第26章 - 海風に揺れる記憶
地平線から太陽が昇り始め、空を黄金と橙の色に染め上げる頃、ついにサフィラの街のシルエットが遠くに姿を現した。丘陵と平原を縫うように続く道を一週間かけて進んできた第七部隊は、ようやく待ち望んでいた沿岸都市を視界に捉えた。
馬に跨ったカズキは鞍の上で姿勢を整え、安堵と高揚の入り混じったため息を漏らした。潮の香りを含んだ海風が頬を撫で、街に入る前からすでに、海特有の匂いが鼻先に届いている。それはこれまでに味わったことのない、新鮮で心を奮い立たせる感覚だった。
「やっとだな」カズキが静寂を破って言った。その声には、疲労と満足が入り混じっていた。「この道、終わらないんじゃないかと思ってた」
「もう限界!」エレナは大げさに頭を後ろへ倒しながら、不満げに手綱を引いた。「背中は痛いし、脚はガチガチだし、何回落ちそうになったか分かんないよ!」
「まあ、無事に着いただけでもいいでしょ」アユミは大きくあくびをしながら気だるそうに言った。周囲の景色にはあまり興味を示していない様子だったが、それでもサフィラ特有の空気感までは無視できなかった。
「文句が多すぎる」リアムが低い声で割り込み、横目で一行を見た。「たった一週間の移動だ。別に大陸を越えたわけでもない」
街へ近づくにつれ、その輪郭は徐々に細部を帯びていく。人々の声、港で鳴る船の鐘の音、荷物を運ぶ者や足早に通り過ぎる人々の絶え間ない動き――それらすべてが、サフィラが眠らぬ街であることを物語っていた。
「ここからでも新鮮な魚の匂いがする!」リヤが満面の笑みで港の方を指差した。「中央市場、絶対すごいよ!」
少し前を進んでいたニラが振り返り、真剣な眼差しを一行へ向けた。その声には普段と変わらぬ強さがあったが、どこか微かな違和感――この場所に対するわずかな不快感のようなものが滲んでいた。
「任務に集中しろ。私たちは仕事で来ている。サフィラは魅力的に見えるかもしれないが、気を抜くな」
一行は頷き、それぞれが鞍の上で姿勢を正した。やがて目の前に広がる沿岸都市の大きな入口を前にしながら、誰もがそれぞれの形で、この街の持つどこか異質な空気を感じ取っていた。
カズキは前を行くニラの背中を見つめた。いつも通り揺るがぬその姿勢――だがどこか違う。肩はわずかに強張り、無表情の奥に見え隠れする緊張があった。彼は何も言わず、ただ静かにそれを受け止める。ニラがその違和感を自分の中に留めようとしていることを、理解していたからだ。
やがて一行は街の門をくぐり、サフィラの中心部へと足を踏み入れた。港へ出入りする船の音、客を呼び込む商人たちの声、新鮮な魚と潮の匂いが混ざり合い、空気を満たしている。その雰囲気は活気に満ち、同時に混沌としていた。人々の動きは速く、まるで時間そのものが常に流れ続けているかのようだった。
カズキは狭い通りと高くそびえる建物を見渡した。風化した木造の外壁、傾斜した屋根、その多くに海藻が張り付いており、それがこの街の日常の一部であるかのようだった。街全体が生きているような感覚と同時に、海と長い歴史を共有してきた重みが、あらゆる場所に刻まれている。
「ここ、ほんとに止まらないって感じだね」アユミは帽子を直しながら、周囲を興味深そうに見渡した。「どの角を曲がっても新しい光景ばっかり」
「それは都合がいい。情報が集まる」リアムは端的に言い、周囲の店や露店へと視線を巡らせた。その目は常に警戒を保ち、人混みの中に何か異質なものを探しているようだった。
エレナはまだ不満げにしながらも、通り沿いに並ぶ果物や香辛料に目を奪われていた。
「でもさ、ここ美味しそうなもの多いよね……ちょっと果物くらい買ってもいいかな。あの固いパン、もう限界なんだけど」
カズキはちらりとニラを見た。彼女は依然として先頭を進み続けているが、この街が彼女に何らかの影響を与えていることは明らかだった。いつも冷静で揺るがない彼女が見せるわずかな緊張――それは、この場の空気とどこか噛み合っていないように思えた。
遠くで船の鐘が鳴り響く。通りは進むごとに狭くなり、建物はさらに高くなり、人との距離も次第に詰まっていく。
「このまま進んで、まずは拠点を確保する。何をするにも、体制を整えるのが先だ」ニラが告げた。その声は再びしっかりとしたものに戻っていたが、わずかに疲労の色が混じっていた。
カズキはうなずき、少し気持ちが高まるのを感じながらも、警戒を解かなかった。任務に集中する決意は固かったが、この街が放つ奇妙な感覚や、ニラの周囲に漂う微かな違和感を無視することはできなかった。彼らがこの街を進む中で、やがて何かしらの答えが見えてくることを願っていた。
一行はいくつかの賑やかな通りを抜け、やがて広い広場に面した比較的静かな区域へと辿り着いた。そこには酒場や宿が並び、街の喧騒は少し遠のいているものの、変わらず人の営みは続いていた。
「ここなら良さそうだな」リアムは広場の中央にある大きめの酒場を指し示した。中では数人が集まり、食事や会話を楽しんでいる様子が見える。
一行はリアムの提案に同意した。広場の落ち着いた雰囲気は、長旅の後に休むにはちょうどよく、酒場から漂う空気にはどこか安心感があった。
彼らは宿の入口へと向かった。建物は質素ながら温かみのある外観で、扉の上には木製の看板が揺れている。中に入ると、木の香りと窓から差し込む柔らかな光が、心を落ち着かせる空間を作り出していた。簡素ではあるが、今の彼らには十分だった。
最初に口を開いたのはリアムだった。
「各自部屋を取れ。休んで体勢を整えろ。移動は長かったし、これからに備える必要がある。全員が落ち着いたら、すぐに集まって調査を始める。時間は無駄にしない」
その声音はいつも以上に厳しく、だが同時に、任務の核心へと踏み込む直前の緊張も滲んでいた。
他のメンバーもそれぞれうなずき、部屋を選ぶために散っていく。カズキはようやく訪れた休息の時間に、わずかな安堵を感じていた。簡素な場所ではあるが、今はそれで十分だった。
カズキは自分の部屋に入り、扉を開けると軽く軋む音がした。窓へ歩み寄り外を見下ろすと、隙間から入り込む風が頬を撫でる。潮の香りはまだ空気に残り、外ではサフィラの街が絶え間なく動き続けていた。港からの船の音も、遠くにかすかに聞こえる。
(……はあ、気持ちいいな……少しの間だけでも、全部忘れられそうだ)カズキは窓越しに街を眺めながら思った。(本当に明るい街だな。今のうちに、少しでも味わっておくべきかもしれない)しかし視線を室内へ戻しながら、彼の胸には別の感覚が残っていた。(でも……なぜか、まだ胸がざわつく……)
彼はもう一度景色に目を向けてから窓を離れ、ベッドへと歩み寄った。旅用の荷物を置き、静かに整理を始める。部屋は簡素だが落ち着いており、素朴なベッドと木の机が、ひとときの安らぎを与えてくれる。カズキは制服と武器を丁寧に整え、ベッドの脇に置いた。積もり始める思考を抑えるように、あえて手を動かす。
その時、廊下から微かな足音が聞こえた。気になって扉の方を見ると、隙間の向こうをニラが足早に通り過ぎていくのが見えた。俯き加減で、どこか遠くを見ているような表情。食堂やホールへ向かう様子ではなく、反対側――宿のバルコニーへと続く方向へ向かっていた。
カズキは眉をひそめ、しばらくその背を見つめた。歩き方に違和感がある。まるで意識がどこか別の場所にあるかのようで、周囲を見ていない。何かから逃げているのか、それとも何かを探しているのか――そんな印象さえあった。
一瞬迷ったが、やがて好奇心が勝った。ニラに何が起きているのかを知りたかったし、少なくとも異常がないか確かめたかった。音を立てないようにベッドから立ち上がり、静かに部屋を出る。
廊下を進むと、すぐに彼女の姿が見えた。バルコニーへと向かっている。
カズキは足音を殺しながら後を追い、やがて彼女がバルコニーへ出た瞬間、ためらうことなくその隣へと現れた。ほとんどぶつかりそうな距離だった。
「大丈夫か?」彼はいつもより柔らかな声で問いかけた。驚かせないように気をつけながら、彼女の様子を間近で観察する。何が彼女をあそこまで遠く見せているのかを知ろうとしていた。
ニラは小さく肩を震わせ、驚いたように振り向いた。その瞳には、彼がそこにいることへの明確な動揺が浮かんでいた。
「カ、カズキ!?」彼女は声を上げた。予想していなかった来訪に、声がわずかに震えている。
カズキは一歩引き、その反応に気づいた。距離を詰めすぎたことを悟る。だが、それでも立ち去ることはしなかった。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」彼は声を落として言い、場の緊張を和らげようとした。
ニラは何度か瞬きをし、気持ちを整えるように小さく息を吐いた。
「い、いや……大丈夫。驚いてない」そう答えたものの、その声にはわずかな震えが残っており、言葉とは裏腹に動揺が滲んでいた。
カズキは彼女の様子を観察し続けた。落ち着いているように見せてはいるが、何かに確実に心を乱されているのは明らかだった。彼は一歩だけ近づき、穏やかな声を保ったまま話しかける。
「ニラ、本当に大丈夫か?ここに来てから、なんだか……様子が変だ」
ニラは視線を街へと逸らした。まるで目の前の景色に答えを求めるかのように――だが、それを言葉にするつもりはないようだった。
「……大したことじゃない。ただ、この街は……あまり思い出したくない記憶を呼び起こすだけ」彼女は俯いたまま言った。
カズキはわずかに首を傾け、青い瞳で彼女を見つめる。その曖昧な答えの奥に、もっと深いものがあることは分かっていた。だが、無理に踏み込んでも意味がないことも理解している。それでも、興味を抑えるのは簡単ではなかった。
「嫌な記憶……か?」彼は静かに問いかけた。押しつけがましくならないようにしながらも、彼女が話したいなら続けられる余地を残す。
ニラは少しだけためらい、指先でバルコニーの手すりに触れながら、サフィラのきらめく灯りを見つめた。
「……そんなところ」その声はかすかで、ほとんど囁きのようだった。
カズキは腕を組み、近くの壁にもたれた。唇の端にわずかな笑みを浮かべ、空気を少しでも和らげようとする。
「なあ、前から気になってたんだけど……」彼は軽く言葉を投げた。「あんたみたいな吸血鬼が、どうしてアヴァロンにいるんだ?」
ニラはその問いに驚いたように振り向いた。数秒間、何も言わずにカズキを見つめる。その視線は、彼にどこまで話すべきかを測っているようだった。
「……それ、話したことなかったわね」彼女は少し考えるような口調で言った。防御的というよりは、どこか内省的な響きだった。
カズキは首を横に振る。視線は外さない。
「一度も」彼は静かに答えた。
「そう……どこから話せばいいのか……」ニラは言葉を探すように呟いた。その声には、これまで見せたことのないわずかな迷いがあった。
「話しやすいところからでいい」カズキは穏やかに返した。彼女が必要としているのは、急かされることではないと分かっていたからだ。
ニラは小さく息を吐き、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「……始まりはルナリア。私の故郷よ。穏やかで、美しい森に囲まれた土地。人間と吸血鬼が共存していた、静かな場所だった」
彼女の声は徐々に落ち着きを取り戻していく。
「でも、戦争が始まってすべてが変わった。知っての通り、ルナリスはネザリアの隣国……だから、最初に攻撃を受けたの」
ニラは一度言葉を止め、手すりを強く握りしめた。その表情は固く、しかし瞳の奥にははっきりとした悲しみが宿っていた。
「襲撃は突然だった。警告も、準備の時間もなかった。悪魔たちは嵐みたいに押し寄せてきて……道中のすべてを破壊した。家も、村も、家族も……そしてルナリアは、完全に奪われた」
カズキは何も言わず、ただ彼女の言葉を受け止めた。
ニラは再び口を開く。今度は、暗くなり始めた街の地平線を見つめながら。
「両親は分かっていたの。私を守りきれないって。あのまま残れば、死ぬか……あるいは奴隷として生きるしかなかった」
彼女の声はわずかに揺れる。
「別れ際に、母が言った言葉があるの。今でも忘れられない――“生きなさい、ニラ。自由に生きられる場所を見つけるの”って」
手すりを握る力がさらに強くなる。
「……あの日が、人生で一番つらかった。街が燃える中、私は密かに出航する商船に乗せられた。それが両親を見た最後だった」
一瞬の沈黙。
「船長は乗せてくれたけど……旅は最悪だった。三週間、ずっと一人。話す相手もいない。渡されたわずかな食料で、ただ生き延びるだけの日々」
カズキの表情は自然と引き締まっていた。その情景を想像するだけで、胸が重くなる。
「そして、やっとサフィラに着いたとき――私は空腹で、行き場もなくて……それでも、あれは新しい始まりだった」
ニラは一度息を吸い、考えを整えるように間を置いた。
再び視線を街の灯りへと向ける。
「……でもね、ここで待っていたのは安心じゃなかった。疑いだった」
声には抑えきれない苦さが混じる。
「人間は吸血鬼を信用しない。ましてや、家族も書類もない一人の少女なんて……違法な移民みたいなものだった」
彼女は静かに息を吐いた。
「だから、選択肢なんてなかった。自分が何者かを……隠すしかなかったの」
「肌を隠すような服を着るようになった。吸血鬼だと分かる特徴を見せないためにね。そして、自分のことは、悪魔の襲撃で全てを失った孤児だって言ってた……完全な嘘じゃなかったけど。でも、恐怖は常にあった。一つでもミスをすれば正体が露見する。もし知られたら、それで終わりだって分かってた」
カズキは腕を組み、彼女を見つめながら一言一言を噛みしめるように聞いていた。今のニラになるまでに、どれほどのものを乗り越えてきたのか――彼はこれまで深く考えたことがなかった。
「それで……どうやって生き延びたんだ?」彼は純粋な疑問を口にした。
ニラは力のない笑いを小さく漏らし、首を振る。
「生き延びること、それしか知らなかったの。できる仕事は何でもやった。倉庫の掃除、港の手伝い、配達……とにかく、食べるためにお金を稼げることなら何でも。寝る場所も決まってなかった。船の下、廃墟、天気が良ければ港の桟橋……そんな生活」
彼女は少し言葉を止め、辛い記憶に触れるように表情を硬くした。
「簡単じゃなかった。疑いの目を向ける人も多かったし、一人の女の子を利用しようとする男もいた。商人たちも、よそ者だと気づけばすぐ追い払った。それに……偏見もあった。吸血鬼だってことだけじゃない。この街に居場所のない移民だってことも、隠さなきゃいけなかった」
カズキは胸が締めつけられるような感覚を覚えた。ニラが強いことは分かっていた――だがその強さが、想像もできないほどの苦しみの中で鍛えられてきたものだと、今になって理解する。
「……それは、つらかっただろうな、ニラ」彼は静かに言った。「ずっと一人で、それを全部乗り越えたのか?」
ニラはゆっくりとうなずき、記憶の中に視線を落とした。
「選択肢なんてなかった。生きるしかなかったの。でも……サフィラに来て、決めた。もう逃げ続ける人生は嫌だって。自分を隠して生きるのは終わりにしたいって」
彼女は顔を上げ、カズキをまっすぐ見つめた。その赤い瞳には、揺るぎない意志が宿っている。
「大人になってから、自分に誓ったの。もう誰にも恐怖で縛られないって。そのために、アヴァロンの軍に入った」
一歩踏み出すように言葉を続ける。
「ここで決めたの。私の力を、同じように隠れて生きなきゃいけない人たちのために使うって。自由に生きるためには、この戦争を終わらせなきゃいけない。だから――私はここにいる」
カズキはしばらく黙り込んだ。その言葉の重みを、ゆっくりと受け止める。そして一歩近づき、そっとニラの肩に手を置いた。
「すごいな、ニラ」彼は優しく言った。「今のあんたもそうだけど……そこに辿り着くまでに乗り越えてきた全部が、本当にすごい」
ニラはわずかに微笑んだ。それは小さく、しかし確かな本心からの笑みだった。
「ありがとう、カズキ。でも……まだやることはたくさんあるわ」
その控えめな笑顔を見つめながら、カズキはその言葉の重さを理解する。考えるより先に、彼は一歩近づき、彼女を優しく抱きしめた。
ニラは一瞬動きを止めた。予想していなかった行動に驚いたのだろう。だがやがて、ゆっくりと力を抜く。ためらいがちに腕を伸ばし、その抱擁を受け入れた。そして短い間だけ、目を閉じる。
「一人で全部背負う必要はない」カズキは低く囁いた。「もう、一人じゃない」
ニラは深く息を吸い込み、長い間自分に許してこなかった安らぎが、静かに胸へ広がっていくのを感じた。
「……ありがとう、カズキ」
やがて二人は離れ、ニラは少し柔らいだ表情で彼を見た。どこか肩の力が抜けている。
「中に戻りましょう。もう遅いし……あなたも休まないと」
カズキは微笑みながらうなずいた。
「ああ……明日もやることは山ほどあるしな」
二人は並んで宿の中へ戻っていく。過去の影はまだニラの中に残っていたが、その瞬間だけは、ほんの少しだけ軽くなっていた。そしてカズキは、自分が彼女の信頼をほんの少し――だが確かに得たことを感じていた。
夜はサフィラを星の帳で包み込み、遠くで砕ける波の音が、まるで別れの旋律のように静かに響いていた。宿の中では人々がそれぞれの部屋へと引き上げ、廊下には静寂が満ちていく――迫り来る嵐の前の、束の間の安らぎのように……




