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その遺言状、お父様には書けません。「あれー?」と弟が首をかしげた日、義母様は相続の席から消えました

作者: イレニス
掲載日:2026/07/21

ふだんはクール寄りの短編が多めの棚ですが、今回は毛色を変えて、すこしポップな姉弟バディものです。

公証人見習いの姉と、白々しいほど無邪気な弟。肩の力を抜いてお楽しみください。

「お姉様、ぼくのケーキは何分の一?」


 喉の奥につかえていたものを、私は冷めた紅茶で押し流した。向かいのユアンは、父の葬儀から三日しか経っていないというのに、木苺のケーキを前にしてたいへん健全な顔をしている。健全でよろしい。八歳児まで一緒に沈んだら、私一人では引き上げられない。


「まず口のまわりを拭きなさい。話はそれからよ」


「拭いたら増える?」


「清潔さは増えるわ」


「ケーキは?」


「増えません」


 残念そうに布巾を使うユアンの横で、私は机の引き出しを確かめた。月謝袋、父から預かった書庫の鍵、それから昨日までに届いた弔問状。月謝は二か月分ある。鍵もある。よし、今日のところは世界に勝っている。


 弔問状を一通持ち上げた指が、勝手に綴じ紐を撫で、紙を灯りへ透かした。


「お姉様。またやってる」


「やってないわ。手が勝手に」


「紙を見ると、ひも、すかし、はじっこ」


「公証人見習いの職業病です。治療法は一人前になることね」


「じゃあ、まだ治らないね」


 この弟、甘いものを与えている最中だけ妙に鋭い。


 私はケーキを半分に切った。ユアンの目が刃先を追い、右へ左へ忙しい。たぶん今なら王冠を横に置いても、見るのはケーキだ。


「ぼくとお姉様で半分ずつ?」


「そうよ」


「切る人が、こっそり大きいほうを取ったら?」


「そのくらいなら、お姉様の労働報酬です」


「すごく大きかったら?」


 ユアンが私の袖をくいっと引いた。甘えるときの合図だ。仕方なく、私は自分側のケーキをほんの少し削って弟の皿へ移した。


「ナイフをすり替えて、全部自分のものにしようとしたら?」


「ズルをした人は、席ごと外されるのよ」


「ケーキの席から?」


「分ける席から。だから、書いたものを勝手にすり替えてはいけません」


 どうしてケーキから遺言状へ飛ぶのか。飛ばしたのは私だ。近ごろの私は、日常会話に公証実務を混入させないと落ち着かない。重症である。


「遺言状も、すり替えられる?」


「そうならないように、本物の遺言状は双子なの。一枚はおうちに、一枚は公証所に納めておくのよ」


「同じ顔?」


「同じ紙、同じ字、同じ結び目。片方だけおかしな顔をしていたら、すぐ分かるでしょう」


「ぼくとお姉様は、ぜんぜん同じ顔じゃないけど」


「そこは比喩です」


 ケーキを獲得したユアンは、椅子の脚をぷらぷらさせながら歌いだした。


「みずうみ、さかな、さかなはなかなか、父様すなすな、ぼくの名まえー」


 韻を踏めているような、踏んだ端から転んでいるような歌だった。湖と魚と父と砂。何がどうつながるのかは、作詞家本人のみぞ知る。私は二切れ目を要求される前に、ケーキナイフを片づけた。



 午後、私たちは長卓のいちばん出口に近い席へ座らされた。


 長卓の上座には義母上——ベアトリスが座り、その左右を親族たちが固めている。私たちの椅子だけ、退去しやすいよう少し斜めだった。親切設計が腹立たしい。


「では、故人の遺言状を読み上げます」


 義母上は目元へ白いハンカチを当てた。父を失った妻の手元には、なぜか姉弟の荷物を運ぶ使用人への指示書と、義母上の実子へ渡す予定らしい鍵束が、すでにきっちり用意されている。悲嘆とは段取りがいいものだ。


「我が娘リディアと息子ユアンには、家産を継がせない。全財産および家の権利は、妻ベアトリスの実子へ譲るものとする——」


「故人のご遺志だ」


 親族たちが一斉にうなずいた。合唱としては息ぴったりだが、誰一人、父の字を確かめようとはしない。音程より大事なものがあるでしょうに。


「日付は、先月十八日です」


 胸の内側で何かが引っかかった。私はユアンを見なかった。見ると、顔に出る。


 義母上は読み上げを終える前に、書庫の鍵を預かるよう使用人へ目配せした。それからようやく紙を置き、こちらへ顎を向ける。


「見習いの小娘と、字も満足に読めない子どもに、家の管理はできません。荷物をまとめて、今日中に出ていきなさい」


「故人の意思へ従うべきだ」


 また合唱。今度は少々せっかちである。家族の争いを早く収めたいらしいが、急がせるのは私たちの退去だけだった。



 遺言状が回ってきた。


 私は受け取ると同時に、いつものように紙の端へ指を滑らせた。透かしを拾い、綴じ紐のあるはずの場所を探る。そこで、指が止まった。


「お姉様、お菓子が七つです」


 ユアンは卓上の焼き菓子を数えていた。遺産を奪われかけている最中に茶菓子の残数を管理できる。大物か、八歳か。八歳だ。


「一つ食べたら六つよ」


「それってなあに?」


 彼の指は菓子ではなく、遺言状の左上を向いていた。


「本物なら、いつもの結び目があるの。紙を、勝手に取り替えられないようにね」


「ないね」


「ええ。ずいぶん身軽な遺言状です」


 紙からは安い青黒のインクの匂いがした。父が使い続けたものとは違う。透かしも、公証所指定の紙のものではない。偽物は、こちらが驚くほど倹約家だった。そこを節約してどうする。


 けれど私は紙を卓上へ戻し、顔を上げただけにした。


「義母上。この遺言状は、どなたが書かれたのですか」


「夫本人に決まっているでしょう」


「立ち会った方は?」


「必要ありません。あの人はその日、朝から書斎へ籠もり、一人で書き上げたのです。病の身でありながらね。書いたあと、すぐ私に渡しました」


 おや。聞いた以上の品が、次々と盆へ載ってくる。


「朝から、書斎に?」


「そうです。子どもには分からないでしょうけれど、遺言とは誰にも邪魔されず書くものなのよ」


 義母上はユアンへ教え諭すように声を張った。八歳児が相手だと、語尾がよく伸びる。親族へ視線を移した途端、ハンカチが目元へ戻った。


「夫は弱っておりました。それでも最後の力で、家の行く末を私に託したのです」


「なるほど。書斎で一人きりに」


「何度言わせるの。そうです」


「では、署名を」


 親族たちが同意書を私の前へ押し出した。義母上が遺言状を手元へ引き寄せるあいだ、彼らの声は大きい。


「見習いとはいえ、文字くらい読めるだろう」


「家族の争いを長引かせるな」


「父親の遺志を疑うとは、親不孝ではないか」


 父の遺言を偽った席で、私の親不孝が断定された。罪名の投げ方が豪快すぎて、投げた本人へ一周して戻りそうである。



 使用人が私の背後へ来た。


「書庫の鍵を」


「まだ読み合わせの途中です」


「奥様のご命令です」


 鍵を握ったまま抵抗すれば、ユアンまで乱暴に追い出されるかもしれない。私は指を開いた。真鍮の鍵が、硬い音を立てて銀盆へ落ちる。


 義母上の実子へ渡す鍵束の隣へ、それが置かれた。


「姉弟の荷物も玄関へ」


 廊下を、私の本箱が通っていった。続いてユアンの上着、勉強机の小さな引き出し、月謝袋をしまっていた箱。家が遠ざかるとは、壁が離れていくことではない。自分の物が他人の手で玄関へ向かうことだった。


「みずうみ、さかな、さかなは——」


「うるさい!」


 義母上の声が、ユアンの歌を切った。


 ユアンは口を閉じ、七つの焼き菓子をもう一度数えた。一つも減っていない。こんな席の菓子など食べなくていい、と言いたいところだが、罪のない焼き菓子まで敵に回す必要はない。


「この紙には、公証所の綴じがありません」


「見習い風情が、何を知ったようなことを」


「綴じのない写しを遺言状として扱うことはできません」


「夫が家で書いたものです。公証所の型に合わなくて当然でしょう。あの人の最期の言葉を、紙の値段で侮辱するつもりですか」


 義母上は椅子の背へゆったり身を預けた。親族たちも、こちらへ署名欄をさらに押してくる。


「故人の意思だ」


「署名しなさい」


「子どもをいつまでこんな席に置いておく」


 その言葉だけは、こちらのものだった。


 私は遺言状の日付を指で隠した。ユアンに見せたくなかった。先月十八日。それが何の日だったか、私は知っている。


「ユアン。あなたは先に部屋へ戻りなさい」


「でも、ぼくの机、玄関に行ったよ」


「では庭へ。すぐ迎えに行くから」


「お姉様」


「大丈夫よ」


 大丈夫ではないときほど、姉はこれを言う。便利で、最低の言葉だ。


 椅子から立たせようと伸ばした私の手を、ユアンが避けた。代わりに、私の袖をくいっと引く。


「お姉様、ぼく、ここにいる」


「ユアン」


「だって、ぼくの家の話でしょう?」


 日付を隠していた手を、私は下ろせなかった。


 袖をつかんだ小さな指が、逃げずにそこにいた。


 私は遺言状を隠すのをやめた。そして机の下で、その手を握った。



「みずうみ、さかな、さかなはなかなか、父様すなすな、ぼくの名まえー」


 ユアンは小さな声で、さっきの歌を最初から口ずさんだ。


「何を歌っているの。黙りなさい」


「父様と湖に行った日の歌です」


 卓上で、誰の指も動かなくなった。


「お魚、なかなか釣れなかった。だから父様と砂に字を書いたんです。父様がぼくの名前を書いて、ぼくも隣にまねして書いた」


 ユアンは遺言状へ顔を寄せた。習い途中の文字を、一つずつ拾うように見る。私の手の中で、彼の指先だけが冷たかった。


 それでもユアンは、私の袖をくいっと引いた。


「あれー? おかしいなぁ。ぼくのお名前、ちがう」


 彼が指したのは、遺言状に書かれた自分の名だった。ユアンの名が、別の綴りになっている。


「父様が砂に書いた字と、ちがいます。ぼく、何回もまちがえたけど、父様はまちがえなかったよ」


「病の床で書いたのです!」


 義母上が椅子の背をつかんだ。爪の先が白くなる。


「手が震えていたのでしょう。名前の一字くらい、書き損じても——」


「でも、この日、父様は病気のベッドにいません」


 ユアンの声は大きくなかった。


「先月十八日は、朝からぼくと湖にいました。お昼も湖で食べて、夕方まで歩きました。帰りはぼくが疲れて、父様がおんぶしてくれた。ずっと元気でした」


「そんな子どもの記憶など!」


「義母上は先ほど、父が朝から書斎へ籠もっていたとおっしゃいました」


「私は、夫からそう聞いて——」


「すぐご自分へ渡した、とも」


 義母上の視線が、親族たちへ走った。けれど誰も「故人のご遺志だ」とは続けなかった。合唱団は、難しい部分になると休符が長い。


 ユアンは父との最後の一日を、偽物を破るために卓上へ差し出した。


 私は机の下で弟の手を握り返し、椅子をユアンの隣へ寄せた。



「本物の遺言状は、双子なんです」


 私は足元の書類鞄を持ち上げた。


「一枚は家に。一枚は公証所に納められる。家の一枚に何かあっても、もう一枚まで同時に消えることはありません」


 封を切り、中から公証所の保管控えを取り出す。父の遺言状。余計な飾りのない、簡素な一枚だ。


「双子のもう一枚を、お持ちしました」


 偽物の隣へ並べた。


 公証所の透かしが灯りを受け、正規の綴じ紐が紙の左上を固く結んでいる。署名に使われたのは父がいつも使っていた深い黒のインク。そして本文は、たった一文。


「『姉弟へ、書庫を頼む』」


 父らしい。短い。説明不足。けれど、私たちには分かった。


「こちらが、公証所で保管されていた本物です。署名も、ユアンの名の綴りも一致しています」


「そんなもの、あとからあなたが作ったのでしょう」


「では公証所へ照会を。受付日も、立会記録も残っています」


「でも、その紙に全財産とは書かれていないわ。ならば妻である私にも——」


 義母上の声が、急に礼儀を思い出した。椅子の背を握ったまま、語尾だけが痩せていく。


「ええ。偽造などなさらなければ、配偶者として正当な取り分を受け取れました」


 私は偽物を指先で押し戻した。


「ですが偽造をなさった。これは『相続欠格』に当たります」


「お姉様。そうぞくけっかく、ってなあに? ぼく、わからないから教えて」


 ユアンが袖をくいっと引いた。ついさっき偽物の名前を見破った八歳児が、たいへん困った顔をしてみせる。白々しい。うちの弟ながら、実に白々しい。


「遺言を偽った人はね、はじめから相続人ではなかったことになるの」


「ケーキだと?」


「ナイフをすり替えた人は、切る前にお皿を下げられます」


「じゃあ、義母様のお皿は?」


「最初から、なかったことになるわね」


 授業を終えたユアンは、満足そうに義母上を見上げた。義母上は、八歳児の視線から目を逸らした。


「遺言状を偽造した者は、相続する資格を失います。義母上へ返るのは、嫁入りの際に持ち込まれたご自身の財産だけです」


「待ちなさい。これは誤解よ。私は、あの人の意思を——」


 親族たちの椅子が動いた。


「私たちは、内容を先に確認しただけだ」


「偽造とは知らされていない」


「署名は、まだしていないぞ」


 誰からともなく義母上の椅子から離れていく。先ほどまで私たちを出口へ追いやっていた合唱団が、今度は責任からいちばん遠い壁際を目指していた。見事な転調である。二度と聴きたくないが。


 義母上は彼らを見回した。助け舟は一艘も出なかった。


(なんだ、この姉弟は……)


 その顔に浮かんだ問いへの答えを、私は知っている。


 見習いの小娘と、字を習っている途中の八歳児です。あなたが最後まで数に入れなかった二人。


「ズルをした人は、席ごと外されるのよ」


「知ってます。ぼく、ケーキのときに習いました」


 ユアンが真顔でうなずいた。誰に習ったかは言わない。教えたのは私だが、この場では世界の常識ということにしておく。


 義母上の顔から、すっと血の気が引いた。


 私は使用人の銀盆から書庫の鍵を取り戻した。代わりに、偽造された遺言状と義母上の持参財産目録を載せる。


「お持ちになれるものは、こちらの目録にある分だけです。父の家、書庫、家産、ユアンの後見に関わる権限は、一つも含まれません」


「私に出ていけと言うの?」


「先ほど義母上が、私たちへなさったご指示よりは穏当でしょう。玄関に荷物もございますから」


 我ながら、よく切れた一言だった。胸の内側で小さく拳を握る。勝った。ユアンが先に崩し、私が斬った。姉一人では届かなかった場所まで、二人で。


 義母上は持参財産目録へ署名した。筆先が紙を引っかき、最後の線だけが不格好に跳ねる。使用人が彼女の荷箱を玄関へ運び、卓の端にあった鍵束から父の家の鍵が外された。


「その椅子も下げて」


 私が言うと、使用人は義母上の背後から椅子を引いた。彼女が立ち上がったあと、椅子はそのまま部屋の外へ運び出される。


 席が、本当になくなった。


 義母上は一度も振り返らず、持参した荷物だけを伴って玄関を出た。謝罪はなかったし、私たちも求めなかった。偽物の言葉で家族を名乗るには、本物の綴じ紐よりずっと強い何かが必要だったのだ。



 後日、公証所は私の見立てと照合手続きを正式に認め、私は見習いを卒業した。


 取り戻した書庫の机には、父の本と、私の公証印と、ユアンの文字練習帳が並んでいる。弟の月謝は滞りなく支払われた。ついでにケーキ代も。これは必要経費である。異論は認めない。


「お姉様、次のご依頼です」


 ユアンが封書を両手で持ってきた。


「もう読めるの?」


「読めるし、ケーキもいる」


「依頼状にケーキと書いてあるの?」


「書いてないけど、ぼくには分かります」


 ユアンは得意げに封を掲げた。


「差出人は、仕立屋さん。表題は、なくした契約書をさがしてください」


「なくした契約書?」


「双子じゃなかったのかな」


 私は机の脇に置いた皿を出した。木苺のケーキが二切れ。今度は最初から、同じ大きさにしてある。


「それを調べるのが、私たちの仕事ね」


「ぼくも?」


「ええ。相棒ですから」


 ユアンは少しだけ口を閉じた。それからケーキを見て、すぐにいつもの顔へ戻る。


「では相棒の分を、大きめにお願いします」


「もう切ってあります」


「ナイフは?」


「隠しました」


「お姉様、ずるい」


 父の書庫に、弟の声が転がった。


 私は依頼状を受け取り、綴じと透かしを指で確かめる。隣ではユアンが、二切れのケーキを真剣に見比べていた。

お読みいただき、ありがとうございました。


崩し役の弟と、斬り役の姉。凸凹バディの相続事件簿、いかがでしたか。

「この二人の次の事件も読みたい」と思っていただけたら、感想欄でぜひひとこと。続編の一番の後押しになります。

面白かった——そんなときは、★やリアクションでそっと教えていただけると、創作活動の励みになります。


ほかの短編も、作者ページからのぞいてみてください。


【追記 2026/7/22】おかげさまで、日間ランキングで 異世界〔恋愛〕短編78位・総合短編117位・全作品総合218位 に入りました。姉弟を見つけてくださった皆さま、ありがとうございます。

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異世界恋愛ジャンルを更新順に毎日読んでます。 この作品があって、このジャンルで遺産相続メインの話は珍しいなと読み始め、最後の方でこの姉と弟が実は血の繋がりがないとか?とか、父親の秘書が登場して罪を明…
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