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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

浮気者には、死という祝福を

作者: こはく
掲載日:2026/05/30

この国には、祝福というものがあるのだと、まことしやかに囁かれている。


 雨の前に頭が痛む者を、雨読みに祝福されたと言う。

 嘘を見抜く者を、真実に祝福されたと言う。

 死地を避ける者を、運命に祝福されたと言う。


 本当に神の力なのか、ただの偶然なのかは分からない。


 自分が祝福されていると、生涯気づかない者もいる。

 気づいたところで、信じきれない者もいる。


 祝福とは、そういう曖昧なものだった。


 ノエリアが初めて、私だけを愛してくれる人がいい、と思ったのは、母が父のハンカチに刺繍をしている夜だった。


 父は美しい人だった。


 社交界では朗らかで、誰にでも優しく、母にも娘にも甘い言葉を惜しまない。母はそんな父を愛していた。目が合えば嬉しそうに微笑み、父が名を呼ぶだけで、少しだけ頬を染めた。


 けれど父の袖には、時々、知らない香水の匂いが残っていた。


 その夜も、父だけが夜会へ出ていた。


 母は灯りのそばで、白いハンカチに父の名を一針ずつ縫い込んでいた。顔色は悪いのに、母は愛おしそうに、その刺繍した文字を指先でそっと撫でた。


 今ごろ父が、誰か別の女の隣で笑っているかもしれないことを、母は分かっているはずだった。


 幼いノエリアにだって分かった。


 それなのに母は泣かなかった。

 泣いていない顔の方が、ノエリアには怖かった。


 一針、また一針。

 針先だけが、時々、ほんの少し震えた。


「愛しているのは君だけだ」

「帰る場所はここしかない」

「お前とノエリアが、私の家族だ」


 父はいつもそう言った。


 母はその言葉を信じようとした。信じたかったのだと思う。嘘にまみれた言葉だと分かっていても、差し出されれば手を伸ばしてしまう。母はそういう人だった。


 母は怒鳴らず、責めず、父の帰りを待った。食べる量は減り、笑う時間は減り、やがて部屋からあまり出なくなった。


 大人たちは、体調が悪いのだと言った。


 ノエリアには分かっていた。


 母は病に倒れたのではない。

 父を愛していたから、壊れていったのだ。


 父は、家にいる時だけ母を愛した。


 花を贈る。

 額に口づける。

「お前が一番だ」と言う。


 母はそのたびに許した。


 許されたのは父の方なのに、救われたような顔をするのは母の方だった。


 それが、ノエリアには気味が悪かった。


 愛していると言われただけで、傷つけられたことまでなかったように笑う。父の罪より、父が戻ってきたことを喜ぶ。母のその顔を見るたび、ノエリアは喉の奥が冷えた。


 その数年後、母は本当に病で亡くなった。


 葬儀のあと、父は泣いた。


「愛していたんだ」


 今さら、そんなことを言っていた。


「本当に、愛していた」


 ノエリアは父を見上げた。


 涙で濡れた目。

 震える声。

 母の棺にすがる手。


 どれも、ひとつも胸に届かなかった。


 愛していた。


 なら、なぜ生きているうちに大切にしなかったの。


 母も母だ。そんな男の言葉を待ち続けて、痩せて、黙って、死んでいった。


 愚かだ。


 泣きながら、ノエリアはそう思った。


 それでもノエリアは、母を愛していた。それは本当だった。だから涙は止まらなかった。


 けれど、母の弱さを愛とは呼びたくなかった。


 父の名を刺繍したハンカチが、棺の中で母の胸元に置かれていた。


 死んでもまだ、その名を抱いている。


 哀れで、愚かで、少し気味が悪かった。


 ノエリアは涙で濡れた頬のまま、目を伏せた。


 あんなものが愛なら、いらない。


 あんなふうに誰かを待って、泣いて、細くなっていくくらいなら、そんな幸せはいらない。


 あんなものを大事に抱えて死ぬなんて、あまりに愚かだ。


 私は、ああはならない。


 私だけを見てくれる人がいい。

 私だけを選んでくれる人がいい。

 私を泣かせない人がいい。

 私の胸を、痛ませない人がいい。


 もし、私だけだと言って、私の胸を痛くする人がいるなら。


 その人には、ちゃんと罰が当たればいい。


 その夜、ノエリアは泣き疲れて、棺のそばで眠った。


 夢を見た。


 白い光が、胸に落ちてくる夢だった。


 目覚めたとき、ノエリアは胸元を押さえた。


 痛みはない。


 そこに、何かが棲みついたような気がした。


 葬儀のあと、父は領地へ下がった。

 ノエリアは母の実家に引き取られた。


 父が喪に服すためだとか、心身を休めるためだとか、大人たちはもっともらしい理由を並べていた。


 ノエリアには、どうでもよかった。


 父は最後まで何かを言いたそうにしていた。


 ノエリアは、顔を上げなかった。


 父には、もう何も期待していなかった。


 愛されたいとも、選ばれたいとも思わない。


 父は路傍の石と同じだった。


 そこにある。

 邪魔なら避ける。

 砕こうとまでは思わない。


 必要なのは、母の実家に迷惑をかけないだけの金と、ノエリアの婚姻に傷がつかない程度の家名だけ。


 父には、それだけ差し出してもらえればよかった。


 けれど恋人たちは違った。


 ノエリアはそのたびに、期待してしまった。


 この人だけは違うかもしれない。

 私だけを見てくれるかもしれない。

 母が持てなかったものを、私なら手に入れられるかもしれない。


 ノエリアが欲しかったのは、母が縋った愛ではなかった。


 夜明けに帰ってくる愛などいらない。

 別の女の香水をまとったまま、優しい声で許しを乞う愛などいらない。

「それでも戻ってきてくれた」と自分に言い聞かせる愛などいらない。


 欲しかったのは、もっと白くて、逃げ場のないものだった。


 自分だけを見ている目。

 自分だけを選ぶ心。


 過去も、余白も、言い訳もない。


 ほかの誰かを見た瞬間に壊れるほど、混じりけのないもの。


 唯一無二の、純粋な愛だった。


 目の前の私だけを愛してくれる人がいい。

 ここにいる私だけを、一番にしてくれる人がほしい。


 そして、もし裏切るのなら。


 その浮気者には罰が下りますように。


 最初の恋人は、優しい人に見えた。


 少なくとも、ノエリアはそう信じていた。


 彼は「君だけだ」と言った。その声は甘く、まっすぐで、母が縋っていた父の言葉とは違うものに聞こえた。


 ノエリアにとって、初めて愛した人だった。


 だから信じた。

 信じたかった。


 だが、彼は、どうしようもない浮気者だった。


 それを知ったのは、夜会の帰りだった。


 彼の胸ポケットから一通の手紙が落ちた。


 相手の女性からの手紙だった。


 そこには「愛している」という言葉と、次はいつ二人きりで会えるのかという甘えた文字が並んでいた。


 読んだ瞬間、ノエリアの胸が痛んだ。


「違うんだ、ノエリア」


 彼は必死に言い訳をした。


「遊びだ。ほんの気の迷いで、君を愛していることに変わりはない」


 その声が、父の声と重なった。


 帰る場所はここだ。

 愛しているのは君だけだ。

 お前が一番だ。


 同じだった。


 全部、同じだった。


 その夜、彼は死んだ。


 原因不明の急死だった。毒もなく、傷もなく、健康だった心臓がただ止まった。


 人々は不運だと言った。


 ノエリアは泣いた。


 喉が痛くなるほど泣いた。


 好きだった。信じたかった。


 けれど棺の前で涙を流しながら、胸の底ではほっとしていた。


 よかった。


 あんな人と結婚しなくて済んだ。


 そう思った自分が怖かった。


 怖かったのに、その安堵は甘かった。


 二人目は、浮気をしたわけではなかった。


 少なくとも、行いとしては。


 真面目で、礼儀正しく、誰に対しても節度を守る男だった。


 彼なら大丈夫。

 彼なら、私だけを見てくれる。


 そう思った。


 ある夜会で、ひとりの令嬢が彼に声をかけた。


「お久しぶりですわ」


 その令嬢は、彼の幼馴染だった。


 彼はほんの一瞬、ノエリアには見せたことのない顔をした。懐かしさと、痛みと、諦めが混じったような顔だった。


 それを見た瞬間、胸が痛んだ。


 ああ。


 私ではない。


 この人の奥には、私ではない女がいる。


 あとで知った。


 彼は本当は、その令嬢と結婚したかったのだと。

 家の都合で、それは叶わなかったのだと。


 その夜、彼は死んだ。


 ノエリアは泣かなかった。

 泣けなかった。


 裏切られたとは言い切れない。

 けれど、愛されていたとも言い切れなかった。


 なら同じだ、と思った。


 体に触れていなくても、手紙を交わしていなくても、心の奥に別の女を置いているのなら、同じだ。


 母を泣かせた父と。


 三人目は詩人だった。


 彼はノエリアを美しい言葉で飾った。


 黒髪を夜の絹と呼び、白い指を月光と呼び、微笑むたびに世界が息を止めると言った。


 ノエリアは、その言葉が嫌いではなかった。

 褒められるのは好きだった。


 誰よりも美しい。

 君だけだ。

 君がいなければ息もできない。

 君に愛されて死ねるなら、それすら幸福だ。


 そう言われるたびに、胸の奥の暗い穴が少しだけ埋まる気がした。


 だから、見ないふりをした。


 彼がノエリアを見ているのではなく、ノエリアを愛する自分に酔っていることに。


 胸はまだ痛まなかった。


 痛んでしまえば、終わる。


 それをもう、ノエリアは知っていた。


 ある日、彼は詩集を見せた。


「母に捧げたものなんだ」


 そこには書かれていた。


 ――誰より愛しい人へ。


 ノエリアは微笑んだ。


「素敵ね」


 けれど胸が痛んだ。


 誰より。


 私より?


 母を愛することが悪いわけではない。


 頭では分かっていた。分かっていたからこそ、自分がひどく醜いものに思えた。


 それでも心は言った。


 嫌だ。


 私以外に、誰より愛しい人がいるなんて。


 その夜、彼は目を覚まさなかった。


 四人目は、穏やかな人だった。


 彼は浮ついた言葉を言わなかった。手を握る時も、夜会で踊る時も、節度を守った。


 ノエリアは、今度こそ大丈夫だと思った。


 ある日、庭で猫を見て、彼はしゃがみ込んだ。


 猫は人懐こく、彼の膝に前脚をかけた。


 彼は少し驚いたあと、目元をゆるめた。


 ノエリアには見せたことのないほど、無防備な顔だった。


「……可愛いな」


 その声は、あまりに優しかった。


 ノエリアへ向ける時より、力が抜けていた。取り繕う必要も、言葉を選ぶ必要もない。ただ、可愛いものを可愛いと思っている声だった。


 胸が痛んだ。


 負けた、と思った。


 猫なんかに。


 猫の喉が鳴った。


 ノエリアは、その音まで憎らしいと思った。


 次の瞬間、自分の中身を見てしまった気がして、吐き気がした。


 彼は崩れ落ちた。


 猫は驚いて逃げた。


 ノエリアはその場に立ち尽くした。


 たかが猫。


 たかが猫なのに。


 本当に、これも浮気なのだろうか。

 本当に、神さまは私を守ってくださったのだろうか。


 胸が痛むたび、愛すると決めた人が死ぬ。


 まるで祝福が、ノエリアの痛みだけを聞き取っているみたいだった。


 その夜、ノエリアは眠れなかった。


 これを祝福だと思わなければ、立っていられなかった。


 私を泣かせないためのものだ。

 私を捨てる者を、私より他を選ぶ者を、神さまが遠ざけてくださっているのだ。


 そう信じるしかなかった。


 もうその頃には、ノエリアの周りに近づく男はほとんどいなかった。


 美しいが、不吉な娘。

 愛を誓った男が、次々に死ぬ娘。


 誰が言い出したのか分からない言葉だけが、王都の夜会をゆっくり歩いていた。


 エドモンドに出会ったのは、その少し後だった。


 彼は静かな人だった。


 声を荒げず、場の空気に流されず、誰かの笑い声につられて視線を動かすこともない。


 華やかな令嬢たちが近くを通っても、彼の視線は動かなかった。


 ノエリアだけを見ていた。


 まっすぐに。

 静かに。

 一度も逸れずに。


 うれしいと思うより先に、ノエリアは身構えた。


 この人は、どうしてこんなに目を逸らさないのだろう。


 怖くないのだろうか。


 それとも、私の中に何かを見つけたのだろうか。


「踊っていただけますか」


 初めてそう言われたとき、ノエリアは思わず問い返した。


「私と?」


「ええ」


「噂をご存じないのですか?」


「存じています」


「なら、なぜ」


 エドモンドは、少しだけ微笑んだ。


「あなたが、とても寂しそうに見えたので」


 ノエリアは、返す言葉を失った。


 恐れられることには慣れていた。避けられることにも慣れていた。


 けれど、寂しそうだと言われたのは初めてだった。


 違う、と言いたかった。


 声にならなかった。


 誰にも触れられたくなかった場所に、そっと触れられた気がした。


 彼は死ななかった。


 一ヶ月。

 三ヶ月。

 半年。


 彼は生きていた。


 最初は、それだけで十分だった。


 エドモンドは、ノエリアの過去を聞いても、安易に慰めなかった。父を罵ることも、母を哀れむこともなかった。


 ただ静かに聞き終えたあと、こう言った。


「君が、安心して眠れる夜が増えるといい」


 その言葉だけで、胸がほどけた。


 ノエリアはその時、初めて思った。


 この人なら、私の醜さを見ても逃げないかもしれない。

 この人なら、私だけを見てくれるかもしれない。


 エドモンドは、ノエリアの噂を知っても逃げなかった。それどころか、どこか納得したような目をしていた。


 人が死ぬことに驚かない目。

 心が離れることの方を、死より恐れている目。


 その目を見て、ノエリアは思った。


 この人も、こちら側の人なのかもしれない。


 人の多い夜会では、エドモンドは壁側を歩いてくれた。ノエリアが人波に囲まれずに済むように。背後を気にしなくて済むように。


 雨の日には、彼女の肩が濡れないよう、黙って立ち位置を変えた。馬車を降りるときは、先に地面のぬかるみを確かめてから手を差し出した。


 褒め言葉は多くない。


 けれど彼の行動はいつも、ノエリアを見ていた。


 見すぎているほどだった。


 彼の視線が、自分から外れない。


 それがうれしかった。


 うれしいと思った分だけ、その視線が少し逸れるだけで胸がざわつくようになった。


「怖くないの?」


 ある夜、ノエリアは尋ねた。


「私を」


 エドモンドはしばらく黙っていた。それから、彼女の指先を取った。


「怖いよ」


 ノエリアの肩が揺れた。


「けれど、君から離れるほうが怖い」


 優しい声だった。


 なのに、甘いだけではなかった。


 逃げ場をふさがれるような暗い熱があった。


 ノエリアはそれに気づいた。


 そして、嫌ではなかった。


 むしろ、ほっとした。


 この人も、まともではない。


 そのことに。


 ある午後、二人は庭の東屋にいた。


 雨上がりの葉から、雫が落ちている。


 ノエリアはしばらく迷ってから、口を開いた。


「私のそばにいた人は、何人も死んだわ」


 エドモンドは黙って彼女を見ていた。


「浮気をした人もいた。心に、別の人がいた人もいた。けれど……もっと、些細なことで死んだ人もいた」


 指先が震えた。


 言ってしまえば、きっと嫌われる。


 そう思った。


 けれど、エドモンドには隠したくなかった。


 隠したくないというより、試したかった。


 これを聞いても、あなたは私を見るの。


 私だけを見ていられるの。


「たぶん私は、怖いの。今、目の前にいる私だけを見てほしいの」


 笑おうとして、うまく笑えなかった。


「私を愛していると言いながら、目の前にいる私以外のものを見ているのが怖い。別の誰かや、別の何かに心を向けられるのが、どうしても怖いの」


 ひどく身勝手な願いだった。


 それでもエドモンドは、彼女を責めなかった。


 長く黙ったあと、低い声で言った。


「……私も、似たようなものだよ」


 ノエリアは顔を上げた。


「今の私を見てほしい。ここにいる私を見てほしい。それ以外の誰かを心の奥に置かれるくらいなら、最初から何もいらない」


 ノエリアは、息をのんだ。


 怖い、とは思わなかった。


 むしろ、胸の奥が熱くなった。


 やっぱり。


 あなたもこちら側の人なのね。


 そう思った。


「では、私たちはうまくいくわね」


 エドモンドが彼女を見る。


 ノエリアは微笑んだ。


「私は、ここにいるあなた以外に心を向けたいとは思わないもの」


 エドモンドの目が、わずかに揺れた。


「私もだ」


 彼はそう言って、ノエリアの手を取った。


「目の前にいる君だけを見ていたい」


 二人とも、笑っていた。


 けれど握った手には、互いを逃がす気のない力がこもっていた。


 二人は婚約した。


 教会で誓いを交わすとき、ノエリアは少しだけ泣いた。


 悲しみではなかった。


 安堵だった。


「私は、あなたを愛します。あなただけを」


「私も」


 エドモンドは静かに答えた。


「君だけを愛します」


 それから、二人でいる時間は甘くなった。


 穏やかな恋人同士とは、少し違っていたかもしれない。


 ノエリアは、エドモンドが黙っている時間を嫌いではなかった。


 何を考えているのか分からないから、不安になる。

 不安になるから、確かめたくなる。


「今、何を考えていたの?」


「君のことを」


「本当に?」


「本当に」


「今ここにいる私?」


 エドモンドは、そこで必ずノエリアを見た。


「今ここにいる君だよ」


 その返事を聞くと、ノエリアはようやく安心できた。


 普通なら、重いと思われるのかもしれない。面倒だと思われるのかもしれない。


 けれどエドモンドは、そういうノエリアを嫌がらなかった。


 だからノエリアは、ますます彼のそばが心地よくなった。


 エドモンドも似たようなものだった。


 ノエリアが窓の外を見ると、彼は静かに尋ねた。


「何を見ていたの?」


「庭よ」


「庭だけ?」


「ええ。……いいえ」


 ノエリアは少し笑って、彼の手に指を絡めた。


「あなたがそう聞いてくれるのを、少し待っていたの」


 エドモンドは困ったように息を吐いた。


 けれど、その顔は嬉しそうでもあった。


 二人は、互いに何度も確かめた。


 今、誰を見ていたのか。

 今、何を考えていたのか。

 その笑い方は、自分に向けるものと同じなのか。


 普通なら、息苦しい関係だった。


 けれど二人には、その息苦しさが安心だった。


 疑われることは、見られていることだった。

 見られていることは、心を向けられていることだった。


 少なくとも二人には、そう感じられた。


 だから縛っていることも、縛られていることも、怖いだけではなかった。


 むしろ甘かった。


 彼といると、欲は深くなる一方だった。


 もっと見てほしい。

 もっと心を向けてほしい。


 今だけでは足りない。


 明日も。

 その次の日も。

 ずっと。


 そんな願いが、少しずつ増えていった。


 それなのに、胸はひとつも痛まなかった。


 エドモンドも同じだったからだ。


「君が、今ここにいる私だけを見ていると、眠れる」


 ある夜、エドモンドが言った。


 ノエリアは彼の胸に頬を寄せた。


「私もよ」


「君も?」


「あなたが、今ここにいる私だけを見ていると、胸が痛まないの」


 エドモンドはしばらく黙った。


 それから、ひどく大事なものを受け取ったような顔をした。


「では、一晩中見ているよ」


「眠れないわ」


「君が眠るまで」


「私が眠ったあとは?」


「君が目を覚ましたとき、最初に見える場所にいる」


 ノエリアは笑った。


 誰かに聞かれたら、危うい約束だと言われたかもしれない。


 けれど二人には、それが幸福だった。


 逃げ道がないこと。

 余白がないこと。

 目の前の相手だけで、心の中が満ちていること。


 普通なら苦しくなるものを、二人は愛だと思った。


 結婚式の話をする時間を、ノエリアは大切にした。


 花の色。

 招く客の数。

 式のあと、二人きりになって最初に確かめる言葉。


 未来の話をしても、相手が死なない。


 それが、彼女には奇跡のようだった。


 そして、その幸福に慣れるほど、欲は大きくなった。


 この人を失いたくない。

 この人の視線を、誰にも渡したくない。

 この人の心を、獣にも、花にも、本にも、絵にも、過去にも、夢の中でさえ、奪われたくない。


 今でも十分なはずだった。


 それなのに、足りないと思ってしまう。


 エドモンドがひとりで考える時間がある。

 ひとりで眠る前の時間がある。

 自分の知らないまま過ぎていく瞬間がある。


 それが少しだけ惜しかった。


 できることなら、その時間にも入り込みたかった。


 エドモンドの沈黙の中に。

 ため息の中に。

 眠る直前の、ぼんやりした意識の中に。


 そこまで自分で満ちていたらいいのに。


 そう伝えても、エドモンドは少しも嫌な顔をしなかった。


 むしろ、少しだけ安心したように笑った。


「私もだよ」


 静かな声だった。


「君には、私だけを見ていてほしい。何を考えている時も、私のことを考えていてほしい。君の中に、私のいない場所がある方が落ち着かない」


 ノエリアは息をのんだ。


 拒まれなかった。

 引かれもしなかった。


 欲深いと言われる代わりに、同じものが返ってきた。


 だからノエリアは笑った。


 きっと、自分たちは大丈夫なのだと思った。


「式が終わったら、少しだけ王都を離れようか」


 ある午後、エドモンドが尋ねた。


「旅行?」


「ああ。二人だけで、しばらく静かな場所へ」


「人の少ない場所がいいわ」


「では、君が安心して眠れる場所を探そう」


「あなたも一緒に眠れる場所?」


「もちろん」


 ノエリアは笑った。


 こんなふうに笑える日が来るとは、思っていなかった。


 結婚を控えたある日、ノエリアはエドモンドの屋敷を訪れていた。


 式の打ち合わせを終え、廊下を歩いていたときだった。


 奥まった場所にある扉だけが、少し開いていた。


「あの部屋は?」


 ノエリアが尋ねると、エドモンドは何気なく答えた。


「ああ。昔の肖像画を置いている部屋だよ」


「肖像画?」


「表に飾らなくなったものを、まとめてある。見てみる?」


 彼に、深い意味はなかった。隠すつもりも、恐れる理由もなかった。ただ、古い部屋を案内するだけのつもりだった。


 部屋には、古い木と布の匂いがした。


 壁にはいくつもの肖像画が掛けられている。


 厳めしい老人。

 若い頃の伯爵。

 幼い子どもを抱いた夫人。


 その奥に、一枚だけ、ノエリアの足を止める絵があった。


 若い男の肖像画だった。


 男というには、まだ少し幼い。


 少年の面影を残した、十七歳ほどの青年。


「この絵は、エドモンド?」


 ノエリアが尋ねると、エドモンドは静かに答えた。


「十七の頃の私だよ」


「今より、少し痩せているのね」


「そうだね」


「でも、目は同じね」


 ノエリアは絵に近づいた。


 額の中のエドモンドは、今よりずっと硬い顔をしていた。


 誰にも期待しないような目。


 それなのに、どこかで誰かに見つけてほしそうな目。


「……寂しそう」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


 エドモンドはしばらく絵を見ていた。


「君に出会う前だからね」


 冗談めかした声ではなかった。


 だからノエリアは、余計に胸を締めつけられた。


 ノエリアは、そっと額縁に指を添えた。


 この頃のあなたは、まだひとりだったのね。


 私がひとりだったように。


 できることなら、そばにいてあげたかった。


 今のエドモンドを愛しているから、過去の彼まで抱きしめたくなった。


 その一瞬だけ、ノエリアの心は、額縁の中の少年へ寄った。


 とても優しい顔だった。


 今ここにいるエドモンドに向けるものとは、少し違う。


 愛おしむような目だった。


 間に合わなかったものを惜しむような、遠い目だった。


 けれど、その優しさは今の彼ではなく、過去の彼へ向いていた。


 その横顔を見た瞬間、エドモンドの胸が一瞬だけ痛んだ。


 今ここにいるのは、私なのに。


 彼の祝福は、その一瞬の痛みを見逃さなかった。


 ノエリアの指先から力が抜けた。


 額縁に添えた手が落ちる。


 彼女の身体が、崩れた。


「ノエリア?」


 最初、エドモンドは何が起きたのか分からなかった。


 足を滑らせたのだと思った。


 抱き寄せた身体は、まだ温かい。


 温かいのに、力がない。


「……ノエリア?」


 呼んでも、まぶたは動かなかった。


 息をしているはずだと思って、彼女の口元に指を寄せた。


 何も触れなかった。


 その瞬間、血の気が引いた。


「違う」


 声が震えた。


「違う……今のは違う。あれは私だ。十七の頃の、私なんだ。彼女は、私を見ていただけだ」


 ノエリアは答えなかった。


「返してくれ」


 エドモンドは彼女を抱きしめた。


「頼む。返してくれ」


 頬に涙が落ちた。


「やっとだったんだ」


 声が崩れた。


「やっと巡り会えたんだ。こんな私を見ても、逃げない人だったのに」


 認めたくなかった。


 ノエリアを殺したのは、見知らぬ神ではない。


 ほんの一瞬、胸を痛めた自分だった。


 今ここにいるのは私なのに。


 その痛みを、祝福が聞き届けた。


 そして、彼女を奪った。


 エドモンドにも、祝福があった。


 ノエリアと同じように。


 幼い頃、彼もまた愛を信じられなくなった。


 父が領地の仕事で屋敷を空けている夜、母は温室の奥で知らない男の手を握っていた。


 父に向けるものとは違う、少女のような顔で笑っていた。


 父は最後まで気づかなかった。


 母を信じ、愛し、花を贈り続けた。


 母はその花を受け取りながら、別の男へ手紙を書いた。


 やがて母は、その男と屋敷を出た。


 しばらくして、遠い町で病死したとだけ知らされた。


 父はそれから王都へ出なくなった。


 エドモンドは、静かに壊れていく父の背中を見て育った。


 だから彼も願った。


 私だけを愛してくれる人がほしい。

 私以外に心を向ける人など、いらない。


 もし、私以外へ心を向けるなら。

 私の胸を痛ませるなら。


 浮気者には、罰を。


 最初の娘は、本当に別の男と通じていた。

 次の娘は、亡くなった婚約者を忘れられなかった。

 その次の娘は、舞台俳優に見惚れた。


 彼の胸が痛むたび、相手は死んだ。


 そのたびに彼は泣いた。


 泣いて、悲しんで、最後には息をついた。


 やはり違ったのだ。


 私が疑い深すぎたのではない。

 相手が、私だけを愛していなかったのだ。


 そう思えたことに、救われてしまった。


 棺の前で泣いていたくせに、胸の底ではほっとしていた。


 そのことを思い出すたび、エドモンドは自分の手を洗いたくなった。


 そして、ノエリアに出会った。


 彼女なら、と思った。


 彼女だけは、と。


 やっとだった。


 やっと巡り会えたのだ。


 私だけを見てほしいと願ってしまう、こんな醜い私を見ても、逃げない人だったのに。


 そんな人を、自分の痛みが殺した。


「違うんだ」


 エドモンドは彼女の髪に顔を埋めた。


「君は違った。君だけは、違ったんだ」


 けれど、腕の中のノエリアはもう目を開けない。


「起きてくれ」


 声がかすれた。


「式のあと、人の少ない場所へ行くんだろう」


 返事はなかった。


「君が安心して眠れる場所を探すって、言ったじゃないか」


 エドモンドは泣いた。


「私の名を呼んでくれ」


 彼の心が、もう戻らない彼女へ向いた。


 さっきまで笑っていたノエリア。

 自分の名を呼んでいたノエリア。

 一緒に静かな場所で眠ろうと話していたノエリア。


 腕の中にいる彼女ではなく、失われた彼女を求めた。


 そのとき、ノエリアの胸元から淡い光がこぼれた。


 光は静かに広がり、エドモンドの指先に触れた。


 次の瞬間、彼の身体は淡い光に包まれていた。


 祝福は、涙など数えなかった。


 後悔も、震える手も、彼が彼女の名を何度呼んだかも。


 ただ、心の向いた先だけを見た。


 今ここにあるノエリアではなく。


 もう戻らない、少し前のノエリアへ。


 だからノエリアの祝福は、彼を浮気者と呼んだ。


 エドモンドは泣いた。


 泣いているのに、口元だけがわずかにゆるんだ。


「……そうか」


 光に包まれながら、かすれた声で呟く。


 死んでもなお。


 その願いだけが残っていたのだ。


 今ここにいる自分だけを見てほしい。


 自分以外へ心を向けないでほしい。


 祝福は、それを最後まで裏切らなかった。


「君も……私も」


 エドモンドは泣きながら笑った。


「どうしても、今ここにいる自分だけを見てほしかったんだな」


 残酷だと思った。


 間違っているとも思った。


 それなのに、胸の奥が甘く痛んだ。


 彼女は最後まで、同じ願いを抱えていた。


 自分と同じように。


 同じくらい、どうしようもなく。


 光が強くなる。


 身体から力が抜けていく。


 それでも腕は離さなかった。


「いいよ」


 彼はノエリアの髪に頬を寄せた。


「なら、最後まで付き合うよ」


 死ぬのは怖かった。


 けれど、彼女の願いに捕まって死ぬのだと思うと、ほんの少しだけ救われた。


 ようやく疑わなくていい。


 ようやく、離れなくていい。


 その言葉を最後に、エドモンドの身体から力が抜けた。


 彼はノエリアに折り重なるように倒れた。


 二人の指輪が、床に落ちた光を受けて、かすかにきらめいた。


 疑わずに済む相手が、やっと見つかったはずだった。


 なのに二人の祝福は、最後まで心の揺らぎを許さなかった。


 浮気者には、死を。


 二人がそう願ったわけではなかった。


 けれど祝福は、そう聞き届けた。

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― 新着の感想 ―
まあ、神様なんて人の心や善し悪しはわかんないよなー。 人外だし。
祝福するものが人ではないなら、人が願った通りにはいかないのは道理ですね。
感想一覧
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