88. あと1センチの甘美な地獄
あと1センチの甘美な地獄
吐息が触れる距離。沙織の濡れた唇が、あと1センチで俺の唇に触れる。視線は絡み合い、互いの体温がじわりと伝わってくる。シャワーを浴びたばかりの彼女の髪から、ほのかに甘いシャンプーの香りが漂い、俺の理性をじわじわと侵食していく。腕の中にいる沙織の華奢な肩が、かすかに震えているのがわかる。
「広翔……」
沙織の声が、鼓膜を震わせる。か細く、それでいて熱を帯びたその声に、俺の心臓は警鐘を乱打していた。あと1センチ。この距離が、永遠にも思えるし、瞬く間にも感じられる。このまま、この甘美な地獄に身を委ねてしまおうか。いや、まだだ。まだこの関係を壊すわけにはいかない。俺は、唇を噛みしめ、湧き上がる衝動を必死で抑え込んだ。
「沙織……」
俺が掠れた声でそう言うと、彼女の瞳が潤んだように見えた。
「広翔! まだ寝てんのかい!」
朝っぱらから、母ちゃんのけたたましい声が響き渡る。俺は、布団の中で汗だくになっていた。時計を見ると、午前8時。
「いつまでも布団の中でダラダラと… 結婚もしないで、どうするつもりだい?」
日本家屋の壁は薄い。きっとご近所にも丸聞こえだ。
「もういい加減にしてくれよ、母ちゃん。俺だって、好きで独身でいるわけじゃないんだから!」
半ば諦めと、半ば本気の溜息を吐くと、母ちゃんは腕を組み、仁王立ちになった。
「好きで独身? なに寝ぼけたこと言ってんの! あんたがフラフラしてるから、良いご縁が舞い込んでこないんでしょ! 男は結婚して初めて、一人前の男になるんだよ!」
「はいはい。わーったよ」
適当に相槌を打つと、母ちゃんは鼻息荒く、とんでもないことを言い出した。
「それでね、来週の日曜日、あんたお見合いだから」
俺は、コーヒーを鼻から吹き出した。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?! お見合い?! またかよ!」
前に一度、母ちゃんが勝手にセッティングしたお見合いに行ったことがある。写真で見た女性は、確かに「良い人そう」だった。でも、実際会ってみると、にきび面にしじみ目、 しかも開口一番「手取りはいくらなんですか?」と聞いてきた。話も弾まず、趣味も合わない。正直、苦痛でしかなかった。その苦い経験が蘇り、思わず顔を顰めた。
「今回は、ゴッドマザーが太鼓判を押す人だから! 断るなんて許さないわよ!」
町内会長の奥さん、通称ゴッドマザー。彼女が絡んでくると、どうも話が面倒になる。母ちゃんも、ゴッドマザーには頭が上がらないらしい。これは、逃げられないパターンだ。
「……どんな人だよ」
諦めのため息とともに尋ねると、母ちゃんはにやにやしながら答えた。
「それがねぇ、弁護士さんの娘さんで、とてもしっかりした方なんですって。写真も見たけど、真面目そうな良い子よ」
真面目そう、という言葉は、大抵の場合「地味」とか「面白味がない」といった意味合いで使われる。過去の経験がそう語っていた。だが、母ちゃんの圧力と、ゴッドマザーという名の強大な権力に、俺は抗う術を持たなかった。
「……わかった。行くよ」
俺がそう言うと、母ちゃんは満面の笑みを浮かべ、俺の背中をバシバシ叩いた。
「よし! さすが私の息子だ! ちゃんと身綺麗にしていくのよ! 爪は切って、耳垢もちゃんと取って、髭も剃って、靴もみがいて…」
俺はまだ子供なのかよ… 母ちゃんの言葉に、俺は深い深い溜息を吐いた。
お見合い当日。指定された、駅からほど近いカフェへ向かった。予約席に通され、俺は緊張と、少しの諦めを胸に、相手の女性を待っていた。写真で見た彼女は、確かに「真面目そう」だった。化粧も薄く、髪もまとまっていて、控えめな印象だ。きっと、会話も続かないんだろうな…。苦痛過ぎたら、いっそ、腹痛でも訴えて逃げ出すか? そんなことを考えていた矢先だった。
「あの、水野広翔さん、でいらっしゃいますか?」
澄んだ声が、俺の耳に届いた。振り向くと、そこに立っていたのは、俺の想像をはるかに超える美女だった。
艶やかな黒髪は肩まで伸び、柔らかなウェーブがかかっている。大きな瞳は吸い込まれるように美しく、スッと通った鼻筋、そしてぷっくりとした唇。化粧も上品で、それでいて華やかさがある。上品なワンピースが、彼女のスタイルの良さを際立たせていた。写真とは、別人だ。これは、詐欺だろ。良い意味で。
俺は、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「はい、そうです。水野広翔です」
そう答えると、彼女はにこやかに微笑んだ。その笑顔に、俺の心臓はドキンと音を立てた。
「鈴木沙織です。今日はよろしくお願いします」
「す、鈴木さん……?」
思わず、俺は聞き返してしまった。この名前、聞き覚えがある。俺の脳裏に、配達で回っているルートが浮かんだ。鈴木さん? あの、お洒落な一軒家にお住まいの、あの鈴木さん?
俺の仕事は、宅配便のドライバーだ。毎日、たくさんの荷物を届け、たくさんの人に出会う。その中でも、特に印象に残っているのが、鈴木さんの家だ。なぜなら、そこのお嬢さんが綺麗すぎて、俺は荷物を渡すたびにドギマギしてしまい、まともに顔を見ることができなかったからだ。ドギマギしすぎて、サインを頼んだペンを取り落とし、拾い、また取り落とし、を3回繰り返したことがある。
「えっと……もしかして、いつも配達で伺っている、鈴木さんですか?」
俺が恐る恐る尋ねると、彼女はふわりと笑った。
「はい、そうです。水野さん、いつもお世話になっております」
なんてこった。世間は狭すぎる。いや、俺の行動範囲が狭すぎるのか? 何はともあれ、お見合い相手が、いつも配達でドギマギしている、あの鈴木沙織さんだったなんて。これは、運命なのか、それとも罰ゲームなのか。俺の脳内CPUはオーバーヒート寸前だ。
「あ、あの、まさか、鈴木さんだったなんて……」
俺がしどろもどろになっていると、沙織さんはくすっと笑った。
「私も、水野さんがお相手だと知って、少し驚きました。でも、母から、水野さんが、とてもいい方だと聞いて、安心しました。お荷物も、いつも丁寧に運んでくださいますし」
配達中の俺の姿を、そんな風に評価してくれていたのだ。俺は、顔が赤くなるのを感じた。まさか、俺のドギマギが「丁寧」と解釈されていたとは。世の中、どう転ぶかわからんものだ。
その後の会話は、驚くほどスムーズだった。沙織さんは「真面目で地味」とは正反対で、明るく、聡明で、ユーモアのセンスも持ち合わせている。会話のテンポも良く、俺の冗談にも、楽しそうに笑ってくれた。まるで彼女とは、前世で兄妹か、あるいは夫婦だったんじゃないかと思えるくらい、息がぴったりだった。
沙織さんは、都内の大手企業でOLをしているそうだ。なるほど、いつも綺麗で、お洒落なわけだ。俺のような、肉体労働の宅配ドライバーとは、住む世界が違うような気がして、少し気後れした。どういう経緯で俺とのお見合いが設定されたのか、少し不思議だった。
話は和やかに進み、気づけばあっという間に時間が過ぎていた。帰り際、沙織さんは、少しはにかんだような笑顔でこう言った。
「もしよかったら、これからも水野さんとお話ししたいです」
その言葉に、俺の心臓は再び大きく跳ねた。俺は、少しもったいぶって、返事をした。
「俺も、鈴木さんとお話しできて楽しかったです。ぜひ、また」
そんな、回りくどい言い方しかできない自分が歯痒かったが、沙織さんは嬉しそうに頷いてくれた。まさか、お見合いでこんなに心が動かされる相手に出会えるなんて。俺たちは、連絡先を交換した。
「一つだけ、お願いがあるんですけど」
帰り際、沙織さんは少しだけ真剣な表情で俺に言った。
「夜は、あまり連絡をしないで欲しいんです。私、早く寝る習慣があるので」
その言葉に、俺は少しだけ不思議に思った。今時、夜に連絡を取らないなんて、珍しい。だが、俺も、仕事柄朝が早いので、夜更かしはしない方だし、と納得した。
「わかりました」
そう告げると、沙織さんは安心したように微笑んだ。
沙織さんと付き合い始めてから、俺の日常は色鮮やかに変わった。たわいもないLINEのやり取り、週末のデート、そして時には沙織さんの手料理を振る舞ってもらうこともあった。彼女の料理は、見た目も美しく、味も絶品で、俺はすっかり胃袋を掴まれてしまった。胃袋どころか、人生そのものを掴まれかけている。
そんなある日のことだった。いつもの配達ルートを回っていた俺は、夜に賑わう繁華街を通りかかった。時刻は、夜の8時を過ぎた頃。沙織さんは、もうベッドに入ろうとする時間だろうか。
ふと、信号待ちで横断歩道に目をやると、そこに沙織さんがいた。
しかし、いつものシンプルで清楚なスタイルとは全く違う。髪はセットされ、普段よりも濃いメイク。黒のタイトなワンピースに、高いピンヒール。まるで、これからどこかのパーティーにでも行くかのような、華やかで、少し派手な出で立ちだった。まるで、昼と夜で別人格が入れ替わる漫画の主人公のようだ。いや、そういう漫画あったな。
あれは、本当に沙織さんなのか? いつもは、控えめで上品な彼女からは想像できない姿だ。しかも、彼女の隣には、いかにも羽振りの良さそうな、いかがわしい雰囲気の男が立っている。その男が、沙織さんの腰に手を回し、沙織さんは、慣れているかのように、男の言葉に愛想笑いを浮かべている。
俺の胸に、鈍い痛みが走った。これは、一体どういうことだ? 夜は連絡しないというのは、このためだったのか? 他の男と、こんな派手な格好で、こんな時間に何をしているんだ? 疑問と、嫉妬と、そして裏切られたような感情が、ごちゃ混ぜになって俺の頭を駆け巡った。
信号が青に変わり、車を走らせる。だが、俺の意識は、沙織さんとあの男の姿に囚われたままだった。仕事中だというのに、荷物をどこに運んだのか、今自分がどこを走っているのか、ほとんど意識がなかった。配達先で「大丈夫ですか?」と聞かれていたような気もする。目は死んでいたと思う。
その日の夜、俺は沙織さんからのLINEに既読すらつけなかった。翌日も、その翌日も。沙織さんからは、何度か心配するLINEが届いたが、俺は返す気になれなかった。何を返せばいいのか、わからなかったのだ。
俺は、完全に心を閉ざしてしまった。沙織さんが、一体何をしているのか。なぜ、あんな派手な格好で、男と夜の街にいたのか。俺に話してくれなかったのは、どうしてなのか。聞く覚悟も、問い詰める勇気も、俺にはなかった。
そんな数週間が過ぎたある日、俺の家に、沙織さんを紹介してくれたゴッドマザーが乗り込んできた。
「広翔! あんた、沙織ちゃんからの連絡、無視してるんですってね! 沙織ちゃんに、あんたたちがどうなっているのか聞いたら…」
開口一番、ゴッドマザーは俺を睨みつけた。隣には、母ちゃんが申し訳なさそうにしている。
「別に、無視してるわけじゃ……」
「言い訳しない! あんた、沙織ちゃんのことを、何か誤解してるんじゃないの?」
ゴッドマザーは、ずんずんと俺の目の前まで歩み寄ると、腕を組んで言った。その迫力に、俺は思わず後ずさりした。
「誤解って……」
俺は、意を決して、あの夜見た沙織さんの姿について話した。派手な格好をしていたこと、見慣れない男と歩いていたこと、そしてそれが、夜に連絡できない理由なのではないかと疑っていることを。
ゴッドマザーは、俺の話を最後まで黙って聞いていた。そして、俺が話し終えると、深く溜息を吐いた。
「広翔。あんたは、本当に馬鹿だねぇ」
その言葉に、俺はカチンと来た。
「な、なんで俺が馬鹿なんですか! 現に、俺は自分の目で見たんです!」
「いいかい、広翔。沙織ちゃんが夜働いているのは、両親の治療費や介護費用を捻出するためだよ」
俺は、耳を疑った。
「え……?」
「沙織ちゃんのご両親は、最近二人とも体を壊してね。特に、お父さんは重い病気で、高額な治療費がかかっているんだ。沙織ちゃんは、昼間の仕事だけでは賄えないからって、夜も働いているんだよ。夜の店といっても、健全な店で、お酒を強要されたり、変な客がいるようなところじゃない。沙織ちゃんも、接客が上手だから、経営者からも可愛がられているって話だよ」
ゴッドマザーの言葉が、俺の頭の中でゆっくりと反芻される。両親の介護費用。高額な治療費。俺が、勝手に想像していた、いやらしい理由とは全く違う、あまりにも真っ当で、切実な理由だった。
俺は、自分がどれだけ愚かで、沙織さんを傷つけていたのかを思い知った。恥ずかしさと、後悔の念が、津波のように押し寄せてきた。
「そんな……俺、知らなかった……」
俺がうなだれていると、ゴッドマザーは少しだけ優しい声で言った。
「沙織ちゃんはね、あんたに心配かけたくなかったんだよ。だから、言わなかったんだ。でも、あんたが連絡を返さないから、すごく傷ついてるよ」
俺は、沙織さんのことを何も知らなかった。彼女の背負っているものを、何一つ理解していなかった。それなのに、勝手に想像を膨らませ、彼女を疑い、傷つけていた。俺は、最低だ。俺は、世界で一番の馬鹿だ。
その日、俺は沙織さんに連絡を入れた。すぐに電話が繋がり、俺は謝罪の言葉を口にした。
「沙織さん、本当にごめん。俺、夜の街で沙織さんを見かけて、勝手に勘違いして…」
沙織さんは、少し沈黙した後、優しい声で言った。
「大丈夫よ、広翔さん。話してくれて、ありがとう」
そして、俺は沙織さんに会う約束をした。翌日、俺はいつものカフェで待った。沙織さんは、普段と変わらず上品なワンピース姿で現れた。その顔には、少しだけ疲労の色が浮かんでいたが、その瞳は、いつものように優しく、柔らかだった。
「沙織さん、連絡をしないでいて、ごめん。俺、何も知らずに……」
再び謝罪の言葉を口にすると、沙織さんは俺の言葉を遮った。
「広翔さん、もう大丈夫よ。私も、ちゃんと言わなかったのが悪かったし。でも、広翔さんが気づいてくれて、本当によかった」
俺は、沙織さんの言葉に、胸がいっぱいになった。そして、沙織さんが働いているのが、どういう店なのか、尋ねた。彼女は、正直に、店の様子や仕事内容を話してくれた。
彼女が働いているのはラウンジで、俺が見た時は、お客と一緒にお店に同伴出勤しようとしているところだった。同伴とは、店の営業開始前に、キャスト(と呼ばれる女性)がお客さんと店外でデートをし、そのままお客といっしょにお店に出勤するという営業方法だ。こうして沙織さんは、キャストとしての売上や指名本数を増やしている… らしい。
「沙織さん、本当に大変だったんだね。俺、何も手伝ってあげられなくて……」
俺がそう言うと、沙織さんは小さく首を振った。
「広翔さんが心配しちゃうんじゃないかって思って、言えなかったの。それにね、広翔さん、覚えてない?」
沙織さんは、少しだけ寂しそうな、それでいて懐かしむような眼差しで俺を見た。
「え?」
俺は、首を傾げた。
「小学生の時、すごく太っていて、よく男子にいじめられてた子。『デブの鈴木』って呼ばれてて…」
沙織さんの言葉に、俺の記憶が蘇ってきた。確かに、小学生の頃、俺のクラスに太った女子がいて、いつもからかわれていた。
「広翔さんは、私を助けてくれた」
俺は、皆に『もう、やめろよ』と言ったことが数回あった。あの時の俺は、正義感に燃えるスーパーヒーローだった。
「まさか……あれが、沙織さんだったの?」
俺は、驚きで目を見開いた。目の前にいる美しく、聡明な沙織さんと、当時の太った女子が結びつかない。
沙織さんは、小さく頷いた。
「うん。あの時は、本当に嬉しかった。最初に宅配便を届けてくれた時、広翔さんだってすぐにわかった。でも、同級生だった『デブの鈴木』って名乗る勇気がなくて… それで母を通じて、お見合いをセットしてもらえるよう頼んで…」
俺は、沙織さんの言葉に、胸が熱くなった。彼女は、あの頃の俺の優しさを、ずっと覚えていてくれたんだ。
「だから、私がお金に困ってるってなったら、広翔さんが無理しちゃうんじゃないかって思って」
だからこそ、俺に心配をかけたくなくて、夜の仕事を隠していたんだ。
俺は、もう一度、沙織さんの手を強く握りしめた。
「沙織さん。俺、もう二度と、沙織さんのこと疑ったりしない。これからは、どんなことがあっても、沙織さんの味方だから。だから、頼って欲しい。俺にできることなら、何でもする」
沙織さんは、瞳を潤ませ、小さな声で「ありがとう」と言った。
カフェを出て、俺たちは街を歩いた。肩を並べて歩く沙織さんの隣にいることが、こんなにも幸せだなんて。俺は、もう迷うことはない。この人を、一生かけて守っていこう。そう心に誓った。
俺たちのラブコメは、ここからが本番だ。まだ、あの「あと1センチ」の壁は破られていない。でも、きっと、その日は近い。そう予感させる、沙織の笑顔が、俺の心を大きく揺さぶった。
俺たちはこれからも手を取り合い、同じ方向を見つめて、一緒に歩んでいこう。




