浮気者には、死という祝福を
この国には、祝福というものがあるのだと、まことしやかに囁かれている。
雨の前に頭が痛む者を、雨読みに祝福されたと言う。
嘘を見抜く者を、真実に祝福されたと言う。
死地を避ける者を、運命に祝福されたと言う。
本当に神の力なのか、ただの偶然なのかは分からない。
自分が祝福されていると、生涯気づかない者もいる。
気づいたところで、信じきれない者もいる。
祝福とは、そういう曖昧なものだった。
ノエリアが初めて、私だけを愛してくれる人がいい、と思ったのは、母が父のハンカチに刺繍をしている夜だった。
父は美しい人だった。
社交界では朗らかで、誰にでも優しく、母にも娘にも甘い言葉を惜しまない。母はそんな父を愛していた。目が合えば嬉しそうに微笑み、父が名を呼ぶだけで、少しだけ頬を染めた。
けれど父の袖には、時々、知らない香水の匂いが残っていた。
その夜も、父だけが夜会へ出ていた。
母は灯りのそばで、白いハンカチに父の名を一針ずつ縫い込んでいた。顔色は悪いのに、母は愛おしそうに、その刺繍した文字を指先でそっと撫でた。
今ごろ父が、誰か別の女の隣で笑っているかもしれないことを、母は分かっているはずだった。
幼いノエリアにだって分かった。
それなのに母は泣かなかった。
泣いていない顔の方が、ノエリアには怖かった。
一針、また一針。
針先だけが、時々、ほんの少し震えた。
「愛しているのは君だけだ」
「帰る場所はここしかない」
「お前とノエリアが、私の家族だ」
父はいつもそう言った。
母はその言葉を信じようとした。信じたかったのだと思う。嘘にまみれた言葉だと分かっていても、差し出されれば手を伸ばしてしまう。母はそういう人だった。
母は怒鳴らず、責めず、父の帰りを待った。食べる量は減り、笑う時間は減り、やがて部屋からあまり出なくなった。
大人たちは、体調が悪いのだと言った。
ノエリアには分かっていた。
母は病に倒れたのではない。
父を愛していたから、壊れていったのだ。
父は、家にいる時だけ母を愛した。
花を贈る。
額に口づける。
「お前が一番だ」と言う。
母はそのたびに許した。
許されたのは父の方なのに、救われたような顔をするのは母の方だった。
それが、ノエリアには気味が悪かった。
愛していると言われただけで、傷つけられたことまでなかったように笑う。父の罪より、父が戻ってきたことを喜ぶ。母のその顔を見るたび、ノエリアは喉の奥が冷えた。
その数年後、母は本当に病で亡くなった。
葬儀のあと、父は泣いた。
「愛していたんだ」
今さら、そんなことを言っていた。
「本当に、愛していた」
ノエリアは父を見上げた。
涙で濡れた目。
震える声。
母の棺にすがる手。
どれも、ひとつも胸に届かなかった。
愛していた。
なら、なぜ生きているうちに大切にしなかったの。
母も母だ。そんな男の言葉を待ち続けて、痩せて、黙って、死んでいった。
愚かだ。
泣きながら、ノエリアはそう思った。
それでもノエリアは、母を愛していた。それは本当だった。だから涙は止まらなかった。
けれど、母の弱さを愛とは呼びたくなかった。
父の名を刺繍したハンカチが、棺の中で母の胸元に置かれていた。
死んでもまだ、その名を抱いている。
哀れで、愚かで、少し気味が悪かった。
ノエリアは涙で濡れた頬のまま、目を伏せた。
あんなものが愛なら、いらない。
あんなふうに誰かを待って、泣いて、細くなっていくくらいなら、そんな幸せはいらない。
あんなものを大事に抱えて死ぬなんて、あまりに愚かだ。
私は、ああはならない。
私だけを見てくれる人がいい。
私だけを選んでくれる人がいい。
私を泣かせない人がいい。
私の胸を、痛ませない人がいい。
もし、私だけだと言って、私の胸を痛くする人がいるなら。
その人には、ちゃんと罰が当たればいい。
その夜、ノエリアは泣き疲れて、棺のそばで眠った。
夢を見た。
白い光が、胸に落ちてくる夢だった。
目覚めたとき、ノエリアは胸元を押さえた。
痛みはない。
そこに、何かが棲みついたような気がした。
葬儀のあと、父は領地へ下がった。
ノエリアは母の実家に引き取られた。
父が喪に服すためだとか、心身を休めるためだとか、大人たちはもっともらしい理由を並べていた。
ノエリアには、どうでもよかった。
父は最後まで何かを言いたそうにしていた。
ノエリアは、顔を上げなかった。
父には、もう何も期待していなかった。
愛されたいとも、選ばれたいとも思わない。
父は路傍の石と同じだった。
そこにある。
邪魔なら避ける。
砕こうとまでは思わない。
必要なのは、母の実家に迷惑をかけないだけの金と、ノエリアの婚姻に傷がつかない程度の家名だけ。
父には、それだけ差し出してもらえればよかった。
けれど恋人たちは違った。
ノエリアはそのたびに、期待してしまった。
この人だけは違うかもしれない。
私だけを見てくれるかもしれない。
母が持てなかったものを、私なら手に入れられるかもしれない。
ノエリアが欲しかったのは、母が縋った愛ではなかった。
夜明けに帰ってくる愛などいらない。
別の女の香水をまとったまま、優しい声で許しを乞う愛などいらない。
「それでも戻ってきてくれた」と自分に言い聞かせる愛などいらない。
欲しかったのは、もっと白くて、逃げ場のないものだった。
自分だけを見ている目。
自分だけを選ぶ心。
過去も、余白も、言い訳もない。
ほかの誰かを見た瞬間に壊れるほど、混じりけのないもの。
唯一無二の、純粋な愛だった。
目の前の私だけを愛してくれる人がいい。
ここにいる私だけを、一番にしてくれる人がほしい。
そして、もし裏切るのなら。
その浮気者には罰が下りますように。
最初の恋人は、優しい人に見えた。
少なくとも、ノエリアはそう信じていた。
彼は「君だけだ」と言った。その声は甘く、まっすぐで、母が縋っていた父の言葉とは違うものに聞こえた。
ノエリアにとって、初めて愛した人だった。
だから信じた。
信じたかった。
だが、彼は、どうしようもない浮気者だった。
それを知ったのは、夜会の帰りだった。
彼の胸ポケットから一通の手紙が落ちた。
相手の女性からの手紙だった。
そこには「愛している」という言葉と、次はいつ二人きりで会えるのかという甘えた文字が並んでいた。
読んだ瞬間、ノエリアの胸が痛んだ。
「違うんだ、ノエリア」
彼は必死に言い訳をした。
「遊びだ。ほんの気の迷いで、君を愛していることに変わりはない」
その声が、父の声と重なった。
帰る場所はここだ。
愛しているのは君だけだ。
お前が一番だ。
同じだった。
全部、同じだった。
その夜、彼は死んだ。
原因不明の急死だった。毒もなく、傷もなく、健康だった心臓がただ止まった。
人々は不運だと言った。
ノエリアは泣いた。
喉が痛くなるほど泣いた。
好きだった。信じたかった。
けれど棺の前で涙を流しながら、胸の底ではほっとしていた。
よかった。
あんな人と結婚しなくて済んだ。
そう思った自分が怖かった。
怖かったのに、その安堵は甘かった。
二人目は、浮気をしたわけではなかった。
少なくとも、行いとしては。
真面目で、礼儀正しく、誰に対しても節度を守る男だった。
彼なら大丈夫。
彼なら、私だけを見てくれる。
そう思った。
ある夜会で、ひとりの令嬢が彼に声をかけた。
「お久しぶりですわ」
その令嬢は、彼の幼馴染だった。
彼はほんの一瞬、ノエリアには見せたことのない顔をした。懐かしさと、痛みと、諦めが混じったような顔だった。
それを見た瞬間、胸が痛んだ。
ああ。
私ではない。
この人の奥には、私ではない女がいる。
あとで知った。
彼は本当は、その令嬢と結婚したかったのだと。
家の都合で、それは叶わなかったのだと。
その夜、彼は死んだ。
ノエリアは泣かなかった。
泣けなかった。
裏切られたとは言い切れない。
けれど、愛されていたとも言い切れなかった。
なら同じだ、と思った。
体に触れていなくても、手紙を交わしていなくても、心の奥に別の女を置いているのなら、同じだ。
母を泣かせた父と。
三人目は詩人だった。
彼はノエリアを美しい言葉で飾った。
黒髪を夜の絹と呼び、白い指を月光と呼び、微笑むたびに世界が息を止めると言った。
ノエリアは、その言葉が嫌いではなかった。
褒められるのは好きだった。
誰よりも美しい。
君だけだ。
君がいなければ息もできない。
君に愛されて死ねるなら、それすら幸福だ。
そう言われるたびに、胸の奥の暗い穴が少しだけ埋まる気がした。
だから、見ないふりをした。
彼がノエリアを見ているのではなく、ノエリアを愛する自分に酔っていることに。
胸はまだ痛まなかった。
痛んでしまえば、終わる。
それをもう、ノエリアは知っていた。
ある日、彼は詩集を見せた。
「母に捧げたものなんだ」
そこには書かれていた。
――誰より愛しい人へ。
ノエリアは微笑んだ。
「素敵ね」
けれど胸が痛んだ。
誰より。
私より?
母を愛することが悪いわけではない。
頭では分かっていた。分かっていたからこそ、自分がひどく醜いものに思えた。
それでも心は言った。
嫌だ。
私以外に、誰より愛しい人がいるなんて。
その夜、彼は目を覚まさなかった。
四人目は、穏やかな人だった。
彼は浮ついた言葉を言わなかった。手を握る時も、夜会で踊る時も、節度を守った。
ノエリアは、今度こそ大丈夫だと思った。
ある日、庭で猫を見て、彼はしゃがみ込んだ。
猫は人懐こく、彼の膝に前脚をかけた。
彼は少し驚いたあと、目元をゆるめた。
ノエリアには見せたことのないほど、無防備な顔だった。
「……可愛いな」
その声は、あまりに優しかった。
ノエリアへ向ける時より、力が抜けていた。取り繕う必要も、言葉を選ぶ必要もない。ただ、可愛いものを可愛いと思っている声だった。
胸が痛んだ。
負けた、と思った。
猫なんかに。
猫の喉が鳴った。
ノエリアは、その音まで憎らしいと思った。
次の瞬間、自分の中身を見てしまった気がして、吐き気がした。
彼は崩れ落ちた。
猫は驚いて逃げた。
ノエリアはその場に立ち尽くした。
たかが猫。
たかが猫なのに。
本当に、これも浮気なのだろうか。
本当に、神さまは私を守ってくださったのだろうか。
胸が痛むたび、愛すると決めた人が死ぬ。
まるで祝福が、ノエリアの痛みだけを聞き取っているみたいだった。
その夜、ノエリアは眠れなかった。
これを祝福だと思わなければ、立っていられなかった。
私を泣かせないためのものだ。
私を捨てる者を、私より他を選ぶ者を、神さまが遠ざけてくださっているのだ。
そう信じるしかなかった。
もうその頃には、ノエリアの周りに近づく男はほとんどいなかった。
美しいが、不吉な娘。
愛を誓った男が、次々に死ぬ娘。
誰が言い出したのか分からない言葉だけが、王都の夜会をゆっくり歩いていた。
エドモンドに出会ったのは、その少し後だった。
彼は静かな人だった。
声を荒げず、場の空気に流されず、誰かの笑い声につられて視線を動かすこともない。
華やかな令嬢たちが近くを通っても、彼の視線は動かなかった。
ノエリアだけを見ていた。
まっすぐに。
静かに。
一度も逸れずに。
うれしいと思うより先に、ノエリアは身構えた。
この人は、どうしてこんなに目を逸らさないのだろう。
怖くないのだろうか。
それとも、私の中に何かを見つけたのだろうか。
「踊っていただけますか」
初めてそう言われたとき、ノエリアは思わず問い返した。
「私と?」
「ええ」
「噂をご存じないのですか?」
「存じています」
「なら、なぜ」
エドモンドは、少しだけ微笑んだ。
「あなたが、とても寂しそうに見えたので」
ノエリアは、返す言葉を失った。
恐れられることには慣れていた。避けられることにも慣れていた。
けれど、寂しそうだと言われたのは初めてだった。
違う、と言いたかった。
声にならなかった。
誰にも触れられたくなかった場所に、そっと触れられた気がした。
彼は死ななかった。
一ヶ月。
三ヶ月。
半年。
彼は生きていた。
最初は、それだけで十分だった。
エドモンドは、ノエリアの過去を聞いても、安易に慰めなかった。父を罵ることも、母を哀れむこともなかった。
ただ静かに聞き終えたあと、こう言った。
「君が、安心して眠れる夜が増えるといい」
その言葉だけで、胸がほどけた。
ノエリアはその時、初めて思った。
この人なら、私の醜さを見ても逃げないかもしれない。
この人なら、私だけを見てくれるかもしれない。
エドモンドは、ノエリアの噂を知っても逃げなかった。それどころか、どこか納得したような目をしていた。
人が死ぬことに驚かない目。
心が離れることの方を、死より恐れている目。
その目を見て、ノエリアは思った。
この人も、こちら側の人なのかもしれない。
人の多い夜会では、エドモンドは壁側を歩いてくれた。ノエリアが人波に囲まれずに済むように。背後を気にしなくて済むように。
雨の日には、彼女の肩が濡れないよう、黙って立ち位置を変えた。馬車を降りるときは、先に地面のぬかるみを確かめてから手を差し出した。
褒め言葉は多くない。
けれど彼の行動はいつも、ノエリアを見ていた。
見すぎているほどだった。
彼の視線が、自分から外れない。
それがうれしかった。
うれしいと思った分だけ、その視線が少し逸れるだけで胸がざわつくようになった。
「怖くないの?」
ある夜、ノエリアは尋ねた。
「私を」
エドモンドはしばらく黙っていた。それから、彼女の指先を取った。
「怖いよ」
ノエリアの肩が揺れた。
「けれど、君から離れるほうが怖い」
優しい声だった。
なのに、甘いだけではなかった。
逃げ場をふさがれるような暗い熱があった。
ノエリアはそれに気づいた。
そして、嫌ではなかった。
むしろ、ほっとした。
この人も、まともではない。
そのことに。
ある午後、二人は庭の東屋にいた。
雨上がりの葉から、雫が落ちている。
ノエリアはしばらく迷ってから、口を開いた。
「私のそばにいた人は、何人も死んだわ」
エドモンドは黙って彼女を見ていた。
「浮気をした人もいた。心に、別の人がいた人もいた。けれど……もっと、些細なことで死んだ人もいた」
指先が震えた。
言ってしまえば、きっと嫌われる。
そう思った。
けれど、エドモンドには隠したくなかった。
隠したくないというより、試したかった。
これを聞いても、あなたは私を見るの。
私だけを見ていられるの。
「たぶん私は、怖いの。今、目の前にいる私だけを見てほしいの」
笑おうとして、うまく笑えなかった。
「私を愛していると言いながら、目の前にいる私以外のものを見ているのが怖い。別の誰かや、別の何かに心を向けられるのが、どうしても怖いの」
ひどく身勝手な願いだった。
それでもエドモンドは、彼女を責めなかった。
長く黙ったあと、低い声で言った。
「……私も、似たようなものだよ」
ノエリアは顔を上げた。
「今の私を見てほしい。ここにいる私を見てほしい。それ以外の誰かを心の奥に置かれるくらいなら、最初から何もいらない」
ノエリアは、息をのんだ。
怖い、とは思わなかった。
むしろ、胸の奥が熱くなった。
やっぱり。
あなたもこちら側の人なのね。
そう思った。
「では、私たちはうまくいくわね」
エドモンドが彼女を見る。
ノエリアは微笑んだ。
「私は、ここにいるあなた以外に心を向けたいとは思わないもの」
エドモンドの目が、わずかに揺れた。
「私もだ」
彼はそう言って、ノエリアの手を取った。
「目の前にいる君だけを見ていたい」
二人とも、笑っていた。
けれど握った手には、互いを逃がす気のない力がこもっていた。
二人は婚約した。
教会で誓いを交わすとき、ノエリアは少しだけ泣いた。
悲しみではなかった。
安堵だった。
「私は、あなたを愛します。あなただけを」
「私も」
エドモンドは静かに答えた。
「君だけを愛します」
それから、二人でいる時間は甘くなった。
穏やかな恋人同士とは、少し違っていたかもしれない。
ノエリアは、エドモンドが黙っている時間を嫌いではなかった。
何を考えているのか分からないから、不安になる。
不安になるから、確かめたくなる。
「今、何を考えていたの?」
「君のことを」
「本当に?」
「本当に」
「今ここにいる私?」
エドモンドは、そこで必ずノエリアを見た。
「今ここにいる君だよ」
その返事を聞くと、ノエリアはようやく安心できた。
普通なら、重いと思われるのかもしれない。面倒だと思われるのかもしれない。
けれどエドモンドは、そういうノエリアを嫌がらなかった。
だからノエリアは、ますます彼のそばが心地よくなった。
エドモンドも似たようなものだった。
ノエリアが窓の外を見ると、彼は静かに尋ねた。
「何を見ていたの?」
「庭よ」
「庭だけ?」
「ええ。……いいえ」
ノエリアは少し笑って、彼の手に指を絡めた。
「あなたがそう聞いてくれるのを、少し待っていたの」
エドモンドは困ったように息を吐いた。
けれど、その顔は嬉しそうでもあった。
二人は、互いに何度も確かめた。
今、誰を見ていたのか。
今、何を考えていたのか。
その笑い方は、自分に向けるものと同じなのか。
普通なら、息苦しい関係だった。
けれど二人には、その息苦しさが安心だった。
疑われることは、見られていることだった。
見られていることは、心を向けられていることだった。
少なくとも二人には、そう感じられた。
だから縛っていることも、縛られていることも、怖いだけではなかった。
むしろ甘かった。
彼といると、欲は深くなる一方だった。
もっと見てほしい。
もっと心を向けてほしい。
今だけでは足りない。
明日も。
その次の日も。
ずっと。
そんな願いが、少しずつ増えていった。
それなのに、胸はひとつも痛まなかった。
エドモンドも同じだったからだ。
「君が、今ここにいる私だけを見ていると、眠れる」
ある夜、エドモンドが言った。
ノエリアは彼の胸に頬を寄せた。
「私もよ」
「君も?」
「あなたが、今ここにいる私だけを見ていると、胸が痛まないの」
エドモンドはしばらく黙った。
それから、ひどく大事なものを受け取ったような顔をした。
「では、一晩中見ているよ」
「眠れないわ」
「君が眠るまで」
「私が眠ったあとは?」
「君が目を覚ましたとき、最初に見える場所にいる」
ノエリアは笑った。
誰かに聞かれたら、危うい約束だと言われたかもしれない。
けれど二人には、それが幸福だった。
逃げ道がないこと。
余白がないこと。
目の前の相手だけで、心の中が満ちていること。
普通なら苦しくなるものを、二人は愛だと思った。
結婚式の話をする時間を、ノエリアは大切にした。
花の色。
招く客の数。
式のあと、二人きりになって最初に確かめる言葉。
未来の話をしても、相手が死なない。
それが、彼女には奇跡のようだった。
そして、その幸福に慣れるほど、欲は大きくなった。
この人を失いたくない。
この人の視線を、誰にも渡したくない。
この人の心を、獣にも、花にも、本にも、絵にも、過去にも、夢の中でさえ、奪われたくない。
今でも十分なはずだった。
それなのに、足りないと思ってしまう。
エドモンドがひとりで考える時間がある。
ひとりで眠る前の時間がある。
自分の知らないまま過ぎていく瞬間がある。
それが少しだけ惜しかった。
できることなら、その時間にも入り込みたかった。
エドモンドの沈黙の中に。
ため息の中に。
眠る直前の、ぼんやりした意識の中に。
そこまで自分で満ちていたらいいのに。
そう伝えても、エドモンドは少しも嫌な顔をしなかった。
むしろ、少しだけ安心したように笑った。
「私もだよ」
静かな声だった。
「君には、私だけを見ていてほしい。何を考えている時も、私のことを考えていてほしい。君の中に、私のいない場所がある方が落ち着かない」
ノエリアは息をのんだ。
拒まれなかった。
引かれもしなかった。
欲深いと言われる代わりに、同じものが返ってきた。
だからノエリアは笑った。
きっと、自分たちは大丈夫なのだと思った。
「式が終わったら、少しだけ王都を離れようか」
ある午後、エドモンドが尋ねた。
「旅行?」
「ああ。二人だけで、しばらく静かな場所へ」
「人の少ない場所がいいわ」
「では、君が安心して眠れる場所を探そう」
「あなたも一緒に眠れる場所?」
「もちろん」
ノエリアは笑った。
こんなふうに笑える日が来るとは、思っていなかった。
結婚を控えたある日、ノエリアはエドモンドの屋敷を訪れていた。
式の打ち合わせを終え、廊下を歩いていたときだった。
奥まった場所にある扉だけが、少し開いていた。
「あの部屋は?」
ノエリアが尋ねると、エドモンドは何気なく答えた。
「ああ。昔の肖像画を置いている部屋だよ」
「肖像画?」
「表に飾らなくなったものを、まとめてある。見てみる?」
彼に、深い意味はなかった。隠すつもりも、恐れる理由もなかった。ただ、古い部屋を案内するだけのつもりだった。
部屋には、古い木と布の匂いがした。
壁にはいくつもの肖像画が掛けられている。
厳めしい老人。
若い頃の伯爵。
幼い子どもを抱いた夫人。
その奥に、一枚だけ、ノエリアの足を止める絵があった。
若い男の肖像画だった。
男というには、まだ少し幼い。
少年の面影を残した、十七歳ほどの青年。
「この絵は、エドモンド?」
ノエリアが尋ねると、エドモンドは静かに答えた。
「十七の頃の私だよ」
「今より、少し痩せているのね」
「そうだね」
「でも、目は同じね」
ノエリアは絵に近づいた。
額の中のエドモンドは、今よりずっと硬い顔をしていた。
誰にも期待しないような目。
それなのに、どこかで誰かに見つけてほしそうな目。
「……寂しそう」
ぽつりと、言葉が落ちた。
エドモンドはしばらく絵を見ていた。
「君に出会う前だからね」
冗談めかした声ではなかった。
だからノエリアは、余計に胸を締めつけられた。
ノエリアは、そっと額縁に指を添えた。
この頃のあなたは、まだひとりだったのね。
私がひとりだったように。
できることなら、そばにいてあげたかった。
今のエドモンドを愛しているから、過去の彼まで抱きしめたくなった。
その一瞬だけ、ノエリアの心は、額縁の中の少年へ寄った。
とても優しい顔だった。
今ここにいるエドモンドに向けるものとは、少し違う。
愛おしむような目だった。
間に合わなかったものを惜しむような、遠い目だった。
けれど、その優しさは今の彼ではなく、過去の彼へ向いていた。
その横顔を見た瞬間、エドモンドの胸が一瞬だけ痛んだ。
今ここにいるのは、私なのに。
彼の祝福は、その一瞬の痛みを見逃さなかった。
ノエリアの指先から力が抜けた。
額縁に添えた手が落ちる。
彼女の身体が、崩れた。
「ノエリア?」
最初、エドモンドは何が起きたのか分からなかった。
足を滑らせたのだと思った。
抱き寄せた身体は、まだ温かい。
温かいのに、力がない。
「……ノエリア?」
呼んでも、まぶたは動かなかった。
息をしているはずだと思って、彼女の口元に指を寄せた。
何も触れなかった。
その瞬間、血の気が引いた。
「違う」
声が震えた。
「違う……今のは違う。あれは私だ。十七の頃の、私なんだ。彼女は、私を見ていただけだ」
ノエリアは答えなかった。
「返してくれ」
エドモンドは彼女を抱きしめた。
「頼む。返してくれ」
頬に涙が落ちた。
「やっとだったんだ」
声が崩れた。
「やっと巡り会えたんだ。こんな私を見ても、逃げない人だったのに」
認めたくなかった。
ノエリアを殺したのは、見知らぬ神ではない。
ほんの一瞬、胸を痛めた自分だった。
今ここにいるのは私なのに。
その痛みを、祝福が聞き届けた。
そして、彼女を奪った。
エドモンドにも、祝福があった。
ノエリアと同じように。
幼い頃、彼もまた愛を信じられなくなった。
父が領地の仕事で屋敷を空けている夜、母は温室の奥で知らない男の手を握っていた。
父に向けるものとは違う、少女のような顔で笑っていた。
父は最後まで気づかなかった。
母を信じ、愛し、花を贈り続けた。
母はその花を受け取りながら、別の男へ手紙を書いた。
やがて母は、その男と屋敷を出た。
しばらくして、遠い町で病死したとだけ知らされた。
父はそれから王都へ出なくなった。
エドモンドは、静かに壊れていく父の背中を見て育った。
だから彼も願った。
私だけを愛してくれる人がほしい。
私以外に心を向ける人など、いらない。
もし、私以外へ心を向けるなら。
私の胸を痛ませるなら。
浮気者には、罰を。
最初の娘は、本当に別の男と通じていた。
次の娘は、亡くなった婚約者を忘れられなかった。
その次の娘は、舞台俳優に見惚れた。
彼の胸が痛むたび、相手は死んだ。
そのたびに彼は泣いた。
泣いて、悲しんで、最後には息をついた。
やはり違ったのだ。
私が疑い深すぎたのではない。
相手が、私だけを愛していなかったのだ。
そう思えたことに、救われてしまった。
棺の前で泣いていたくせに、胸の底ではほっとしていた。
そのことを思い出すたび、エドモンドは自分の手を洗いたくなった。
そして、ノエリアに出会った。
彼女なら、と思った。
彼女だけは、と。
やっとだった。
やっと巡り会えたのだ。
私だけを見てほしいと願ってしまう、こんな醜い私を見ても、逃げない人だったのに。
そんな人を、自分の痛みが殺した。
「違うんだ」
エドモンドは彼女の髪に顔を埋めた。
「君は違った。君だけは、違ったんだ」
けれど、腕の中のノエリアはもう目を開けない。
「起きてくれ」
声がかすれた。
「式のあと、人の少ない場所へ行くんだろう」
返事はなかった。
「君が安心して眠れる場所を探すって、言ったじゃないか」
エドモンドは泣いた。
「私の名を呼んでくれ」
彼の心が、もう戻らない彼女へ向いた。
さっきまで笑っていたノエリア。
自分の名を呼んでいたノエリア。
一緒に静かな場所で眠ろうと話していたノエリア。
腕の中にいる彼女ではなく、失われた彼女を求めた。
そのとき、ノエリアの胸元から淡い光がこぼれた。
光は静かに広がり、エドモンドの指先に触れた。
次の瞬間、彼の身体は淡い光に包まれていた。
祝福は、涙など数えなかった。
後悔も、震える手も、彼が彼女の名を何度呼んだかも。
ただ、心の向いた先だけを見た。
今ここにあるノエリアではなく。
もう戻らない、少し前のノエリアへ。
だからノエリアの祝福は、彼を浮気者と呼んだ。
エドモンドは泣いた。
泣いているのに、口元だけがわずかにゆるんだ。
「……そうか」
光に包まれながら、かすれた声で呟く。
死んでもなお。
その願いだけが残っていたのだ。
今ここにいる自分だけを見てほしい。
自分以外へ心を向けないでほしい。
祝福は、それを最後まで裏切らなかった。
「君も……私も」
エドモンドは泣きながら笑った。
「どうしても、今ここにいる自分だけを見てほしかったんだな」
残酷だと思った。
間違っているとも思った。
それなのに、胸の奥が甘く痛んだ。
彼女は最後まで、同じ願いを抱えていた。
自分と同じように。
同じくらい、どうしようもなく。
光が強くなる。
身体から力が抜けていく。
それでも腕は離さなかった。
「いいよ」
彼はノエリアの髪に頬を寄せた。
「なら、最後まで付き合うよ」
死ぬのは怖かった。
けれど、彼女の願いに捕まって死ぬのだと思うと、ほんの少しだけ救われた。
ようやく疑わなくていい。
ようやく、離れなくていい。
その言葉を最後に、エドモンドの身体から力が抜けた。
彼はノエリアに折り重なるように倒れた。
二人の指輪が、床に落ちた光を受けて、かすかにきらめいた。
疑わずに済む相手が、やっと見つかったはずだった。
なのに二人の祝福は、最後まで心の揺らぎを許さなかった。
浮気者には、死を。
二人がそう願ったわけではなかった。
けれど祝福は、そう聞き届けた。




