「藍蘭坂湖の水霊」 #1
__七月の体育館、あの日は異様に暑かった。
田舎の学校にクーラーなんてない。体育館には人の熱気と湿気が溜まり、壁には蝉と蛾が張りついていた。
遠くで誰かがうちわをあおぐ音。校長の声は、ぼんやりと耳の奥に響いているだけで、誰もまともに聞いてなどいなかった。
けれど、
その日、あのとき、わたしだけは確かに“音”を聞いた。
ぴたりと止まった蝉の声。
ふいに鳴き出した、知らない虫の声。
誰も知らない、誰も見たことのない“虫”。
あれが鳴いたのが、最初だった。
そして、あの夏が終わるまで──ずっと鳴き続けていた。
7月、季節はもう夏。
中学三年生のわたし、今宮 三和は今一学期の終業式の為あっつい体育館に集められてる。明日から夏休みだしとは思うけど校長の長くてくだらない話を聞かされてると早く家に帰りたいなと思う。それにしても暑っつい。体育館にクーラー1つない田舎の学校で窓には虫が張り付いてるなんて日常風景。耳を貫く蝉の声がやんで、異様な虫の音がなり始めた。何この音、そう思った瞬間蝉の声が戻った。
気のせいか。そう思い、
地毛の茶髪ロングの髪の毛をかき揚げながら何とか熱くなった体に風を送り込もうと手で仰ぐ。ふと、隣に座ってる友達の遊大に目を向けるとゲーム機を両手に抱えて遊んでるのが目に入った。こいつ、こっちは我慢しながら話聞いてんのに…。足であいつの肘を蹴るとゲーム機を落としそうになりつつこっちを睨んできた。
「何すんねんバカ。危ないやろ」
「誰にバカ言うてんねん。何1人で楽しんでんのアホ」
「喧しいわ。こんな暑っつい中ハゲ校長の話なんか聞けるわけないやん」
「それはそうやけど。てか宿題多すぎな」
「ほんまにな?まじ後藤許さん」
後藤はうちの担任。バカほど宿題を出して来てあんなん夏休み中に終わるわけないわ。この狭いド田舎もクーラーない学校も全部嫌。早く大人になって東京いってやりたい。
「てかさ、遊大って藍蘭坂湖の水霊さんの噂知っとる?」
ふと、昨日の昼休み親友の南乃花が言ってきたことを思い出した。
──
「ねぇ、藍蘭坂湖の噂って知ってる_?」
「あー、最近流行ってるよね。それ」
南乃花は頷いから真剣な顔でそれについて話し出した。
“藍蘭山の中央に位置する藍蘭坂湖は地元でも有名な釣りスポットやんな。やから、日中は多くの釣り人が獲物を求めて藍蘭坂湖に集まる。ここまではみんな知っとる話。そんな賑やかで有名な藍蘭坂湖は、逢魔が時に心霊スポットに変化する。夕日が沈んで空が藍色に染ってく17時〜19時の逢魔が時にな。”
そこまで話終えるとふうっ、と一息ついて
「好きな人と結ばれるんやって。1人じゃ怖いから一緒に行かん?」と言う。
「そうなん?わたしが聞いた話やと死んだ人ともう一度会えるってやつやけど」
「え、違うよー。水霊さんが恋を叶えてくれんねんな。でもルールがあって…」
①願い事の代償が必要
②礼儀を忘れないこと
③1週間後にお礼を持ってまた来る
⑤1度しかない。2度目なんて願わないこと
⑥奇数人数で行くこと。偶数で行く場合も4人は必ず避けること
「…いや、代償ってなんなん?大丈夫なんそれ」
「なんかね、大切な人形を渡しますー。とからしいねんけど、願い事の大きさによるらしい。」
「大きさって例えば?」
「うーん、手を繋ぎたいですに人形渡しますやたらまだセーフらしいんやけど、結婚したいですに人形渡しますーはアウトらしい。」
「はぁー?なんなんそれ、意味不」
「願い事と代償の大きさが釣り合わんいう話。1番いいのはな、釣り合う分の自分の寿命をお渡しします。やって」
「じゃあ、寿命渡す言うこと?やばいやんそれ。」
「でも絶対叶うんやで。楽勝やんそんなん。」
南乃花はそういいながらうっとりしたように、教室の隅で馬鹿みたいに騒いでる遊大に目を向ける。
そう、南乃花は遊大のことが好き。あいつのどこがいいんか分からんけど。
音に、記憶は引きずられる。
夏の匂いと、熱と、蝉の鳴き声──そこに混じっていた“知らない虫の声”を、わたしはまだ覚えている。
あのとき、確かに聞こえたんだ。
教室でも家でもない、あの体育館で、何かが息をひそめてこっちを見ていた。
夏休みが始まることを、子どもたちはただ無邪気に喜んでいたけれど。
本当は──
夏が始まったんじゃなくて、“何か”が始まっただけだったのかもしれない。
ううん、違うか。
中学校生活最後の長い夏休みが始まっただけ。