第1話 静寂と来訪者
俺は、数え切れないほど死んだ。
数え切れないほど、生き直した。
気がつけば、終わりも始まりもなく繰り返す存在になっていた。
英雄として剣を振るった時もあった。
皇帝として後宮に美女を囲んだ時もあった。
革命の旗を掲げて民を導いた時も、神の名を騙って狂信者を操った時も。
けれど――すべては、色褪せた。
女の肌の温もりも、戦の勝利の歓声も、黄金のきらめきも。
どれも、一度は強烈に胸を満たしたが、やがて砂のように指の間から零れ落ちた。
最後に残るのは、奪われる瞬間の苦痛。
愛した者が目の前で死に、信じた仲間に裏切られる記憶ばかりが、幾度も幾度も心に刻まれてきた。
だから俺は悟った。
快楽も栄華も、所詮は喪失を覆い隠すための安物の麻薬にすぎない。
……だから俺は森に来た。
*
森の奥深く、小さな開拓地を築いた。
木々を切り倒し、土を耕し、小屋を建て、火を起こした。
この場所は誰も知らない。
俺だけの静寂で満ちた、世界の片隅。
朝は鳥の声で目を覚まし、畑を耕す。
手に握る鍬の柄はすでに掌に馴染み、ひび割れた皮膚を固くする。
土の匂いは、どんな香水よりも誠実だ。
昼には森で狩りをする。
弓矢を引き、獣を仕留め、肉を燻す。
かつては宮廷の食卓に並ぶ豪奢な料理を味わったが、今では焚き火で炙っただけの肉の方がはるかに旨いと感じる。
味わいを飾る必要もなく、ただ生きるために噛みしめる。
夜は簡素な寝台に横たわる。
小屋の屋根を叩く雨音を子守唄に、瞼を閉じる。
夢を見ても、すぐに忘れる。
ただ、眠りと目覚めの境で、ふと胸に虚無の影が差し込むことがある。
……それでもいい。
俺にはもう、他に求めるものなどない。
ここで、自然と共に静かに生き、静かに朽ちればいい。
それが、数え切れない転生を繰り返した果てに辿り着いた、唯一の安息だった。
*
ある朝、森を見回っていた。
樹皮を裂いた爪痕を確かめ、毒草の群生を焼き払い、川の水量を測る。
それは日課だ。
この森を守るための、俺だけの儀式。
だがその日、空気の流れに違和感を覚えた。
湿った匂いに混じって、血の匂い。
鳥たちの鳴き声が、ある一角だけで消えている。
俺は歩みを止め、耳を澄ませた。
微かに、草をかき分ける音。
呼吸を押し殺すような、か細い吐息。
……面倒な予感がした。
足を向ける。
やがて視界に、倒れている人影が現れた。
少女だった。
汚れた布切れのような服。
裸足に近い靴は擦り切れ、膝や腕に擦過傷が残っている。
金色とも灰色ともつかない髪が泥に貼り付き、顔は青ざめていた。
生きているのか、死んでいるのか。
近づくと、唇がかすかに動いた。
「……たす、け……」
小さな声。
それでも、必死に縋ろうとする響きがあった。
俺は立ち尽くした。
助ける理由はない。
放っておけば、森がひとつ死体を呑み込むだけのことだ。
むしろその方が、俺の静寂は保たれる。
「……面倒だ」
俺は小さく吐き捨て、背を向けた。
――はずだった。
だが足が止まる。
振り返る。
少女の瞳。
かすかに開かれたその瞳が、確かに「生きたい」と訴えていた。
それは、無数の転生で腐り果てた俺の心に、ひとすじの棘のように刺さった。
好奇心。
ほんのわずか。
珍しい植物を見つけた時と同じ程度の興味。
それだけで、俺は少女の身体を抱え上げていた。
*
少女を抱え、小屋へ戻る。
俺の腕にある体重は、羽のように軽かった。
あまりにも弱々しく、力を失っている。
扉を蹴って開け、寝台に横たえる。
火を熾し、鍋に水を張り、薬草を投げ込む。
作業はすべて流れるようだった。
何度、同じことを繰り返してきたか分からない。
無限の転生の中で、介抱や治療の経験など嫌というほど積んできたのだ。
布を裂いて傷口に巻きつける。
体温を確かめ、汗を拭い、乾いた布で包む。
俺の手は一切迷わない。
だが、その指先には温かさも慈しみも存在しなかった。
ただ正確に、機械的に動くだけ。
少女はうわごとのように呟く。
「……ここ、は……?」
「森の小屋だ」
俺は火を見つめたまま、短く答えた。
「……ありがとうございます」
掠れた声でそう言った。
けれど、その瞬間――俺の眼の奥に潜む虚無を見てしまったのだろう。
彼女の表情は、ひきつった。
感謝よりも先に浮かんだのは、得体の知れない寒気だったはずだ。
*
俺は椅子に腰を下ろした。
火のはぜる音が、小屋を満たす。
少女――名はまだ聞かない――は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。
俺の胸には何の感情も浮かばない。
哀れみも、救済の悦びも。
ただ一つあるのは――「面倒を抱え込んだ」という実感。
いずれ、この存在が俺の静寂を乱すことになるだろう。
それでも、俺は彼女を助けた。
理由は単純。
ほんの気まぐれで、ほんの興味。
人が必死に「生きたい」と足掻く姿。
それを、俺はどこかで久しく見ていなかった。
*
夜更け、少女が熱にうなされて目を覚ました。
かすかに身じろぎし、唇が震える。
「……どうして、助けてくれたのですか」
俺は火を見つめたまま答えた。
「理由はない。ただ、気が向いただけだ」
「……それだけで?」
「それだけだ」
沈黙。
やがて少女は小さく息を吐き、視線を逸らした。
その表情には、安堵と困惑と、そして薄ら寒さが混ざっていた。
感謝するにはあまりに冷たい言葉。
けれど、否定できない事実。
*
小屋の外では、風が木々を揺らしていた。
静寂が戻ったようでいて、確かに揺らぎはあった。
俺の安息の地に、異物が入り込んだ。
それは今のところ小さな波紋にすぎない。
だが、やがて大きな渦を巻くかもしれない。
俺は目を閉じ、深い溜息を吐いた。
「……面倒なことになりそうだ」
その呟きは、炎に呑まれて消えた。
第1話をお読みいただきありがとうございます。
主人公は「無限転生の虚無」と「森の静寂」に縋る男。
そこへ現れた少女エリア――彼女との出会いが、この先のすべてを動かしていきます。
次回、第2話「プロの流儀と素人の計算」では、彼の冷酷な介抱と、少女の小さな打算が描かれます。