第4章 — 帰路
吹雪の中を、和樹は歩いていた。 沈みかけた夕日が雪原を淡く照らしている。
一歩進むたびに、体が震えた。
「今が何時かは分からないが、まだ明るい……。 暗くなる前に急がないと」
白い雪を踏みしめながら進むと、不自然に大きな足跡が視界に入った。
すぐに、それがオーガのものだと気づく。
「…… ここを通ったのか」
まだ新しい。 吹雪にも完全には埋もれていない。
和樹は迷わず、その跡を追うことにした。
風は容赦なく吹きつけ、視界は数メートル先すら白くかすむ。
降り続く雪は壁のように立ちはだかり、頬を切る冷気が衣服の奥まで侵食してくる。
山は静まり返り、聞こえるのは自分の足音と、ときおり岩肌に反響する風の唸りだけだった。
やがて――
視界の先に、異様な光景が現れる。
雪原に横たわる、引き裂かれた三つの遺体。
白一色だったはずの地面は、血によって赤黒く染まっていた。
和樹はゆっくりと近づく。
母親と、三人の娘たち。
だが――父親の姿がない。
胸がわずかに締めつけられる。
もっと早く辿り着いていれば、救えたのではないか。
そんな思いが脳裏をよぎる。
だが、表情は変わらない。
まるで、こうした光景に慣れているかのように。
「…… もう分かった」
和樹は冷静に状況を整理し始めた。
「オーガは自分の縄張りの獲物を狩り尽くした。 巣に大量の死骸があったのはその証拠だ。 周囲の動物も逃げた…… 俺が狩りの最中に一匹も見なかった理由も説明できる」
淡々と、事実を積み重ねていく。
「獲物が尽きたオーガは、狩場を広げた。 山頂の平原へ…… そこで、この家族の小屋を見つけた」
視線を血痕へ落とす。
「正面が破壊されていた。 奇襲だ。 父親は足止めをした…… 家族を裏口から逃がすために。 だから小屋に血があった」
そして、父の遺体がない理由。
「…… 食われた」
吹雪が、遠くで唸る。
「だが、それでも空腹は満たされなかった。母親と娘たちを追い……ここで追いついた」
小屋からはかなり距離がある。
必死に走ったのだろう。
「オーガは相当速い」
和樹は足元の雪を見る。
「……彼女たちの足跡は見つからなかった。吹雪に消されたのかもしれない」
一瞬、思考が止まる。
「だが……なぜ、あいつは俺と遭遇した後、小屋へ戻った?」
偶然か。それとも、何かを探していたのか。
「……分からない。これは、俺の推測に過ぎない」
真実を知る術はない。
やがて太陽が地平線に沈みかける。
帰らなければならない。
和樹は周囲の枯れ枝を集め、即席の十字を作った。
それを遺体の間に立てる。
永遠の安息を願う、ささやかな祈り。
彼は膝をついた。
「……助けられなくて、すまない。安らかに眠ってくれ」
静かに頭を下げ、立ち上がる。
「日が落ちる。戻らないと」
背を向け、山を下り始めた。
標高が下がるにつれ、吹雪は弱まり、雪も徐々に細くなる。
やがて視界が開け、下界の風景が少しずつ姿を現した。
心は重い。
見た光景が、頭から離れない。
夜が深まり、星が空を埋め始めたころ――
遠くに、村の灯りが見えた。
小さな、温かな光。
安堵が胸を満たす。
歩調を速め、村へと入った。
人々が和樹に気づき、すぐに集まってくる。
「ママ、お兄ちゃんが戻ってきたよ!」
以前の少女だ。
村の老人が前に出る。
「どうだった、若者よ」
「……オーガは倒しました」
声は低い。
老人は彼の表情を見て、何かを察した。
「今日は休ませてやれ。きっと、辛いものを見たのだろう」
そう言って、空き小屋へ案内する。
「今夜はここを使うといい」
「……ありがとうございます」
「ゆっくり休め。話は明日でいい」
「……はい」
小屋に入ると、簡素だが温もりのある部屋だった。
装備を外し、軽装になる。
ベッドに横たわった瞬間、疲労が一気に押し寄せる。
瞼を閉じる。
「あの光景が……離れない」
それでも、無理やり意識を沈めた。
やがて、重たい眠りに落ちる。
翌朝。
和樹は気だるさを残したまま目を覚ました。
窓の外を見ると、すでに日は高い。
「……寝過ぎたか」
外に出ると、村人たちは普段通りに働いていた。
行き交う声、穏やかな日常。
和樹はそれを眺める。
「……静かな村だ」
「よく眠れたかい、坊や?」
老人が近づきながら声をかける。
「……はい。眠れました」
和樹は少し元気のない声で答えた。
「話せそうか? 何があったのか」
「……はい。大丈夫です」
村人たちは大きな机を囲むように集まり、和樹の言葉を待った。
彼は狩りで見たことをすべて話し、そして自分なりの推測を静かに語る。
語るほどに、空気は重く沈んでいく。
やがて、村人たちの目に涙が滲み始めた。
「……渡辺家だ……」
若い男が震える声で言う。
「渡辺家の人たちなんだ……」
彼は顔を覆い、肩を震わせた。
和樹はその様子を見て、胸の奥が締めつけられる。
罪悪感が、さらに重くのしかかる。
老人が深く息をついた。
「……辛い知らせだ。今日はもう、それぞれ部屋に戻ろう。心を休める時間が必要だ」
誰も異論はなかった。
村は静かな喪に包まれる。
和樹も荷物をまとめ、小屋を出る準備を始めた。
すると、老人が再び声をかける。
「もう出立するのか?」
「……はい」
背中に見えない重みを感じながら、和樹は答える。
「もう少し滞在してもいいのだぞ」
「いえ……早く家に戻った方がいいので」
「そうか。決めるのはお前だ」
少しの沈黙のあと、和樹が口を開く。
「一つ、聞きたいことがあります。さっき泣いていた男の人……あの家族と関係が?」
「ああ。ズーゴだ。渡辺家の長女、ミコに想いを寄せていた」
和樹は目を伏せる。
「……そうですか」
老人は和樹をじっと見つめる。
「坊や。お前の胸に重いものがあるのは分かる。だがな、あれはお前のせいではない。救えなかったことを背負う必要はない」
和樹は小さく首を振る。
「……でも、もし俺がもっと早く着いていれば。移動を急いでいれば。あのパン屋に寄らなければ……」
言葉が震える。
「彼らは死ななかったかもしれない」
老人は静かに首を横に振った。
「お前は神ではない。すべての命を背負うことはできぬ。死は生の一部だ。誰にも止められぬこともある。そしてな……時に、失うことが人を形作る」
和樹はゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「忘れるなよ、若者」
「……はい。忘れません。でも、もう行きます。お世話になりました」
「気をつけてな」
「……はい」
村を出ると、空はまだ高く明るい。
「……今出れば、夜にはニクスヘイヴンに着けるはずだ」
山霧村を振り返ることなく、和樹は歩き出した。
森の中を進みながら、昨日の出来事が頭を巡る。
「……もう少し寝るべきだったか」
目をこすりながら苦笑する。
やがて空腹を覚える。
「パンはもうないか……狩るしかないな」
槍を手に、音を立てぬよう森を進む。
茂みの奥で、小さな野ウサギが跳ねた。
躊躇なく槍を投げる。
しかし、紙一重でかわされた。
舌打ちし、落ちた槍を拾い、追いかける。
距離を詰め、再び投擲。
今度は――命中。
「……これで十分だ」
手際よく解体し、火を起こす。
焼ける肉の匂いが森に広がる。
腹を満たし、残りは包んでおく。
数時間後、和樹はあえてヒカニ村を避け、森を抜ける別の道を選んだ。
気候は温暖で、鳥のさえずりと川のせせらぎが響く。
巨大な緑樹が立ち並び、生命の息吹が満ちている。
「……綺麗だな」
深く息を吸う。
「シルヴァリア……アヴァロンで最も美しい森、だったか」
甘い森の香りが胸を満たす。
ほんの一瞬だけ、重苦しい記憶が薄れた。
やがて日が沈み、森は闇に包まれる。
そして――
遠くに、城壁を照らす灯りが見えた。
ニクスヘイヴン。
「……やっとだ」
疲労を滲ませながら門をくぐる。
衛兵に軽く会釈を交わし、街へ入る。
「……ギルドに寄って依頼を終わらせる。それから帰るか」
人通りの少ない夜道を歩く。
筋肉は重く、脚は軋む。それでも止まらない。
やがて、ギルドの扉を押し開ける。
中は傭兵たちで賑わっていた。
その瞬間――
「カズキ!」
カレンが駆け寄り、勢いよく抱きつく。
「お帰り!」
「……ただいま、カレン」
和樹は小さく微笑み、抱き返す。
「心配したんだから! 何も言わずに出ていくなんて!」
「ごめん。でも、もう大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
そのとき、別の明るい声が響く。
「久しぶりね、坊や!」
和樹が振り向く。
長い白髪を編み込んだ女性。
茶色の瞳と、柔らかな笑み。
彼女の姿を見た瞬間――
和樹の表情が、わずかに揺れた。
「母さん!」
和樹は思わず駆け出し、彼女に抱きついた。
「おかえり、和樹……」
母は優しく微笑みながら、その背中を抱きしめ返す。
その温もりに触れた瞬間、和樹の張りつめていた心がわずかに緩んだ。
「母さんがここにいるってことは……父さんは?」
周囲を見渡しながら尋ねる。
母はくすりと笑い、ある方向を指さした。
「ほら、あそこよ。他の傭兵たちと飲んでるわ」
視線の先には、金髪に褐色の肌、茶色の瞳をした男がいた。
片手にビールの入ったジョッキを持ち、豪快に笑っている。
その姿は、周囲の傭兵たちの中心にいた。
和樹はその男に近づき、嬉しそうな表情を浮かべる。
「こんにちは、父さん!」
男は振り向いて和樹を見る。
「よう、坊主」
「久しぶり!」
和樹は二人をまとめて抱きしめ、笑顔を見せた。
和樹は養父母であるポールと巴と再会した。
二人は任務で街を離れていた、ルビーランクの熟練傭兵夫婦だ。
「元気にしていたかい、和樹?」
巴が優しい声で尋ねる。
「うん、元気だよ、母さん!」
和樹は明るく答え、抱きしめ続ける。
「それは良かった」
巴は微笑んだ。
「二人とも、どうしてここに?」
和樹は驚いた様子で尋ねる。
「極秘任務で来たのよ」
「ああ、そうなんだ……」
和樹の声が少し沈む。
「そんな顔をするな、坊主。時間は作るさ」
ポールが励ます。
「そうよ、和樹。きっと一緒に過ごす時間はできるわ。約束する」
巴も続ける。
「……ううん、母さん。たぶん、その時間はない」
巴は驚いて和樹を見る。
「どうして?」
「俺、王国軍に志願したんだ。今は承認を待っているところで……」
巴は一瞬言葉を失う。
だが、すぐに穏やかな表情に戻る。
「……そう。和樹、あなたが選んだ道なら、きっとそれが正しいわ」
「そうだ、坊主。きっと強くなる」
ポールも言う。
「止めないの?」
「もちろん止めないさ。お前が決めたことなら、俺たちは応援する。それが親ってものだ」
「そうよ。きっと誇りに思える存在になるわ」
和樹は目に涙を浮かべ、もう一度二人を抱きしめた。
「ありがとう、父さん、母さん。本当にありがとう!」
「どういたしまして、和樹……」
巴が優しく答える。
その様子を見て、カレンは微笑んでいた。
(ニクスヘイヴンに来たばかりの頃、俺には誰もいなかった。孤児院で暮らしていて、よく街に抜け出して遊んでいた。ある日、逃げ出して走り回っているときに、ポールと巴にぶつかった。傭兵の夫婦だった二人は、俺を養子にしてくれた。それからずっと、本当の親のように思っている。仕事でいつも一緒にいられるわけじゃない。それでも、俺たちは家族だった。でも……軍に入れば、それも変わる)
「せっかくだ、今を楽しもうじゃないか!」
ポールがビール瓶を手に叫ぶ。
「うん……そうだね」
和樹は答える。
ギルドのホールでささやかな宴が始まった。
和樹は気持ちを隠し、皆と過ごす時間に集中する。
やがて夜が更け、宴も終わりに近づく。
和樹はポールと巴に別れを告げ、ギルドに残った。
カレンが近づく。
「どうしたの?」
「どうしたって?」
「私に分からないと思った?」
彼女は真っ直ぐに見る。
和樹は黙る。
「何があったの、和樹」
和樹は任務で起きたこと、そして軍に入る決意への迷いを話した。
カレンは優しく抱きしめる。
彼の頭を胸に寄せ、髪を撫でる。
「全部、あなたのせいじゃない。 それに軍のことも…… 私は賛成じゃないけど、それでも応援する。 あなたは私の一番の友達だから」
和樹は少しずつ楽になる。
「ありがとう、カレン……」
二人はホールへ戻る。
和樹はオーガの心臓を彼女に渡した。
カレンはそれを受け取り、倉庫へ保管する。
代わりに金のアウリン八枚を渡す。
「気をつけてね、和樹」
「うん、約束する」
和樹はギルドを後にした。
カレンはその背を見つめ、不安を感じる。
(傭兵の生活は、彼には向いていなかった。 でも、他に道がなかった…… )
夜の街を歩く。
この時間の外出は危険だと知っている。
警戒しながら進む。
そのとき――
遠くから、鋭い刃の衝突音が響く。
何かが起きている。
迷う。
再び、金属音。
和樹は音の方へ向かう。
屋根を伝い、暗い路地へ辿り着く。
上から様子を窺う。
黒いマントの四人が、誰か一人を壁際に追い詰めている。
(何だ……? 四対一だと? 喧嘩か…… それとも処刑か? どちらにせよ、放ってはおけない)
和樹は素早く黒い仮面を取り出し、顔に装着する。
そして――
路地へ飛び降りた。




