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「お前の仕事は鍵を回すだけだろう」と追放された調律聖女の私。では創世オルゴールの保守契約、十二年分まとめて解約いたしますね――~前世メンテナンス技師の悪役令嬢は、世界の音を止める~

作者: uta
掲載日:2026/10/07

「アルディス・ヴェルトーレ。お前との婚約を破棄する」


創世機関の最上階、調律回廊。

百人を超える貴族と神官が見守る中、王太子リュカ・エル・ヴァレンティアは高らかにそう告げた。


「お前の仕事など、朝晩に鍵を回すだけだろう? ミレーヌには〈共鳴〉のギフトがある。彼女が聖女だ」


背後で、薄桃色の髪の少女が不安げに裾を握っている。

私はその子を一瞥し、それから足元の床――無数の傷が刻まれた鉄板を見た。


十二年。

毎朝六時、ここに立った。


「かしこまりました」


私は膝を折り、腰の革帯から巻鍵を外した。

全長七十二センチ、重量四・三キログラム。手の形に馴染みすぎて、もう鋳型のようになっている。


それを、音を立てずに床へ置く。

置く角度を、少しだけ調整した。


北北西、十五度。


誰も気づかない。


「では、本日をもって保守を終了いたします。引き継ぎ書は三百十二枚ございますが、お読みになりますか?」


リュカの眉が、ぴくりと動いた。


「……そんな紙束、誰が読むか」


「そうですか。承知いたしました」


私は立ち上がり、埃を払うように手袋の指先を擦り合わせた。

首から下げた拡大鏡が、灯りを受けて鈍く曇る。金属粉で曇ったままのそれを、私はもう磨かない。


(――報告書を読まない人間に、保守は語れません)


前世で、何度もそう思った。

設備が壊れてから「なぜ止まった」と怒鳴る上司。予防保全の予算をゼロにしておいて、事故の責任は現場に押し付ける管理職。


死因は過労だった。たしか、点検記録を書いている途中で意識が落ちた。

気づいたら、この世界の九歳の公爵令嬢になっていた。


そして目の前には、高さ三百メートルの巨大オルゴールがあった。

神が置いていったとされる〈創世機関(グランカリヨン)〉。世界の季節を巡らせ、魔物を抑え、作物を実らせる、聖なる構造物。


九歳の私の目には、こう見えた。


――定期点検を十年怠った、巨大プラント設備。


「ではこれにて失礼いたします」


私は一礼した。

丁寧に、完璧な角度で。


背後で、薄桃色の髪の少女がおずおずと声を上げた。


「あ、あの……お姉さま、その、鍵の回し方って、どうすれば……」


「回すだけでございますので。殿下がそう仰っておられました」


回廊を歩き出すと、背後で誰かが笑った。


「せいせいしたな。あの陰気な女」

「鍵を回すだけの役目に公爵令嬢とは、贅沢な話だ」


私は歩き続けた。


壁越しに、機関の鼓動が聞こえる。

円筒が回り、ピンが櫛歯を弾く音。一秒に三十二回。


その中に、わずかな濁りがある。

百四十四番の櫛歯。先月から〇・〇二ミリ沈んでいる。来月には音が死ぬ。


(――もう、聞こえません)


私は耳を閉じた。

十二年ぶりに。


階段を降りきったところで、白手袋の老人が待っていた。

家令のハウゼル・グリム。背筋がまっすぐで、六十二歳とは思えない。


彼は慰めも涙も差し出さなかった。

ただ、一枚の紙を見せた。


「受領拒否印の写し、確保済みでございます」


印影には、はっきりと王太子の紋章が押してあった。


私は初めて、ほんの少しだけ、笑った。


「……ハウゼル。あなたは本当に、仕事のわかる方ですね」


「記録のない作業は、存在しなかったことになりますので」


◇


馬車に揺られながら、私は手帳をめくっていた。


革表紙が擦り切れて、角が丸くなっている。

中身は数字ばかりだ。


『第三暦七九二年 四月十二日 櫛歯〇三七番 歪み〇・〇一一ミリ 要観察』

『同年 四月十三日 ガバナー回転数 誤差〇・二二% 許容内』

『同年 四月十四日 潤滑魔油 粘度低下 夏季補正剤を〇・三単位追加』


同じような行が、四千三百ページ続く。


「お嬢様。お休みにならなくても?」


御者台から、ハウゼルの声がした。


「癖です。今ごろ朝の点検の時間ですので」


「……十二年、一度もお休みになりませんでしたな」


「休む日は、機関が休んでくれませんから」


言ってから、自分で少し嫌になった。

前世でも同じことを言っていた。設備は土日を知らない、だから保全も土日を知らない。

そう言い続けて、三十四歳で死んだ。


窓の外に、遠ざかる創世機関が見える。


高さ三百メートル。直径四百メートル。

大陸中央にそびえる円筒。表面に浮かぶ無数の突起――〈ピン〉が、ゆっくりと回転しながら櫛歯を弾いている。


あの音が、世界を回している。


人々は言う。あれは神が置いていった楽器だと。

アルディス・ヴェルトーレは、毎朝ネジを巻くだけの係だと。


違う。


神が刻んだピンは、摩耗する。

金属が金属を弾き続ければ、必ず削れる。そんなものは、工学の初歩だ。


私が九歳でそれを指摘したとき、調律院の神官長は笑った。

「神の御業が摩耗するものか」と。


だから、黙ってやった。


摩耗したピンを一本ずつ取り外し、寸法を測り、鋼を打ち、元の位置に戻す。

一本につき、およそ四時間。


十二年で、四千八百本。


誰にも言わなかった。言っても信じられないからだ。

神殿は『ピンは減らない』という前提で動いている。減ると言えば異端になる。


だから記録だけを残した。

ハウゼルに写しを取らせ、神殿と商業ギルドに預けた。


――いつか、誰かが読むかもしれないから。


その『いつか』は、たぶん永遠に来ないと思っていた。


「お嬢様。ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」


「どうぞ」


「あの日、巻鍵をお置きになった角度。北北西に、十五度」


私は手帳を閉じた。


「お気づきでしたか」


「十二年、見ておりましたので」


私は窓の外を見た。

畑が流れていく。今年の麦は、よく育っている。

私が三月に、ガバナーの回転を〇・一%上げたからだ。春を二日早めるために。


誰も知らない。


「ハウゼル。巻鍵を床に置くという所作は、調律院の記録では〈返却〉とされています」


「はい」


「ですが古い聖務典範では、別の意味もございます」


「……と、おっしゃいますと」


私は目を閉じた。


「〈封〉です」


馬車の車輪が、石畳を叩いていた。


「円筒の第七区画。約四百本分のピン配列を、私にしか読めない符号で組み替えてまいりました。巻鍵を特定の角度で床に置くと、その符号が固定されます」


「解けるのは」


「私だけです」


ハウゼルは少し黙った。

それから、ほんのわずかに眉の角度を変えた。彼の全身全霊の感情表現だ。


「お嬢様。それは、復讐でございますか」


「いいえ」


私は即答した。


「引き継ぎです。――読まなかったのは、あちらですので」


◇


「おい、貴族のねーちゃん。そこ、立つな」


辺境の鉱山町に着いて三日目。

巻き上げ機の前にしゃがんでいた私に、煤だらけの子どもが噛みついてきた。


十一歳くらい。痩せた手足。左耳の形が少し変わっている。


「どうしてです?」


「どうしてって……なんか、音が変だから」


私は手を止めた。


「――今、なんと?」


「だから、音! 昨日と違うんだよ。こう……ガッて行って、スッて戻るとこが、ガッ……ガッて二回鳴る」


私は立ち上がって、少年の顔を正面から見た。

煤の下に、警戒した目がある。


「あなた、お名前は」


「イーノ。……なんだよ」


「イーノさん。それは軸受の片減りです。おそらく潤滑が切れかけています」


「じく……?」


「回るところを支えている部品です。片側だけ削れると、回転のたびに二度当たる。あなたが聞いた通りです」


イーノの目が、ぽかんと丸くなった。


「……お、おれ、合ってた?」


「完璧です」


私は鞄から工具を出した。

前世の職場で使っていたものに似せて、十年かけて鍛冶屋に作らせた一式。追放されるときに持ち出したのは、これと手帳と着替えだけだ。


「手伝っていただけますか。報酬は出せませんが」


「音なんか聞いても腹は膨れねーし」


「では、これでいかがです」


私は布包みを開いた。

黒パン。少し硬い。その表面に、町の雑貨屋で買った蜂蜜を塗ってある。


イーノの喉が鳴った。


「……半分でいい」


「全部どうぞ。私はもう食べました」


嘘だった。


少年はパンを両手で掴んで、かじりついた。蜂蜜が指を伝って、煤と混ざって、それでも構わず舐め取っている。


「んめ……」


「よかった」


私はしゃがみ直して、巻き上げ機のカバーを外した。


「イーノさん。音を聴くときのこつをお教えします」


「こつ?」


「耳で聴こうとしないでください。歯で聴くんです」


「は?」


私は細い木の棒を取り出し、片端を機械に、もう片端を自分の歯の後ろに当ててみせた。


「骨を伝わって届きます。空気の音より、ずっと正確です」


イーノは半信半疑で棒を咥えた。


――そして、三秒後に飛び上がった。


「う、うわ!? 中、めちゃくちゃうるさい!!」


「でしょう?」


私は少し笑った。


「機械は、壊れる前に必ず鳴きます。みんな、聞こえていないふりをするだけです」


◇


三日後。

私は炭鉱の管理人のもとへ行き、第三坑道の支柱の交換を進言した。


「貴族のご令嬢が、炭鉱の何をご存じで?」


「音が変わりました。四日前と比べて、滴り落ちる水の反響が〇・五拍遅れています。空洞が広がっています」


「そんな馬鹿な」


「では一つだけ。坑道を閉じるのに必要な時間は、何日ですか」


「……二日だが」


「でしたら、三日の余裕がございます。間に合いますね」


管理人は私を睨んだ。それから、横にいたイーノを見た。


「イーノ。お前も聞いたのか」


「……聞いた。ねーちゃんの言う通りだ」


「お前の耳は信じてやる。だが貴族は信じねえ」


「どちらでも構いません」


私は頭を下げた。


「閉じてさえいただければ」


三日後の深夜、第三坑道が崩落した。

人は一人も死ななかった。

中にいるはずだった十九人は、前日から別の坑道へ移されていた。


翌朝、イーノが私の宿の扉を叩いた。

煤だらけの顔が、少しだけ赤くなっていた。


「……ねーちゃん。おれ、あれ、どうやったらもっとわかるようになる?」


私は少し、黙った。


前世で、こんな質問をされたことは一度もなかった。

誰も設備保全をやりたがらなかった。地味で、評価されなくて、止まったときだけ怒られる仕事だったから。


「――記録を取ることです」


私は答えた。


「毎日、同じ場所で、同じ時刻に、同じ音を聴いて、書き留める。十年続ければ、三年先が見えるようになります」


「十年!?」


「長いですか」


イーノは少し考えて、首を横に振った。


「……おれ、二十一だ、十年後。ねーちゃんと同じ歳じゃん」


「そうですね」


その日の夜、私は宿の机で小さな木を削った。

親指ほどの、二股の棒。


音叉だ。


翌朝それを渡すと、イーノは大事そうに両手で受け取って、それから勢いよく石に打ちつけて――


「うわ、鳴った! 鳴ったぞ!!」


澄んだ音が、鉱山町の朝に一本、まっすぐ立った。


◇


「お前が、音を聴く女か」


背後から声がして、振り返った瞬間、空が消えた。


正確には、二メートルを優に超える巨体が、日光を遮っていた。

褐色の肌に、黒い鱗が混じっている。片耳に古傷。


竜喰らいの辺境伯、サイラス・ドラグネイト。

王都では冷酷無慈悲と噂される男だ。


「はい。アルディス・ヴェルトーレと申します」


「坑道を当てたな」


「当てたのではなく、聞いただけです」


サイラスは少し黙った。

言葉を選んでいる、という沈黙だった。


「……俺も、聞こえる」


「は?」


「三百歩先の、軸受の軋みくらいなら」


私は目を見開いた。


「失礼ですが。今、この町で一番大きな異音はどこですか」


「東の製錬所。送風機の羽根が一枚欠けてる。回るたびに、風が偏る」


「……何枚中の、何枚目ですか」


「十六枚中の、九枚目」


私は無言で歩き出した。サイラスが黙ってついてきた。

製錬所の送風機を止めてカバーを開けると――


九枚目の羽根が、根元から欠けていた。


「……本物ですね」


「言っただろう」


「失礼いたしました。疑っていたわけではなく、確かめたかったのです。記録に残すために」


サイラスが、わずかに眉を上げた。


「記録」


「はい。あなたの耳は、計測器です。それも、私が知るどの道具より精密な。……ですが、それを三十年、どうなさっていたのですか」


男は、ぐ、と喉を鳴らした。

巨体が、心なしか縮んだように見えた。


「……使い道が、なかった。俺が触ると、壊れる」


「は?」


「どんな機械でも。一度触ると、壊れる」


私は彼の手を見た。

私の顔より大きい。指の一本が、私の手首ほどある。


「……握力は」


「岩が割れる」


「触らないでください」


「言われた」


◇


サイラスの居城を案内されて、私は言葉を失った。


一室に、壊れた物が山のように積まれていた。

動かない水時計。脚の折れた椅子。糸の切れた竪琴。歯車の飛んだからくり人形。


百点はくだらない。


「……これは」


「捨てられん」


「直そうとはなさらないのですか」


「触ると壊れる」


「……」


私はひとつ、水時計を手に取った。

中を覗き、指で三箇所つついた。


水が、流れ始めた。


背後で、巨漢が息を呑む音がした。


「今、何をした」


「詰まっていた沈殿物を落としただけです。三十秒ほどで」


「三十秒」


「はい」


「俺は、十年、見ていた」


サイラスは水時計を見つめていた。

鬼のような顔が、ひどく困ったような、泣きそうな形に崩れていた。


「……お前の言う『音』が、俺には初めてわかった」


「はい?」


「お前が機械に触ると、音が変わる。苦しそうな音が、楽な音になる。俺はずっと、あれが何の音か、わからなかった」


私は、思わず手袋の指を握った。


前世でもこの世界でも、誰にも言われたことのない言葉だった。


『機械が苦しんでいる』なんて、ただの感傷だと笑われてきた。

設備は物だ、感情はない、そう言われて予算を削られてきた。


「……そうですか」


声が、少し震えた。


「だが」サイラスが続けた。「触るな、と言われた理由も、今わかった」


「ご自覚があって何よりです」


翌朝、私の部屋の前に、作業台が置かれていた。


樫の無垢材。四本脚。天板には工具を落とさないための縁が付けてあり、左端に拡大鏡を固定する金具まで切ってある。


高さは、ちょうど私の腰骨の位置だった。


廊下の端に、サイラスが腕を組んで立っていた。

目の下に隈ができている。


「高さが合わなければ言え」


「……作ったのですか」


「釘は使ってない。壊すからな。全部、木組みだ」


私は作業台に手を置いた。

がたつき、ゼロ。


「……完璧です」


「そうか」


それだけ言って、男は廊下の角に消えていった。


足音が遠ざかるのを聞きながら、私はしばらく、その台に手を置いたままでいた。


十二年、私は誰のためにも台を作ってもらったことがなかった。

作業台はいつも、自分で木箱を積んだものだった。


◇


【一ヶ月後/王都】


「どうして……綺麗に鳴ってるのに」


調律回廊で、新聖女ミレーヌ・ソランは首を傾げた。


彼女の〈共鳴〉のギフトは本物だ。

彼女が歌えば、創世機関は応える。円筒が回り、櫛歯が震え、大陸中に旋律が届く。

美しい。誰もがそう言った。


だが。


ガバナー――速度を整える回転装置の誤差が、一・八%ずれていた。


「誰か、春が遅れてるって言ってたけど……わたし、ちゃんと鳴らしてるのに」


北部の梅の開花が、十日遅れた。


誰も、それをミレーヌのせいだとは言わなかった。

ただ「今年は寒い」と言った。


【三ヶ月後】


パキン、と乾いた音がした。


ミレーヌが悲鳴を上げて飛び退くと、床に金属片が落ちていた。

細く薄い、櫛の歯のような板。


櫛歯の七番が、根元から欠けていた。


「な、なにこれ……神様の機械って、壊れないんじゃ」


駆けつけた神官長は、折れた櫛歯を手に取り、青ざめた。


「ありえん。櫛歯は神が鍛えたもので、永劫に――」


「でも、折れてます」


その夜、北部の霜が解けなくなった。

麦が、根から腐り始めた。


【四ヶ月後/辺境】


「王都から、使者でございます」


ハウゼルが取り次いだ手紙を、私は作業台の上で開いた。


『アルディス・ヴェルトーレ殿。速やかに王都へ帰還し、調律の補佐を命ず』


私はペンを取り、返信を書いた。


『謹んで辞退申し上げます。

当方、すでに調律聖女の任を解かれております。

なお、技術情報につきましては引き継ぎ書三百十二枚にすべて記載しておりましたが、王太子殿下により受領を拒否されました。

記録は神殿および商業ギルドに保管されております。

ご参照くださいませ』


「お嬢様」ハウゼルが言った。「これは、ほぼ嫌味でございますね」


「事実の記載です」


「はい。承知しております」


老家令は、ほんの一ミリだけ眉を上げた。


【五ヶ月後/王都】


異変は、音の『空白』として現れた。


毎秒三十二回、途切れることなく鳴り続けていた旋律。

それが、一拍、跳んだ。


タン、タン、タン、――タン。


潤滑魔油が固着していた。

円筒の回転が一瞬引っかかり、ピンが櫛歯を弾き損ねたのだ。


その〇・〇三秒の空白が、何を意味するか。


旋律の中に組み込まれていた『魔物抑制』の和音。

それが、欠けた。


三日後、大陸南部の瘴気溜まりが決壊した。

一週間で、七つの村が消えた。


調律回廊で、ミレーヌは泣いていた。


「どうして……どうして綺麗に鳴らないの……わたし、毎日、ちゃんと歌ってるのに……!」


彼女の歌は、何も間違っていなかった。

彼女は〈鳴らす〉ことができる。


ただ、〈保つ〉ことを、誰も彼女に教えなかった。


床に座り込んだ少女の足元に、何枚もの紙が散らばっていた。

倉庫の奥から、ようやく引っ張り出された紙束。


『創世機関 保守引継書 第一巻/全三百十二枚

 第七代調律聖女 アルディス・ヴェルトーレ』


一枚目の右下に、赤い印が押してある。


――受領拒否。


「……押したの、殿下だ」


ミレーヌはその印をじっと見て、それから、震える声で呟いた。


「……誰か、この人のところに、行ってよ」


◇


四度目の使者は、王太子本人だった。


辺境伯城の応接室。

旅塵にまみれた金髪碧眼の青年が、どかりとソファに腰を下ろす。


「探したぞ、アルディス」


私は紅茶を淹れた。

茶葉は辺境産の安物だが、抽出温度は八十五度、浸出時間は二分四十秒。きちんと計っている。


「どうぞ」


「ああ。……おい、話を聞け。機関が不調だ。春が遅れて、霜が解けん。南部では瘴気が溢れた。ミレーヌも泣いてばかりでな」


「それはお困りでしょう」


「だから、戻ってこい」


リュカは当然のように言った。


「お前の役目だろう」


私はカップを置いた。

陶器が受け皿に触れる音が、やけに大きく響いた。


「殿下。謝罪は、ございませんの?」


「は?」


本当に、わからないという顔だった。


「……そりゃあ、婚約破棄は悪かった。だが国のためだ。お前だって、世界が大事だろう? 私情で世界を人質に取るような女じゃないはずだ」


「なるほど」


私は頷いた。


「三点、ございます」


「……三点?」


私は指を一本立てた。


「一点目。〈聖務契約書 第十一条〉。調律聖女の保守義務は、王家との婚約関係の存続を前提とする――とございます。殿下が婚約を破棄なさった時点で、保守契約は王家側の都合により解除済みです」


「な……そんな条文、誰が」


「十二年前、国王陛下と、当時九歳の私が署名いたしました。立会人は神官長。写しは神殿と商業ギルドに各一通」


扉が開いた。

銀縁眼鏡に、耳へペンを二本挿した女性が入ってくる。


「商業ギルド王都支部、契約管理官セルヴィア・ローです。第十一条、原本をお持ちしました」


彼女は書類をテーブルに滑らせた。


「ご確認ください。なお、王家からは先月『契約は国の都合で何とでもなる』旨のご通達を頂戴しましたので、こちらからは『では王家との全取引に前金十割を課す』とご返答申し上げております」


「ちょ、ちょっと待て!」


「お待ちしますが、利息は発生いたします」


私は指を二本目、立てた。


「二点目」


「まだあるのか!?」


「引き継ぎ書三百十二枚。その受領を、殿下は拒否なさいました」


ハウゼルが進み出て、一枚の紙を置いた。

赤い拒否印。


「『そんな紙束、誰が読むか』と、確かに仰いましたね」


「……あ、あの紙束が……!」


「あの紙束です。櫛歯百四十四枚の歪み測定値、ピンの摩耗曲線、潤滑魔油の季節補正表、ガバナーの許容誤差、異音の三年分の記録。――すべて記載しておりました」


リュカの顔から、血の気が引いていった。


「つまり、現在の機関の不良は、技術情報の受領を拒否した王家の自招損害です。法的には、私に一切の責任はございません」


「……」


「そして三点目です」


私は、三本目の指を立てた。


声は、いつもより柔らかくなっていたと思う。

私は、怒るほど語尾が丁寧になる。


「殿下は、創世機関の旋律を、神が刻んだものだとお考えですか」


「当たり前だろう。神が置いていった楽器だ」


「では、お尋ねします。――金属は、摩耗いたしませんか?」


「……は?」


「ピンが櫛歯を弾きます。毎秒三十二回。年間、およそ十億回です。鋼と鋼が十億回ぶつかって、何も削れないとお思いですか」


「し、神の御業だ。摩耗などするはずが」


「いたします」


私は、手袋を外した。


指先に、無数の細かい傷がある。火傷の痕もある。爪は短く、整えようもないほど荒れている。

公爵令嬢の手ではない。


「私は十二年間、摩耗したピンを、一本ずつ打ち直してまいりました」


「……打ち直す?」


「取り外し、寸法を測り、鋼を熱し、打ち、磨き、元の位置に、〇・〇〇五ミリの精度で戻す。一本につき四時間」


私は言った。


「四千八百本です」


部屋が、静まり返った。


「つまり、今あの機関が奏でている旋律は――神が刻んだものではございません」


私は、まっすぐにリュカを見た。


「私が、十二年かけて刻み直した旋律です」


カップが、音を立てて倒れた。

リュカの手が震えていた。


「う、嘘だ。そんな、たった一人で、世界の」


「毎朝六時に起き、就寝は午前二時でした。十二年間、休日はございません」


「……」


「殿下が『鍵を回すだけ』と仰った作業の内訳です。ご報告の機会がなくて、残念でございました」


リュカは立ち上がった。

顔が真っ白だった。


「な、なら、戻れ! お前にしかできないなら、なおさら――!」


「戻りません」


「なぜだ!」


「もう、代わりに聞いてさしあげません」


私は、静かに言った。


「あの機械の悲鳴は、壊れる人が聞けばいいのです」


「っ……!」


「それから、ひとつ補足がございます」


「……まだあるのか」


「円筒の第七区画。約四百本のピン配列を、私にしか読めない符号で封じてまいりました。〈共鳴〉のギフトでは解けません。殿下が破棄を宣言なさった日、私が巻鍵を床に置いた、あの瞬間に」


「あ……あのとき、床に……」


「お返しします、と申し上げたはずです」


私は一礼した。完璧な角度で。


「私は、私の仕事をお返ししただけですので」


◇


瘴気の大氾濫は、三週間後に来た。


南から押し寄せた黒い霧が、大陸を舐めていく。

王都の外壁が三日で腐り落ちた。


「ねーちゃん!」


城の作業室に、イーノが飛び込んできた。煤だらけの顔が、今日は蒼白だ。


「東から来てる! 音が、変なんだ! 低いのが、地面の下を這ってくる感じで――!」


私は手を止めた。

窓の外。辺境の山々の向こう。

黒い靄が、ゆっくりと広がっていた。


「……イーノさん。この町の人は、何人ですか」


「し、知らねえ。千人くらい?」


「では千人分です」


私は立ち上がり、作業着の袖を括った。


「私、世界のために働いたことは一度もございません」


「え?」


「ただ、音が苦しそうだと、放っておけないだけでした。――今回も同じです」


扉のところに、黒い影が立っていた。

サイラス。


「行くのか」


「はい」


「馬車では間に合わん。山脈を越える。俺が運ぶ」


「……八時間、走り続けることになりますが。落としませんか」


「落とさん」


「握り潰しませんか」


サイラスが、少し黙った。


「……気をつける」


「そこは断言していただきたかったのですが」


結論から言うと、彼は落とさなかったし、潰さなかった。


七時間四十分で、私たちは王都に着いた。


創世機関の麓。瘴気が渦を巻いている。

王宮の兵士たちが結界を張っているが、音を聞けばわかる。あと二時間ももたない。


「アルディス様!」


駆け寄ってきたのは、薄桃色の髪の少女だった。

目が真っ赤に腫れている。


「あ、あの、わたし、わたし……」


少女は、その場に膝をついた。


「あなたは、音が痛いって言うんですね。わたし、聞こえないんです。綺麗な音しか、聞こえないんです。壊れてるのに、綺麗に鳴っちゃうんです」


彼女は、床に額をつけた。


「……教えてください。お願いします」


私は少し、考えた。


この子を恨むのは簡単だった。でも、この子は何も奪っていない。

奪ったのは、奪ったことにすら気づいていない人間だ。


「ミレーヌ様。顔を上げてください。弟子は、床を見ていては務まりません」


「……え」


「ピンの摩耗記録です。まず、それを覚えていただきます。ただし」


私は機関の扉を見上げた。


「全員、生き残ってからです」


◇


機関内部は、地獄だった。


瘴気が配管を伝って流れ込み、視界は三メートル。

潤滑魔油が固着し、円筒はぎしぎしと悲鳴を上げている。


「アルディス」


サイラスが私を抱え上げたまま、足を止めた。


「音が、多すぎる」


「はい。私にも聞き分けられません」


瘴気が耳を侵している。

私の聴覚は、もう機能していなかった。


「だから、お願いします」


私はサイラスの耳元で言った。


「あなたの耳を、貸してください」


竜人の巨体が、びくりと震えた。


「……俺は、触ると壊す」


「触らなくて結構です。聴くだけでいい。三十年、使い道がなかったとおっしゃいましたね」


私は言った。


「今です」


そこからの二時間を、私は一生忘れないと思う。


「右、七歩先。甲高いのが混じる」

「櫛歯の八十二番です。歪み、おそらく〇・〇三ミリ。――楔を打ちます、押さえていてください」


「上。ゴロゴロ鳴ってる」

「ガバナー軸受です。魔油が固着しています。溶剤を」


「……変な音だ。ずれてる。拍が」

「第七区画です。――封印を解きます」


私は円筒の壁面に手をついた。

四百本のピン。私にしか読めない配列。


指先でひとつずつ、押し込んでいく。

北北西、十五度。あの日、巻鍵を置いた角度のとおりに。


カチ。

カチ。

カチ。


「アルディス。お前がここに刻んだ音――どんな音だ」


「機関が、楽になる音です」


最後のピンが、沈んだ。


円筒が、呻いた。

軋みが、ゆっくりと解けていく。


タン、タン、タン、タン。


毎秒三十二回。誤差ゼロ。


魔物抑制の和音が、戻った。


外で、瘴気が引いていく音がした。

巨大な黒い霧が、押し返されるように後退していく。


私は壁にもたれて、ずるずると座り込んだ。


「……終わりました」


「ああ」


サイラスが、隣に腰を下ろした。巨体が、ぎしりと床を鳴らす。


「アルディス。お前の言う『音』が――」


「存じております。もう三度目ですよ、その台詞」


「……そうか」


巨漢が、気まずそうに顔を背けた。


私は、少しだけ笑った。


◇


翌朝、王宮大広間。


国王、宰相、神官長、貴族たち。

全員が、油染みの作業着のまま立つ私を見ていた。


「アルディス・ヴェルトーレ。王国は貴殿に、調律聖女の地位を返還する」


国王の言葉に、私は首を振った。


「お断りいたします」


どよめき。


「……理由を聞こう」


「聖女は、職ではございません。信仰でございます。信仰には、契約書も、休暇も、報酬規定もございません」


私は一歩前に出た。


「私が受けるのは、〈保守契約者〉の職のみです。条件は、三つございます」


「一点目。契約は更新制とし、報酬を明示すること。そして――休暇、年間四十日」


「四十日!?」


誰かが叫んだ。


「少ないでしょうか」


「い、いや、多い!」


壁際で、銀縁眼鏡の女性が静かに口を開いた。


「商業ギルドとしては妥当と判断します。記録上、前任者の実労働は年三百六十五日、平均睡眠四時間。むしろ安価です」


「十二年、休みなく働いた人間は、過労で倒れます」


私は言った。


「そして倒れた保守技師の代わりは、どこにもおりません。――休ませるのは、私のためではなく、機関のためです」


前世の自分を、思い出していた。

点検記録を書きかけたまま、机に突っ伏して死んだ三十四歳。


誰も代わりがいなかった。

だから、現場は止まった。


「二点目。機関の保守を『神秘』ではなく『技術』として公開し、弟子を育てる権利を認めること」


神官長が顔色を変えた。


「それは異端だ! 神の御業を、人の技と呼ぶなど――!」


「神官長様」


私は彼を見た。


「ピンは摩耗します。これは、神への冒涜ではございません。――神がお作りになったものが、十二年もったという事実です。むしろ、賛美ではありませんか」


「……む」


「そして人の手で保てるようお作りになった。神は、人が保守することを前提に設計なさったのです。設計者の意図を汲まないのは、技師の恥でございます」


神官長は、長く黙った。

そして、ゆっくりと頭を垂れた。


「……貴殿の言、神殿として記録する」


「三点目」


私は最後の指を立てた。


「王家は、公式記録に、こう訂正を残してください」


私は一語ずつ、区切って言った。


「『調律聖女の職務は、鍵を回すだけではなかった』と」


広間が、静まり返った。


「……それだけか? 賠償も、地位も、復讐も望まんと」


「望みません」


私は答えた。


「ただ、記録してください。――記録のない作業は、存在しなかったことになりますので」


広間の隅で、白手袋の老家令が、ほんの一ミリ、眉を上げた。


◇


王太子リュカ・エル・ヴァレンティアは、廃嫡された。


配属先は、創世機関の最下層。潤滑魔油の運搬係。

一樽、六十キログラム。一日、四十樽。


三日目、彼は階段の途中で膝をついて吐いた。


「……おい、交代しろ。もう、持てん」


「無理です。人手が足りません」


「誰かがやるだろう!」


「その誰かが、あんただよ」


記録係の少年が、帳面から顔も上げずに言った。


「一樽六十キロ、今日はあと二十二樽な」


リュカは、樽に手を置いた。

肩が焼けるように痛かった。足が震えていた。


頭上では、円筒が回っている。毎秒三十二回。途切れることなく。


(……重い)


生まれて初めて、彼は『機関が重い』という実感を、身体で知った。


◇


ミレーヌ・ソランは、〈鳴らす係〉に配属された。

上司は、私。


初日、彼女に渡したのは、一冊の白紙の帳面だった。


「本日より、毎日同じ時刻に、同じ場所で、同じ音を聴いて、書き留めてください」


「は、はい! ……あの、いつまで?」


「十年です」


「じゅ……!」


「長いですか」


ミレーヌは、少し考えた。

それから、ぎゅっと帳面を抱きしめた。


「いいえ! やります!」


意外にも、彼女は本当に続けた。

三ヶ月後、彼女は自力で櫛歯の〇・〇一ミリの沈みを発見し、泣きながら報告に来た。


「ア、アルディス様! わたし、音が、痛いって、わかりました!」


「おめでとうございます」


私は彼女の帳面を受け取って、一行目を見た。


『第一日。わからない。でも、書く。』


「……ミレーヌ様」


「はい!」


「よい記録です」


◇


三年後。


創世機関、保守室。

朝六時。


「ピン第二千四百八十一番、摩耗〇・〇〇八ミリ! 交換予定、来年の春!」


十四歳になったイーノが、帳面を抱えて駆け回っている。

首席見習い。手には、三年前に私が削ってやった木の音叉がぶら下がっている。


口の端に、蜂蜜がついていた。


「イーノさん。食べながら記録を取らないでください。数字に蜂蜜が付きます」


「ついてねーよ! ……あ、ついてた」


保守室には、十七人の弟子がいる。

貴族の子もいれば、鉱山の子も、元神官もいる。

皆、油染みの作業着を着ている。


壁一面に、記録が貼ってある。

櫛歯の歪み曲線。ピンの摩耗予測。潤滑魔油の粘度季節補正表。


かつて『神秘』と呼ばれていたものが、今はただの、読める図表になっていた。


「ミレーヌ様。ガバナーの回転数は」


「誤差〇・一二%! 許容内です! ……あの、アルディス様。今日って、その、結婚式、ですよね」


「はい」


「作業着で行くんですか!?」


「着替えます」


「よかった……」


◇


式は、創世機関の調律回廊で行われた。


十二年間、毎朝私が立っていた場所。

かつて、婚約を破棄された場所。


「……緊張してるか」


隣で、黒い礼服の巨漢が言った。

肩の縫い目が、すでに一箇所裂けている。


「していません。サイラス様こそ、手が震えていらっしゃいますが」


「……壊しそうで」


「何をです」


「お前を」


私は少し笑った。


「そういえば、求婚のお言葉は、なんでしたっけ」


「『契約更新の意思確認だ』」


「ひどい求婚でした」


「……言い直していいか」


「どうぞ」


サイラスは、長く黙った。

言葉を選ぶ、いつもの沈黙。


「三十年、俺の耳は、何の役にも立たなかった。お前が来て、初めて使い道ができた。……それだけじゃない」


彼は、私を見下ろした。


「お前が『音が苦しそうだ』と言ったとき、俺は、自分のことを言われた気がした」


私は、息を止めた。


「壊れたものを捨てられなかったのは、たぶん、自分が壊れてると思ってたからだ。――お前は、それも直した」


「……私は、何も」


「三十秒だったけどな」


「水時計の話ですか」


「ああ」


私は、笑った。

今度は、ちゃんと。


誓いの言葉を交わした、その瞬間。


創世機関が、鳴った。


誰も聴いたことのない旋律だった。

調律院の記録にも、神殿の典範にもない。

ゆっくりとした、素朴な、どこか物悲しくて、でも優しい、四拍子の歌。


「な、なんだこれ!?」

「記録にない旋律です! 第零区画から――!」


騒然とする中で、私だけが、動けなかった。


知っている歌だった。


前世。工場の昼休み。

誰もいない休憩室で、冷えた弁当を食べながら、私が口ずさんでいた歌。


誰も聞いていなかった。

誰にも聞かせたことがなかった。


「……アルディス」


サイラスが、私の顔を見て、黙った。


私は、両手で顔を覆った。


十二年。いや、前世からなら、二十四年。

誰にも聞かれなかった音が、今、世界中に鳴り響いていた。


「ねーちゃん! なんか、いい音だな、これ」


イーノが、人をかき分けて駆けてきた。


「なんの曲?」


私は、涙を拭いた。


「――知らない曲です」


「嘘つけよ」


「嘘です」


◇


式の三日後。


私は、円筒の最奥へ降りた。


第零区画。

創世機関の図面にすら記載のない、最深部。

結婚式で鳴ったあの旋律は、ここから出ていた。


「アルディス様、灯りを。……うわ、下、まだ続いてる」


イーノが、背後からランプを差し出す。


「ありがとうございます。……下がっていてください。埃が落ちます」


私は壁面に手を伸ばした。


黒く煤けた鋼の円筒。その表面に、びっしりとピンが並んでいる。

だがここのピンは、他の区画と違った。


――配列に、規則がある。


私は拡大鏡を当てた。


指先が、止まった。


ピンの頭に、極小の刻印がある。

肉眼では見えない。幅、〇・二ミリほど。


『保守記録』

『交換 第七回』

『粘度補正 冬季』


……この世界の文字ではない。

私が十二年前に、自分だけのために作った符号だった。


誰にも読めないように。

略語と、記号と、前世の設備管理台帳の書式を混ぜて、作ったもの。


それが、ここに、刻まれている。


「読めんの?」


「読めます。――読めてしまいます」


「ねーちゃんが書いたのか?」


「いいえ」


私は震える手で、刻印をなぞった。


鋼の表面は、黒く酸化していた。

酸化被膜の厚さから、経過年数を推定する。

十年? 違う。

五十年? まだ足りない。


「……酸化被膜の厚さから推定して。少なくとも、三百年前のものです」


「……三百年」


「筆跡も、私のものによく似ております。同じ癖で、七画目を省略している」


一番奥に、一行だけ、他より大きな文字で刻まれていた。

それだけは、符号ではなかった。


『次の人へ。

 四番の櫛歯は、冬に鳴きます。

 油を、少し多めに』


私は、その場に膝をついた。


十二年間。

誰にも気づかれず、誰にも感謝されず、毎朝六時に起きて、ピンを打ち直してきた。


自分だけだと思っていた。

報われないのは、自分だけだと思っていた。


違った。


誰かが、いた。

ずっと前に。同じことを。同じように、たった一人で。

そして最後に、引き継ぎを残していった。


読む人が現れるかもわからないのに。


「……前任者が、いたのですね」


私は呟いた。


声が、円筒の中で反響して、小さく返ってきた。


背後から、ずしん、と重い足音が降りてくる。

巨大な影が、ランプの光を遮った。


「アルディス。音がする」


サイラスだった。


「はい」


「この区画の、さらに下から」


私は顔を上げた。


「……下?」


「ああ」


竜人の男は、傷のある片耳を、床へ向けた。

長い沈黙。


そして、低く言った。


「誰かが――鍵を、回してる」


私は立ち上がり、手袋をはめ直した。


首から下げた拡大鏡を拭う。

十二年ぶりに、磨いた。


「イーノさん。帳面と、ペンを」


「え? 今から?」


「新しい記録を始めます」


私は、第零区画のさらに奥へ続く、暗い階段を見下ろした。


「――第零区画、調査記録。第一日」


(了)


――――――


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

報われなかった誰かの地道な仕事に、ほんの少しでも光が当たればと思って書きました。

続きが気になった方は、ブックマークや評価をいただけると、作者が蜂蜜黒パンをかじって喜びます。

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