよぉ!
「オススメは?」と聞かれ、自慢の組み合わせを答えた。それだけなのに、声が裏返りそうだった。
……なんだか、疲れてるみたいだな。目元に黒い隈ができてるし、姿勢も俯いてる。心配だなぁ。
慌ただしく考えていると、空間に音が無いことに気付いた。ジャズ喫茶なのにBGMが無い!とりあえず中に入ってるの流しちゃえ!と再生ボタンを押せば、『ミッドナイト・ブルー』が演奏され始める。
……やっぱりいい曲だなぁ。心臓のバクバクもちょっとだけ収まった気がする。
落ち着いてオリジナルブレンドの抽出をし、コーヒーをお出しする。一口飲んだ乙葉さんは、すぐに眉間に皺を寄せた。あ、この反応は酸味に弱い人だ。あわわ、プリンと合わせれば美味しいからちょっと待っててー!
冷蔵庫からアルミカップに入ったプリンを慎重にガラスの器に移す。ホイップクリームを絞り、飾り切りをした林檎やキウイ等の果物を飾り付けた。仕上げにチェリーをのせて、完成。
「お待たせしました。当店自慢のプリン・ア・ラ・モードです。どうぞ、召し上がれ」
目の前に置いた瞬間、乙葉さんの瞳が輝くのが分かった。頬はみるみるうちに淡いピンク色に染まる。
なんだこれ。え?プリン置いただけだよ?
そんな僕の内心に気付くことなく、乙葉さんはスプーンを優しくプリンに差し入れた。少し見つめたあとに、一口。小さく唇を噛み、それから、困ったような、でも最高に幸せそうな微笑みを浮かべた。
さっきは皺を寄せていたコーヒーも、美味しそうにプリンと交互に飲んでいる。良かった。
ことり、と乙葉さんが上気した顔でスプーンを置いた。
「ごちそうさまでした。とても、とても美味しかったです」
「それは良かったです」
「……また、来週来ます」
「ええ、いつでもお待ちしています」
また来週も乙葉さんが来てくれるのは、素直に嬉しい。でも、あの熱に浮かされたような瞳。あれ、恋してるよな。え?プリンなの?僕じゃなくて?それに、僕が誰だか気付いてないよね。
……プリンに嫉妬する日がくるとは思わなかった。
☆
今日は、彼女が来る日だ。
毎週水曜日に彼女はやってくる。半年経っても浮き足立つ心を深呼吸で落ち着け、まずはオーブンを140度で予熱する。
小鍋の砂糖が飴色に変わっていく。彼女の舌に合わせて、火を止めるのは少し遅め。焦げる寸前の、ほろ苦いところで止めるのがコツだ。
プリン液は砂糖を一つまみ多めに。そうしたほうが、彼女の顔は蕩けるから。アルミカップに流し込んで、オーブンへ。あとは待つだけだ。
額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。焼き上がるまで、一休みしよう。キッチンを出て、カウンターの革張りの椅子へと腰掛け、逢瀬に思いを馳せた。
――今日の告白は、ひと味違うからね。
☆
そして、いつも通り午後三時きっかりに来店した乙葉さんを迎える。注文を待つ間、彼女はカウンターの上で小さく指を動かしている。本人は気づいていないらしい。
「お姉さん、最近顔色いいね」
「ええ。あなたのプリンのおかげで、バリ島の章が一番評判がいいの」
「……プリンのおかげ、ね」
でも、今日は一歩踏み出すって固く決意してるんだ。気付かれないように深呼吸を一つ。手が震えるのを隠すため、カウンターへわざと身を乗り出す。
「ねえお姉さん、僕と付き合う気、ない?」
「無いわね。私が恋してるのはプリン・ア・ラ・モードですもの」
そう、ここまではいつものやりとり。心臓がもう一段跳ねる。気付かれないように深く息を吸って、腹の底から声を出す。
「つれない返事をありがとう。でも、良く考えて。僕と付き合えば、プリン・ア・ラ・モードもいつでも食べ放題だよ?」
「……それは」
できればやりたくなかった、大事な商品を人質にした交渉。でも、僕は乙葉さんとの仲を進展させたいんだ!
「ね?」
「……まあ、考えておくわ」
「やった!前向きでよろしくね!」
よしっ!揺らいだ!プリンがあれば、毎週乙葉さんは来る!口説く時間は沢山あるぞ!
今はプリンに釘付けだけど。……彼女の指は、もうバレルのリズムを刻んでいる。
必ず僕に振り向かせてみせる。
待っててね、乙葉さん。




