その遺言状、お父様には書けません。「あれー?」と弟が首をかしげた日、義母様は相続の席から消えました
ふだんはクール寄りの短編が多めの棚ですが、今回は毛色を変えて、すこしポップな姉弟バディものです。
公証人見習いの姉と、白々しいほど無邪気な弟。肩の力を抜いてお楽しみください。
「お姉様、ぼくのケーキは何分の一?」
喉の奥につかえていたものを、私は冷めた紅茶で押し流した。向かいのユアンは、父の葬儀から三日しか経っていないというのに、木苺のケーキを前にしてたいへん健全な顔をしている。健全でよろしい。八歳児まで一緒に沈んだら、私一人では引き上げられない。
「まず口のまわりを拭きなさい。話はそれからよ」
「拭いたら増える?」
「清潔さは増えるわ」
「ケーキは?」
「増えません」
残念そうに布巾を使うユアンの横で、私は机の引き出しを確かめた。月謝袋、父から預かった書庫の鍵、それから昨日までに届いた弔問状。月謝は二か月分ある。鍵もある。よし、今日のところは世界に勝っている。
弔問状を一通持ち上げた指が、勝手に綴じ紐を撫で、紙を灯りへ透かした。
「お姉様。またやってる」
「やってないわ。手が勝手に」
「紙を見ると、ひも、すかし、はじっこ」
「公証人見習いの職業病です。治療法は一人前になることね」
「じゃあ、まだ治らないね」
この弟、甘いものを与えている最中だけ妙に鋭い。
私はケーキを半分に切った。ユアンの目が刃先を追い、右へ左へ忙しい。たぶん今なら王冠を横に置いても、見るのはケーキだ。
「ぼくとお姉様で半分ずつ?」
「そうよ」
「切る人が、こっそり大きいほうを取ったら?」
「そのくらいなら、お姉様の労働報酬です」
「すごく大きかったら?」
ユアンが私の袖をくいっと引いた。甘えるときの合図だ。仕方なく、私は自分側のケーキをほんの少し削って弟の皿へ移した。
「ナイフをすり替えて、全部自分のものにしようとしたら?」
「ズルをした人は、席ごと外されるのよ」
「ケーキの席から?」
「分ける席から。だから、書いたものを勝手にすり替えてはいけません」
どうしてケーキから遺言状へ飛ぶのか。飛ばしたのは私だ。近ごろの私は、日常会話に公証実務を混入させないと落ち着かない。重症である。
「遺言状も、すり替えられる?」
「そうならないように、本物の遺言状は双子なの。一枚はおうちに、一枚は公証所に納めておくのよ」
「同じ顔?」
「同じ紙、同じ字、同じ結び目。片方だけおかしな顔をしていたら、すぐ分かるでしょう」
「ぼくとお姉様は、ぜんぜん同じ顔じゃないけど」
「そこは比喩です」
ケーキを獲得したユアンは、椅子の脚をぷらぷらさせながら歌いだした。
「みずうみ、さかな、さかなはなかなか、父様すなすな、ぼくの名まえー」
韻を踏めているような、踏んだ端から転んでいるような歌だった。湖と魚と父と砂。何がどうつながるのかは、作詞家本人のみぞ知る。私は二切れ目を要求される前に、ケーキナイフを片づけた。
午後、私たちは長卓のいちばん出口に近い席へ座らされた。
長卓の上座には義母上——ベアトリスが座り、その左右を親族たちが固めている。私たちの椅子だけ、退去しやすいよう少し斜めだった。親切設計が腹立たしい。
「では、故人の遺言状を読み上げます」
義母上は目元へ白いハンカチを当てた。父を失った妻の手元には、なぜか姉弟の荷物を運ぶ使用人への指示書と、義母上の実子へ渡す予定らしい鍵束が、すでにきっちり用意されている。悲嘆とは段取りがいいものだ。
「我が娘リディアと息子ユアンには、家産を継がせない。全財産および家の権利は、妻ベアトリスの実子へ譲るものとする——」
「故人のご遺志だ」
親族たちが一斉にうなずいた。合唱としては息ぴったりだが、誰一人、父の字を確かめようとはしない。音程より大事なものがあるでしょうに。
「日付は、先月十八日です」
胸の内側で何かが引っかかった。私はユアンを見なかった。見ると、顔に出る。
義母上は読み上げを終える前に、書庫の鍵を預かるよう使用人へ目配せした。それからようやく紙を置き、こちらへ顎を向ける。
「見習いの小娘と、字も満足に読めない子どもに、家の管理はできません。荷物をまとめて、今日中に出ていきなさい」
「故人の意思へ従うべきだ」
また合唱。今度は少々せっかちである。家族の争いを早く収めたいらしいが、急がせるのは私たちの退去だけだった。
遺言状が回ってきた。
私は受け取ると同時に、いつものように紙の端へ指を滑らせた。透かしを拾い、綴じ紐のあるはずの場所を探る。そこで、指が止まった。
「お姉様、お菓子が七つです」
ユアンは卓上の焼き菓子を数えていた。遺産を奪われかけている最中に茶菓子の残数を管理できる。大物か、八歳か。八歳だ。
「一つ食べたら六つよ」
「それってなあに?」
彼の指は菓子ではなく、遺言状の左上を向いていた。
「本物なら、いつもの結び目があるの。紙を、勝手に取り替えられないようにね」
「ないね」
「ええ。ずいぶん身軽な遺言状です」
紙からは安い青黒のインクの匂いがした。父が使い続けたものとは違う。透かしも、公証所指定の紙のものではない。偽物は、こちらが驚くほど倹約家だった。そこを節約してどうする。
けれど私は紙を卓上へ戻し、顔を上げただけにした。
「義母上。この遺言状は、どなたが書かれたのですか」
「夫本人に決まっているでしょう」
「立ち会った方は?」
「必要ありません。あの人はその日、朝から書斎へ籠もり、一人で書き上げたのです。病の身でありながらね。書いたあと、すぐ私に渡しました」
おや。聞いた以上の品が、次々と盆へ載ってくる。
「朝から、書斎に?」
「そうです。子どもには分からないでしょうけれど、遺言とは誰にも邪魔されず書くものなのよ」
義母上はユアンへ教え諭すように声を張った。八歳児が相手だと、語尾がよく伸びる。親族へ視線を移した途端、ハンカチが目元へ戻った。
「夫は弱っておりました。それでも最後の力で、家の行く末を私に託したのです」
「なるほど。書斎で一人きりに」
「何度言わせるの。そうです」
「では、署名を」
親族たちが同意書を私の前へ押し出した。義母上が遺言状を手元へ引き寄せるあいだ、彼らの声は大きい。
「見習いとはいえ、文字くらい読めるだろう」
「家族の争いを長引かせるな」
「父親の遺志を疑うとは、親不孝ではないか」
父の遺言を偽った席で、私の親不孝が断定された。罪名の投げ方が豪快すぎて、投げた本人へ一周して戻りそうである。
使用人が私の背後へ来た。
「書庫の鍵を」
「まだ読み合わせの途中です」
「奥様のご命令です」
鍵を握ったまま抵抗すれば、ユアンまで乱暴に追い出されるかもしれない。私は指を開いた。真鍮の鍵が、硬い音を立てて銀盆へ落ちる。
義母上の実子へ渡す鍵束の隣へ、それが置かれた。
「姉弟の荷物も玄関へ」
廊下を、私の本箱が通っていった。続いてユアンの上着、勉強机の小さな引き出し、月謝袋をしまっていた箱。家が遠ざかるとは、壁が離れていくことではない。自分の物が他人の手で玄関へ向かうことだった。
「みずうみ、さかな、さかなは——」
「うるさい!」
義母上の声が、ユアンの歌を切った。
ユアンは口を閉じ、七つの焼き菓子をもう一度数えた。一つも減っていない。こんな席の菓子など食べなくていい、と言いたいところだが、罪のない焼き菓子まで敵に回す必要はない。
「この紙には、公証所の綴じがありません」
「見習い風情が、何を知ったようなことを」
「綴じのない写しを遺言状として扱うことはできません」
「夫が家で書いたものです。公証所の型に合わなくて当然でしょう。あの人の最期の言葉を、紙の値段で侮辱するつもりですか」
義母上は椅子の背へゆったり身を預けた。親族たちも、こちらへ署名欄をさらに押してくる。
「故人の意思だ」
「署名しなさい」
「子どもをいつまでこんな席に置いておく」
その言葉だけは、こちらのものだった。
私は遺言状の日付を指で隠した。ユアンに見せたくなかった。先月十八日。それが何の日だったか、私は知っている。
「ユアン。あなたは先に部屋へ戻りなさい」
「でも、ぼくの机、玄関に行ったよ」
「では庭へ。すぐ迎えに行くから」
「お姉様」
「大丈夫よ」
大丈夫ではないときほど、姉はこれを言う。便利で、最低の言葉だ。
椅子から立たせようと伸ばした私の手を、ユアンが避けた。代わりに、私の袖をくいっと引く。
「お姉様、ぼく、ここにいる」
「ユアン」
「だって、ぼくの家の話でしょう?」
日付を隠していた手を、私は下ろせなかった。
袖をつかんだ小さな指が、逃げずにそこにいた。
私は遺言状を隠すのをやめた。そして机の下で、その手を握った。
「みずうみ、さかな、さかなはなかなか、父様すなすな、ぼくの名まえー」
ユアンは小さな声で、さっきの歌を最初から口ずさんだ。
「何を歌っているの。黙りなさい」
「父様と湖に行った日の歌です」
卓上で、誰の指も動かなくなった。
「お魚、なかなか釣れなかった。だから父様と砂に字を書いたんです。父様がぼくの名前を書いて、ぼくも隣にまねして書いた」
ユアンは遺言状へ顔を寄せた。習い途中の文字を、一つずつ拾うように見る。私の手の中で、彼の指先だけが冷たかった。
それでもユアンは、私の袖をくいっと引いた。
「あれー? おかしいなぁ。ぼくのお名前、ちがう」
彼が指したのは、遺言状に書かれた自分の名だった。ユアンの名が、別の綴りになっている。
「父様が砂に書いた字と、ちがいます。ぼく、何回もまちがえたけど、父様はまちがえなかったよ」
「病の床で書いたのです!」
義母上が椅子の背をつかんだ。爪の先が白くなる。
「手が震えていたのでしょう。名前の一字くらい、書き損じても——」
「でも、この日、父様は病気のベッドにいません」
ユアンの声は大きくなかった。
「先月十八日は、朝からぼくと湖にいました。お昼も湖で食べて、夕方まで歩きました。帰りはぼくが疲れて、父様がおんぶしてくれた。ずっと元気でした」
「そんな子どもの記憶など!」
「義母上は先ほど、父が朝から書斎へ籠もっていたとおっしゃいました」
「私は、夫からそう聞いて——」
「すぐご自分へ渡した、とも」
義母上の視線が、親族たちへ走った。けれど誰も「故人のご遺志だ」とは続けなかった。合唱団は、難しい部分になると休符が長い。
ユアンは父との最後の一日を、偽物を破るために卓上へ差し出した。
私は机の下で弟の手を握り返し、椅子をユアンの隣へ寄せた。
「本物の遺言状は、双子なんです」
私は足元の書類鞄を持ち上げた。
「一枚は家に。一枚は公証所に納められる。家の一枚に何かあっても、もう一枚まで同時に消えることはありません」
封を切り、中から公証所の保管控えを取り出す。父の遺言状。余計な飾りのない、簡素な一枚だ。
「双子のもう一枚を、お持ちしました」
偽物の隣へ並べた。
公証所の透かしが灯りを受け、正規の綴じ紐が紙の左上を固く結んでいる。署名に使われたのは父がいつも使っていた深い黒のインク。そして本文は、たった一文。
「『姉弟へ、書庫を頼む』」
父らしい。短い。説明不足。けれど、私たちには分かった。
「こちらが、公証所で保管されていた本物です。署名も、ユアンの名の綴りも一致しています」
「そんなもの、あとからあなたが作ったのでしょう」
「では公証所へ照会を。受付日も、立会記録も残っています」
「でも、その紙に全財産とは書かれていないわ。ならば妻である私にも——」
義母上の声が、急に礼儀を思い出した。椅子の背を握ったまま、語尾だけが痩せていく。
「ええ。偽造などなさらなければ、配偶者として正当な取り分を受け取れました」
私は偽物を指先で押し戻した。
「ですが偽造をなさった。これは『相続欠格』に当たります」
「お姉様。そうぞくけっかく、ってなあに? ぼく、わからないから教えて」
ユアンが袖をくいっと引いた。ついさっき偽物の名前を見破った八歳児が、たいへん困った顔をしてみせる。白々しい。うちの弟ながら、実に白々しい。
「遺言を偽った人はね、はじめから相続人ではなかったことになるの」
「ケーキだと?」
「ナイフをすり替えた人は、切る前にお皿を下げられます」
「じゃあ、義母様のお皿は?」
「最初から、なかったことになるわね」
授業を終えたユアンは、満足そうに義母上を見上げた。義母上は、八歳児の視線から目を逸らした。
「遺言状を偽造した者は、相続する資格を失います。義母上へ返るのは、嫁入りの際に持ち込まれたご自身の財産だけです」
「待ちなさい。これは誤解よ。私は、あの人の意思を——」
親族たちの椅子が動いた。
「私たちは、内容を先に確認しただけだ」
「偽造とは知らされていない」
「署名は、まだしていないぞ」
誰からともなく義母上の椅子から離れていく。先ほどまで私たちを出口へ追いやっていた合唱団が、今度は責任からいちばん遠い壁際を目指していた。見事な転調である。二度と聴きたくないが。
義母上は彼らを見回した。助け舟は一艘も出なかった。
(なんだ、この姉弟は……)
その顔に浮かんだ問いへの答えを、私は知っている。
見習いの小娘と、字を習っている途中の八歳児です。あなたが最後まで数に入れなかった二人。
「ズルをした人は、席ごと外されるのよ」
「知ってます。ぼく、ケーキのときに習いました」
ユアンが真顔でうなずいた。誰に習ったかは言わない。教えたのは私だが、この場では世界の常識ということにしておく。
義母上の顔から、すっと血の気が引いた。
私は使用人の銀盆から書庫の鍵を取り戻した。代わりに、偽造された遺言状と義母上の持参財産目録を載せる。
「お持ちになれるものは、こちらの目録にある分だけです。父の家、書庫、家産、ユアンの後見に関わる権限は、一つも含まれません」
「私に出ていけと言うの?」
「先ほど義母上が、私たちへなさったご指示よりは穏当でしょう。玄関に荷物もございますから」
我ながら、よく切れた一言だった。胸の内側で小さく拳を握る。勝った。ユアンが先に崩し、私が斬った。姉一人では届かなかった場所まで、二人で。
義母上は持参財産目録へ署名した。筆先が紙を引っかき、最後の線だけが不格好に跳ねる。使用人が彼女の荷箱を玄関へ運び、卓の端にあった鍵束から父の家の鍵が外された。
「その椅子も下げて」
私が言うと、使用人は義母上の背後から椅子を引いた。彼女が立ち上がったあと、椅子はそのまま部屋の外へ運び出される。
席が、本当になくなった。
義母上は一度も振り返らず、持参した荷物だけを伴って玄関を出た。謝罪はなかったし、私たちも求めなかった。偽物の言葉で家族を名乗るには、本物の綴じ紐よりずっと強い何かが必要だったのだ。
後日、公証所は私の見立てと照合手続きを正式に認め、私は見習いを卒業した。
取り戻した書庫の机には、父の本と、私の公証印と、ユアンの文字練習帳が並んでいる。弟の月謝は滞りなく支払われた。ついでにケーキ代も。これは必要経費である。異論は認めない。
「お姉様、次のご依頼です」
ユアンが封書を両手で持ってきた。
「もう読めるの?」
「読めるし、ケーキもいる」
「依頼状にケーキと書いてあるの?」
「書いてないけど、ぼくには分かります」
ユアンは得意げに封を掲げた。
「差出人は、仕立屋さん。表題は、なくした契約書をさがしてください」
「なくした契約書?」
「双子じゃなかったのかな」
私は机の脇に置いた皿を出した。木苺のケーキが二切れ。今度は最初から、同じ大きさにしてある。
「それを調べるのが、私たちの仕事ね」
「ぼくも?」
「ええ。相棒ですから」
ユアンは少しだけ口を閉じた。それからケーキを見て、すぐにいつもの顔へ戻る。
「では相棒の分を、大きめにお願いします」
「もう切ってあります」
「ナイフは?」
「隠しました」
「お姉様、ずるい」
父の書庫に、弟の声が転がった。
私は依頼状を受け取り、綴じと透かしを指で確かめる。隣ではユアンが、二切れのケーキを真剣に見比べていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
崩し役の弟と、斬り役の姉。凸凹バディの相続事件簿、いかがでしたか。
「この二人の次の事件も読みたい」と思っていただけたら、感想欄でぜひひとこと。続編の一番の後押しになります。
面白かった——そんなときは、★やリアクションでそっと教えていただけると、創作活動の励みになります。
ほかの短編も、作者ページからのぞいてみてください。
【追記 2026/7/22】おかげさまで、日間ランキングで 異世界〔恋愛〕短編78位・総合短編117位・全作品総合218位 に入りました。姉弟を見つけてくださった皆さま、ありがとうございます。




