第3章 ― 狩猟
まだ太陽の光が空に強く輝く中、カズキは長く故郷と呼んできた街・ニクスヘイヴンの門を出た。 必需品だけが入った重めの鞄を肩に掛け、一歩ずつ前へ進む。 慣れ親しんだ街並みと日常のざわめきを背に、彼は旅路へと踏み出していった。
「ヒカニムラは古い文化的伝統で知られる街だ。 活気ある市場、香辛料の香りが漂う通り、木彫りの装飾が施された家々…… そして何より、独自の文化と珍しい特産品が有名だ。 任務はヒカニムラそのものじゃないけど、ヤマギリ村へ行くにはあそこを通る必要がある。 」
カズキは旅人向けに整備された森の土道を進む。
「この道の方が早いし、急がないと。 あと数時間で日が暮れる。 休息と食事の準備をしないといけない。 アヴァロンでの夜間移動は危険だ。 夜行性の魔物が出るからな。 これは傭兵や冒険者なら誰でも知っている基本だ。 」
森を進むにつれ、自然の音が彼を包む。 鳥のさえずり、葉のかすかなざわめき。 大きな緑の木々が道を囲み、空は晴れ渡り、雲はほとんどない。 穏やかで美しい空気の中、カズキは旅を続けた。
「綺麗だな…… ここは何度か通ったけど、こんなに静かなのは初めてかもしれない。 春の盛りだし、歩いていると妙に心が落ち着く。 でも油断はできない。 夜になると野生の魔物が出る。 完全に暗くなる前に休める場所を見つけないと。 」
さらに数時間歩いた頃、彼は沈みゆく太陽に気づいた。
「暗くなってきたな。 野営できる場所を探そう。 」
疲労を感じながら歩き続けると、やがて森の中に小さな開けた場所を見つけた。 平坦で、簡単な野営をするには十分だった。
「ここでいいな。 」
カズキは焚き火用の小枝を集め、火を起こそうと枝を擦り合わせる。
「エイリュムが使えたら、手から簡単に火を出せるのに……」
体内のエイリュムをうまく扱えないことに歯がゆさを覚えながらも作業を続け、やがて小さな火種が生まれた。
「よし、これなら焚き火にできる。 」
ついに夜が訪れる。 空には星が広がり、森は深い闇に包まれていった。
カズキは小さな空き地の周囲に粉をまき、地面に寝袋を置いた。
「これは『恐怖の粉』って呼ばれてる。 もちろんエリュルムで作られた魔法の粉だ。 嫌な空気を生み出すうえに強烈な臭いもある。 魔物避けとして使われるんだ。 効果はかなり強いから、今パンを食べている間は安心できる。 」
カズキは袋からパンを取り出し、焚き火のそばで食べ始めた。
「森の夜はかなり冷えるな。 この焚き火もそのうち消えるだろう。 今夜は少し寒い思いをするかもしれないけど…… まあいい。 」
パンを食べ終えたカズキは寝袋に入り、空を見上げながらつぶやいた。
「どうして俺はエリュルムをうまく操れないんだ?何が足りないんだろう…… 考えてみれば、一般市民のほとんどは体内でエリュルムを扱えないし、軍の兵士でも使えない者は多い。 人口の二割にも満たないんじゃないか。 どうしてこんなに難しいんだろう…… なぜだろう……」
長年抱き続けている問いをまた胸に浮かべながらも、答えは見つからないままだった。 結局いつものように考えるのをやめ、カズキは静かな森の中で眠りについた。
翌朝、昇る朝日が森を照らし、カズキは目を覚ました。
「ふあぁ……」
大きくあくびをするとすぐに立ち上がり、リュックからパンを取り出して食べ始める。
「また新しい一日か。 今回はちゃんと眠れたな。 パンも残り二つ、水筒の水もほとんどない。 ヒカニムラに着くまで持てばいいけど……」
手早く支度を整え、寝袋をしまい、焚き火を消すと朝早くから再び歩き出した。やがて水筒の水も尽きたが、それでも歩き続ける。
「喉が渇いたな……」
三時間ほど歩いたころ、大きな平原に出た。そして遠くには、堂々とした都市の城壁が見えてきた。
「あれがヒカニムラか……やっと着いた。」
カズキはゆっくりと開かれた巨大な門へ向かい、街へ入る。中は人通りが多く、さまざまな屋台や店が並んでいた。
「ヒカニムラは独自の文化と珍しい特産品で有名だ。だから国内で二番目の経済規模を誇る。でも今はのんびりしていられない。まずはギルドに行って任務の情報を聞かないと。」
「腹も減ってきたな……バッグにはパンが一つだけ。後で食べるとして、焼きたてを買おう。」
通りを歩いていると、角にある目立つパン屋が目に入った。看板には『黄金竜ベーカリー』と書かれている。
「ずいぶん大きなパン屋だな……」
中へ入ると、朝ということもあり店内は混雑していた。カズキはカウンターへ向かう。そこでは三人の少女が接客していた。
「いらっしゃいませ!ご注文は?」
一人の少女が温かい笑顔で声をかける。
「こんにちは。パンを一つだけお願いします。」
カズキは落ち着いた声で答えた。
「かしこまりました。銀アウリン八枚になります。」
(銀アウリン八枚!?高すぎる……足りない。)
「すみません、七枚しか持っていないんです。少し安くなりませんか?」
カズキは申し訳なさそうに頼んだ。
「申し訳ありません……私にはどうにもできなくて……」
少女は同情の表情を浮かべたが、規則は変えられないようだった。
「俺が払おう。」
カズキの隣に座っていた男がそう言った。淡い茶色の髪にチョコレート色の瞳、背中には幅広の剣を背負っている。
「えっ?」
男の申し出に、カズキは戸惑った様子で尋ねた。
「腹を空かせた戦士は戦場で死ぬ。好きなだけ頼め、坊主。俺が払う。」
男はそう言いながらコーヒーを一口飲んだ。
「どうして俺が戦士だって分かったんですか?」
カズキは興味深そうに男を見つめながら聞いた。
「その服装と腰の剣を見れば分かる。論理的な推測さ。」
「あ…確かに。そうですね。」
カズキは少し気まずそうに頭をかき、自分の間抜けな質問に照れた。
「早く頼め。」
「ほ、本当にありがとうございます…」
カズキはカウンターの少女に朝食セットを注文した。
「ところで…あなたは誰なんですか?」
「シズキ・マワハラ。傭兵だ。アメジスト級(レベル8)。」
そう名乗り、軽く胸に手を当てて若者へ礼をした。
「アメジスト級!?かなり高ランクじゃないですか…すごく強いんですね、シズキ・マワハラ。」
「強さは経験と共に身につくものだ。」
ちょうどその時、カズキの朝食が運ばれてきた。シズキは自分のコーヒーを飲み干し、すぐに立ち上がる。
「じゃあな、坊主。任務が残ってる。」
「はい、分かりました。」
シズキはコインを一枚カズキへ放った。
「しっかり食え。戦士はいつでも戦える状態でいなきゃならん。」
そう言い残し、パン屋を後にした。
カズキは受け取った硬貨を見る。金色に輝くそれは――金アウリン一枚だった。
(金アウリン…こんな貴重な硬貨をただで…あの人はいったい何者なんだ?)
その正体を考えながら、カズキは朝食を食べ終えた。
会計を済ませると、彼は街の東門へ向かう。
(朝食は銀アウリン72枚か…かなり高いな。前はパン一つ2枚、多くても3枚だったのに。物価がずいぶん上がった…残りは銀アウリン35枚。でも久しぶりにまともな朝食が取れたし、後悔はない。)
街を出たカズキは、土の道を進み、ヤマギリ村へ向かう。
(よし、行こう。)
約三十分歩くと、高い木々に囲まれた細い道に足音が静かに響いた。木漏れ日が葉の隙間から差し込み、光と影の模様を作り出す。苔と湿った土の匂いが混じった森の空気は穏やかだったが、カズキの胸の奥には緊張が残っていた。
曲がりくねる道のそばには小さな小川が流れ、せせらぎが彼の歩調に寄り添う。周囲の森は生命に満ち、色鮮やかな小鳥が時折飛び交い、静かな侵入者を好奇心の目で見ていた。
やがて木々の切れ間からヤマギリ村が見えた。藁葺き屋根の木造家屋が並び、手入れの行き届いた庭と小さな果樹園に囲まれている。石窯で焼くパンの香りが森の匂いと混ざり、どこか心を落ち着かせる光景だった。
カズキは少し立ち止まり、その静けさを味わう。
「思ったより近かったな…」
そう呟き、再び気を引き締めて村へ入った。珍しい来訪者に、村人たちが徐々に集まってくる。
「こんにちは!中沢カズキです!この村の周辺にいる大鬼を討伐しに来ました!」
彼は皆に聞こえるよう力強く言った。
「冒険者が来てくれるのを待っていたんだ…」
老人が安堵した表情で言う。
「お兄ちゃん、守ってくれるの?」
母親のそばにいた少女が尋ねた。
カズキは少女へ穏やかに微笑んだ。
「うん、必ず守るよ。」
「ありがとう!」
「その鬼はどこに?」
「川沿いの洞窟に住み着いている。」
若い農夫が答えた。
「分かりました。討伐してきます。」
決意を胸に、カズキは川沿いを上流へ進んだ。やがて山のふもとに着き、滝の横に大きな洞窟を見つける。
(ここだな…)
彼はリュックから松明を取り出し、枝をこすって火を起こして点火する。
右手に剣、左手に松明を持ち、細心の注意を払いながら洞窟へ入った。歩くたび胸に不安が走る。危険な予感があっても、彼は勇気を振り絞って進む。
突然、血と腐肉の強烈な臭いが鼻を突いた。
(ひどい臭いだ…巣は近い。)
さらに慎重に進み、やがて広い空間へ出た。だが鬼の姿はない。あるのは動物の死骸だけだった。
(間違いなく巣なのに…もう夕方なのに戻ってこない。)
彼は作戦を変えることにした。
(外で痕跡を探そう。調査中に戻ってくるかもしれない。)
洞窟を出て周囲を探るが、痕跡は見つからない。
(妙だ…まるで最初から鬼なんていなかったみたいだ。でも新しい死骸があった。近くにいるはず…残るのは山だけか。)
彼は山を登ることにした。傾斜はそれほど急ではなく、ほどなく雪に覆われた頂上へたどり着く。
(こんな寒い場所にいるのか…?)
疑問を抱きながら進むと、突然雪が降り始めた。同時に背筋に寒気が走る。
(何だ…嫌な感じがする。)
吹雪の中を進み続けると、大きな小屋が見えた。
(小屋…?)
近づくと、それは破壊され、大きな穴が開いていた――
カズキの胸に強い不安が押し寄せ、彼は誰かが生きていることを願いながら小屋へ駆け出した。だが中に入った瞬間、その希望は打ち砕かれる。小屋の中は血に染まっていたが、遺体はどこにも見当たらなかった。
必死に生存者を探して小屋の中を調べるが、何も見つからない。最悪の結末が頭をよぎる中、床に落ちている一冊のノートに気づく。拾い上げて表紙を見ると、『マリアの日記』と書かれていた。日記だと分かったカズキは、それを静かに鞄へしまった。
ふと棚の上の写真立てが目に入る。父、母、年上の姉、真ん中の姉、そして幼い妹――仲睦まじい家族写真だった。カズキがその写真を見つめていたその時、不意に背後から禍々しい気配を感じる。
次の瞬間、激しい悪寒が背筋を走った。差し迫った危険を本能が告げている。
――ドォン!!
純粋な反射で、カズキは素早く床へ転がった。直後、彼が立っていた場所が激しく破壊される。
転がりながら体勢を立て直したカズキはすぐに振り返る。そこに立っていたのは――
三メートルを優に超える巨大な緑色の鬼だった。巨大で重そうな木製の棍棒を握り、口元には血の跡がべったりと残っている。
「見つけたぞ……」
悲しげな声でカズキはオーガを見つめながら言った。ゆっくりと剣を抜き、逆手に構える。そして戦う準備をする中で、オーガの口元にこびりついた血に気づいた。
「……あの人たちを食べたのか……どうして……どうしてこんなことに……」
さらに沈んだ声で呟く。その口調はどこか虚ろで、一瞬、胸の温もりを失ってしまったかのようだった。
「理性がないのは分かってる。生きるためなんだろう……でも、今日はここで終わりだ。」
強敵だと察したオーガは、雄叫びを上げながらカズキへ突進し、全力の横薙ぎを放った。破壊力は凄まじいが動きは遅い。カズキは軽やかに跳び上がり、その一撃を回避する。
(破壊力は高い……受けたら終わりだ。防ぐんじゃなく、避け続けるしかない。)
カズキはそのまま正面から距離を詰める。 オーガは先ほどの攻撃で振り抜いた棍棒を引き戻し、今度は逆方向へ叩きつけた。 カズキはさらに高く跳躍し空中へ。 無防備だと見たオーガは斜めに振り下ろす。
だがそれも予測済みだった。 カズキは瞬時に棍棒を掴み、その勢いを利用して身体を弾き、オーガへと跳び込む。 完全に隙を突いた形だった。
(魔物は本当に単純だ。 )
絶好の間合い。 カズキはオーガの肩に着地すると、逆手の剣を一閃させる。 滑らかで、それでいて致命的な斬撃。
巨大な首が地面へ転がり、巨体は遅れて崩れ落ちた。
「…… 苦しまなかったはずだ。 」
倒れた亡骸を見つめ、カズキは小さく呟く。
「こんなにあっけない戦い…… 一分もかからなかったな。 」
血が静かに流れていくのを見ながら、ふと考えがよぎる。
「人は…… いや、生き物は、死んだらどこへ行くんだろうな……」
しばらくしてカズキはナイフを取り出し、オーガの胸を切り開いた。 そして心臓を取り出し、小さな箱に収めて鞄へしまう。 討伐の証だ。
作業を終えて外に出ると、雪はまだ降り続いていた。
「寒いな…… この天気じゃ帰りは大変そうだ。 」
小さくため息をつきながら、カズキは吹雪の中を歩き出した。 帰路へ向かって――




