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第1話 静寂と来訪者

俺は、数え切れないほど死んだ。

 数え切れないほど、生き直した。


 気がつけば、終わりも始まりもなく繰り返す存在になっていた。

 英雄として剣を振るった時もあった。

 皇帝として後宮に美女を囲んだ時もあった。

 革命の旗を掲げて民を導いた時も、神の名を騙って狂信者を操った時も。


 けれど――すべては、色褪せた。


 女の肌の温もりも、戦の勝利の歓声も、黄金のきらめきも。

 どれも、一度は強烈に胸を満たしたが、やがて砂のように指の間から零れ落ちた。

 最後に残るのは、奪われる瞬間の苦痛。

 愛した者が目の前で死に、信じた仲間に裏切られる記憶ばかりが、幾度も幾度も心に刻まれてきた。


 だから俺は悟った。

 快楽も栄華も、所詮は喪失を覆い隠すための安物の麻薬にすぎない。


 ……だから俺は森に来た。



 森の奥深く、小さな開拓地を築いた。

 木々を切り倒し、土を耕し、小屋を建て、火を起こした。

 この場所は誰も知らない。

 俺だけの静寂で満ちた、世界の片隅。


 朝は鳥の声で目を覚まし、畑を耕す。

 手に握る鍬の柄はすでに掌に馴染み、ひび割れた皮膚を固くする。

 土の匂いは、どんな香水よりも誠実だ。


 昼には森で狩りをする。

 弓矢を引き、獣を仕留め、肉を燻す。

 かつては宮廷の食卓に並ぶ豪奢な料理を味わったが、今では焚き火で炙っただけの肉の方がはるかに旨いと感じる。

 味わいを飾る必要もなく、ただ生きるために噛みしめる。


 夜は簡素な寝台に横たわる。

 小屋の屋根を叩く雨音を子守唄に、瞼を閉じる。

 夢を見ても、すぐに忘れる。

 ただ、眠りと目覚めの境で、ふと胸に虚無の影が差し込むことがある。


 ……それでもいい。


 俺にはもう、他に求めるものなどない。

 ここで、自然と共に静かに生き、静かに朽ちればいい。

 それが、数え切れない転生を繰り返した果てに辿り着いた、唯一の安息だった。



 ある朝、森を見回っていた。

 樹皮を裂いた爪痕を確かめ、毒草の群生を焼き払い、川の水量を測る。

 それは日課だ。

 この森を守るための、俺だけの儀式。


 だがその日、空気の流れに違和感を覚えた。


 湿った匂いに混じって、血の匂い。

 鳥たちの鳴き声が、ある一角だけで消えている。


 俺は歩みを止め、耳を澄ませた。

 微かに、草をかき分ける音。

 呼吸を押し殺すような、か細い吐息。


 ……面倒な予感がした。


 足を向ける。

 やがて視界に、倒れている人影が現れた。


 少女だった。


 汚れた布切れのような服。

 裸足に近い靴は擦り切れ、膝や腕に擦過傷が残っている。

 金色とも灰色ともつかない髪が泥に貼り付き、顔は青ざめていた。


 生きているのか、死んでいるのか。

 近づくと、唇がかすかに動いた。


「……たす、け……」


 小さな声。

 それでも、必死に縋ろうとする響きがあった。


 俺は立ち尽くした。


 助ける理由はない。

 放っておけば、森がひとつ死体を呑み込むだけのことだ。

 むしろその方が、俺の静寂は保たれる。


「……面倒だ」


 俺は小さく吐き捨て、背を向けた。


 ――はずだった。


 だが足が止まる。

 振り返る。


 少女の瞳。

 かすかに開かれたその瞳が、確かに「生きたい」と訴えていた。

 それは、無数の転生で腐り果てた俺の心に、ひとすじの棘のように刺さった。


 好奇心。


 ほんのわずか。

 珍しい植物を見つけた時と同じ程度の興味。


 それだけで、俺は少女の身体を抱え上げていた。



 少女を抱え、小屋へ戻る。

 俺の腕にある体重は、羽のように軽かった。

 あまりにも弱々しく、力を失っている。


 扉を蹴って開け、寝台に横たえる。

 火を熾し、鍋に水を張り、薬草を投げ込む。

 作業はすべて流れるようだった。

 何度、同じことを繰り返してきたか分からない。

 無限の転生の中で、介抱や治療の経験など嫌というほど積んできたのだ。


 布を裂いて傷口に巻きつける。

 体温を確かめ、汗を拭い、乾いた布で包む。


 俺の手は一切迷わない。

 だが、その指先には温かさも慈しみも存在しなかった。

 ただ正確に、機械的に動くだけ。


 少女はうわごとのように呟く。


「……ここ、は……?」


「森の小屋だ」


 俺は火を見つめたまま、短く答えた。


「……ありがとうございます」


 掠れた声でそう言った。

 けれど、その瞬間――俺の眼の奥に潜む虚無を見てしまったのだろう。

 彼女の表情は、ひきつった。


 感謝よりも先に浮かんだのは、得体の知れない寒気だったはずだ。



 俺は椅子に腰を下ろした。

 火のはぜる音が、小屋を満たす。

 少女――名はまだ聞かない――は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。


 俺の胸には何の感情も浮かばない。

 哀れみも、救済の悦びも。


 ただ一つあるのは――「面倒を抱え込んだ」という実感。

 いずれ、この存在が俺の静寂を乱すことになるだろう。


 それでも、俺は彼女を助けた。

 理由は単純。

 ほんの気まぐれで、ほんの興味。


 人が必死に「生きたい」と足掻く姿。

 それを、俺はどこかで久しく見ていなかった。



 夜更け、少女が熱にうなされて目を覚ました。

 かすかに身じろぎし、唇が震える。


「……どうして、助けてくれたのですか」


 俺は火を見つめたまま答えた。


「理由はない。ただ、気が向いただけだ」


「……それだけで?」


「それだけだ」


 沈黙。

 やがて少女は小さく息を吐き、視線を逸らした。


 その表情には、安堵と困惑と、そして薄ら寒さが混ざっていた。

 感謝するにはあまりに冷たい言葉。

 けれど、否定できない事実。



 小屋の外では、風が木々を揺らしていた。

 静寂が戻ったようでいて、確かに揺らぎはあった。


 俺の安息の地に、異物が入り込んだ。

 それは今のところ小さな波紋にすぎない。

 だが、やがて大きな渦を巻くかもしれない。


 俺は目を閉じ、深い溜息を吐いた。


「……面倒なことになりそうだ」


 その呟きは、炎に呑まれて消えた。

第1話をお読みいただきありがとうございます。

主人公は「無限転生の虚無」と「森の静寂」に縋る男。

そこへ現れた少女エリア――彼女との出会いが、この先のすべてを動かしていきます。


次回、第2話「プロの流儀と素人の計算」では、彼の冷酷な介抱と、少女の小さな打算が描かれます。

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