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されど凡人は踊る

作者: 日凪セツナ

 私は小説家だ。

 いや、小説家だ、と名乗る権利があるだけの凡人と言った方が正確かもしれない。そもそも小説家の定義とは何であろうか。ただ物を書いて売っているだけで小説家と名乗れるものだろうか。世の中に広く、優れた小説家として名を馳せている御仁達と私は、同列の『小説家』であって良いのだろうか。

 確かに私の筆名を表紙に載せた本は店頭に並び、私の通帳には本を書いた結果得た金が刻まれている。しかし筆名を名乗ったところで誰もが首を傾げる。


「今何してんの? え? 小説家? へー! ペンネームは? ……あー……見たことある、ような……」


 たまに知人に会えばこうだ。自分から聞いておきながら、気まずそうに視線を泳がせる。そも、ひと月に一冊も本を読まないような人間が、私の本に巡り合っているはずがない。話題の本は一通り読むというような雑食性の読書家ですら、私の筆名を聞けば首を傾げるだろう。

 いっとう売れたのはデビュー作だ。あまり思い出したくない。二作目は期待されていた。目の下のくまが消えなくなるほど、命を削って書いた。あまり売れなかった。そして三作目! 最悪だ。二作目の汚名を晴らさんと、時間をかけ、編集と話し、取材を重ね、会心の出来だと思えてから世に出した。二作目よりももっと見向きされなかった。コアなファンはいるからと、励ましのように編集に言われた。


 そうして、小説を書きながら働いていた私は、働きながら小説を書く私になっていた。悲しきかな、いくら没頭しようとも腹は減る。口に糊するためには先立つものが必要だ。

 休日に楽しむ趣味もなく、私は陰惨な人生になったものだと、人のいない公園を眺めている。こんなことをしている暇があれば、一文字でも書けばいいだろうに。私の文章を真に待っている人間はいないのだから、やる気など出ないに決まっている。

 平凡な日々に刺激などないに等しく、いっそ事件でも目撃すれば、また筆が乗るのではと、碌でもないことを考えている。

 時刻は昼の十二時。私は公園のベンチの、硬い背もたれに首を預け、


「…………」

「…………」


 木の上で縄を結んでいる男と、目が合った。


「……は?」

「おおっと! 止めようなんて考えちゃぁいけねぇぜ!」


 男は大仰な仕草で手を突き出す。そんなことをしたら落ちそうなものだが、どんな体幹をしているのやら。


「安心してくれ、これは役作りだ」


 言うなり、男は結んだロープを首にかける。ようやく、私の愚鈍な脳味噌が事態を理解した。あの縄の形はいけない。事件を目撃したいとは言ったが、事情聴取されるような当事者になりたいとは言っていない。


「やめなさい! 若いのに!」


 ありきたりな文句を言って、私はベンチから大急ぎで立ち上がる。投げ出していた両足が、いきなりの仕事に文句を言っていた。

 男は少し思案するように斜め上を見て、それからひょいっと枝から飛び降りた。あまりに躊躇いのないその動作が、私にはスローモーションに見える。

 一秒後。


「だから安心してくれって言ったのに」


 そこには地面に着地する男と、転んだ私がいた。

 男の首の縄は枝に結ばれておらず、私はたった二秒の全力疾走で足をもつれさせていた。安売りのポロシャツを砂だらけにして、私は立ち上がる。さぞ恨めしげな顔をしているだろう。趣味が悪い悪戯だ。


「ああ、ごめんごめん。心配してるんだよな。あんたいい人だな。缶コーヒー奢るから、それでいい?」


 男は縄の端をくるくると回してそう言った。




 男はイズマと名乗った。この近くで活動している劇団員の一人らしい。小さな劇場があるのは知っていたが、劇を見たことはなかった。


「まぁじで? 俺主演もやったことあるのになー! まあ寂れた劇場のしがない役者じゃ、その程度かー」


 炭酸飲料を片手に、イズマは大げさに言う。


「それはどんな役作りなんだ」


 私が縄を指さすと、イズマはにやにやとしながら縄を持ち上げた。


「人生に絶望して自殺しようとしたけど、うっかり死にぞこなったバカの役作り」

「つまらなそうな主人公だ」

「あっははは! 俺もそう思う!」


 イズマは縄をぐるぐる巻きにして、ゴミ箱に放り投げた。私は微糖コーヒーの安っぽい香りを味わいながら、缶を傾ける。


「あんた、劇を見たことないのか?」

「小学校の芸術鑑賞で一度だけ」

「へえー」


 人生を損している、とでも言われるかと思ったが、イズマは何だか嬉しそうに頷くだけだった。


「劇は面白いか?」

「そりゃあもちろん! 面白くなきゃ文化として残ってないね!」


 そうだと立ち上がって、イズマは尻ポケットからチケットを取り出した。


「これ、今日のお詫び。やっぱ缶コーヒー一個じゃ安いもんな。俺は予定が合わなくてさあ」


 公演のチケットだった。場所は近所の劇場。演目も劇団の名前もよく知らない。


「演劇を知らないなんて幸せだぜ。これから初めて! 演劇を知る感動を味わえるんだから!」


 それがきっと素晴らしい体験になるだろうと、イズマは確信している顔だった。

 それから少し私の話をして、大抵の人間がそうするように、イズマも私の筆名を聞いてきた。正直に、読んだことないと言われた。気を遣われるよりは好感が持てた。

 劇を見たら、感想を聞きたい。そう言ってイズマは公園から出て行った。連絡先も交換していないのに、どうやって感想を言えというのか。直射日光を三日分は浴びたような気分で、私も帰路に就いた。




 渡されたチケットの時間通りに、私は劇場に入った。こぢんまりとした、趣味で経営されているのではないかというような劇場だ。これで採算が取れるのだろうか。そう思っていたのは十数分ほどで、開演の二十分前には満席になっていた。手折のパンフレットを見て、主演が誰だとか、誰の演技が楽しみだとか言っている。私は自分でも驚くほど、演目にも人の名前にも見覚えがなかったので、スマートフォンでちまちまと検索をしていた。なるほど、とある小説を元にした劇らしい。

 しかし、と私は舞台を見る。緞帳が降りている舞台は、ここからではずいぶん遠い。物語に没頭するには、それ以外のものが見えすぎる。観客の頭だとか。

 舞台というのは物語に没頭できる場所でなくてはならない。映画館がそうであるように。自室の片隅で、一人ページを捲るようなあの感覚。物語と自分、それだけしか世界に存在しない。そんな空間でなければならない。

 アナウンスに従い、スマートフォンの電源を切る。没頭するための儀式のようなこの動作は、嫌いではない。

 さて、開演のブザーだろうか。


 顔を上げた私を、重々しい音と暗闇が襲った。

 音。音だろうか、今のは。耳というよりは腹で聞いた気がする。そしてあれほど賑やかだった客席はしんと静まり返り、真っ暗闇の中、舞台と客席の境界だけがかろうじて見える。

 耳鳴りがするほどの沈黙があった。五秒か、十秒か。暗闇に完全に目が慣れる前に、舞台の右端をライトが照らす。

 一人の少年が立っていた。


「僕の母は、僕を産んだ三日後に死んだ」


 張り上げているようには聞こえないのに、よく響く声だった。その声で、私はその少年を、女性が演じていたことに気づく。


「父は僕を恨んでいた。唯一最愛の人を奪った僕を。しかし家督を自分の子以外に継がせるつもりもなく、女に継がせるつもりもない。そんな男が父だった」


 立って話している。それだけだ。遠い。どんな顔をしているのかも分からない。

 なのに、どうして。


「僕の仕事は、陛下にあだなす者を殺すこと。そして今宵! ついにあの男の心臓を陛下は所望された。ああなんて、なんて素晴らしい! さあ殺しに行こう、我が父を!」


 芝居がかった動作などまるでないように見える独白。説明口調のセリフなど今日日素人でもまず書かない。小説なら。説明は物語を作り物にしてしまう。

 だが、彼女が言葉を切る頃には、私には彼女の生い立ちがありありと想像できていた。そして今夜、彼女が抱いているであろう感情も。父親殺しという禁忌に手を染める背徳感と恐怖と罪悪感、そして長年の呪縛からの解放への期待。


「君たちには見届けてもらおう。今宵の月は、きっと僕に微笑む!」


 彼女がそう言って、私たちを見る。

 その瞬間から、世界には私と、彼女だけになった。




 夜風が熱った体を冷やす。私はあの公園へ走っていた。ずっと脇腹と足が痛いし、本当なら走らず歩きたいのだが。

 イズマは夜の公園で、一人街灯の下をうろついていた。一瞬再会を喜びそうになって、考え直す。日も落ちてから公園をうろうろしている成人男性というのは、正直怖い。何をしているのだろうか。台本を持っていてくれたらまだ声もかけやすかったものを。

 私が逡巡していると、イズマの方が私に気付いてしまった。


「こんな時間に出歩くなんて」

「この時間のチケットをくれたのは君だろう」


 イズマはベンチに腰掛け、偉そうに私を手招きする。


「面白かった?」

「うん! そりゃあ……あー……こほん。面白かった。演劇というものは小説にはできない表現ばかりだ。ストーリーはともかく、興味深かったよ」

「ふーん?」


 正直、ストーリーは私の好みではなかった。血塗られた手で、父へ剣を向ける少女。一見すればドラマチックだったが、結局彼女は父親を殺せなかった。そればかりか父親の、今まですまなかったという謝罪を受け入れてしまった。彼女のこれまでの人生は取り返しようもないのに。移り変わる心の中で強調されたのは、女性として生きたかった、という彼女の気持ちだ。時代錯誤で、女性の『弱さ』を強調する作劇。男の身勝手を肯定する筋書き。そのくせ、最後はみんな幸せになりましたとさ、と語り任せのハッピーエンドだ。


「君があの作品を好いていたら申し訳ないのだけど、ストーリーにリアリティがなさすぎる。もちろん娯楽作品として楽しむ分には、十分なレベルだと思うけれどね。男勝りな女性が内心では女性らしさとして庇護されることを望んでいる、なんて、ありきたりすぎて食傷気味だ」

「そうかなあ。俺は、もっと普通に生きたかったのに! って受け取ったけどね」

「その受け取り方を否定はしないよ。だけど、現実はそうはいかないだろう?」

「いいじゃん、作り話なんだから」


 イズマはベンチから立ち上がったかと思うと、パーカーをマントのようにひらめかせて礼をした。


「俺たちは架空(フィクション)だ」


 声のトーンが、変わる。


「ありきたり上等。ご都合主義万歳! 物語は、人を幸福にするためにある!」


 青白い街灯の、頼りないスポットライトの下。イズマはゆっくりと足を踏み出した。その一挙手一投足が、ただの公園を舞台へと塗り替える。


「みんな、人生の答えを欲している。この長く苦しい道の果てには光があるのだと思いたい。だから。だからこそ! 幸福な物語が観たいんだ」


 舞台の上で語るイズマが、私を見た。まるで世界に、私と彼しかいないような一瞬の交錯。演じていると分かっていてもなお、人を惹きつけ、魅了する、強い強い引力。

 ああ、そう。()()だ。


「そう思わないか、作家先生」

「…………」


 分かっている。これは嫉妬というやつだ。『さびれた劇場』の『しがない役者』。そう、何となしに見下したイズマが、私にはない引力を持っている。それを屈辱だと感じている。

 本にだって引力はある。本当に読者の心を掴んだ本というのは、寝食を忘れさせ、ページを捲る手を止められなくさせる力がある。周囲の音すら遠ざける強烈な引力だ。

 私の小説には、その力がない。


「私の小説は、そんな大それたものじゃないよ」


 誰かの人生を照らす光になれたなら。そんな気持ちが私にあれば、私の作品ももっと違っていただろうか。


「あんたの小説読んだよ」


 そう言われて、私は身構える。


「どっ……どう、だった?」


 情けないことに、ひどく声が震えていた。けれども、言わずにはいられなかった。感想というのは糧だ。自分が書いたものが、人に届いたかどうか。それは本を介した読者との対話に他ならない。


「報われなくって無駄にリアルで息が詰まった」

「そっ……」


 それがいいんだろう、と喉まで出かかった言葉を飲み下す。いけない、いけない。作品の読み方に作者がケチをつけるなんて、国語の授業じゃないんだから。


「そ、そーぉかあ。君には合わなかったということだね」

 何しろご都合主義に諸手を挙げるイズマである。世の中にはバッドエンドもメリーバッドエンドもありふれている。そういう作品を好む人間もいる。ハッピーエンドがお好みなら、私の小説はさぞつまらなかったろう、うん。


「デビュー作は面白かったけどな」

「ひゅっ」


 喉から変な声が出た。読んだのか。本屋でも古本屋でも見つからないあれを。


「主人公が破天荒でさ。世界にクソッタレ! って思いながら絶対に絶望しないやつ。それで最後はハッピーエンドをもぎ取っただろ? 最高!」


 イズマは大げさに身振り手振りで気持ちを表す。聞いているこちらが恥ずかしくなってくるので勘弁してほしい。あのデビュー作ほど、私にとって黒歴史という言葉が似合うものもない。世間知らずの大学生が、よく知らない社会の荒波に喧嘩を売っていたころ。感情の走るままに書き連ねたあれは、私の書きたい物語とは違っていた。

 だから、私の本を手に取ってくれた誰かへ、私は私が書きたいものを届けた。


「……それは、うれしい。もうあんなものは書けないけど」


 私はきっとあのデビュー作で、私が持つ引力を使い切ってしまった。こういうものを書きたい、という漠然としたイメージばかりで、どんな物語にしたいのかが浮かんでこない。物語の終着点が見えてこない。


「ふーん。じゃあ」


 イズマが身をかがめて、私の顔を覗き込んできた。


「あんた、戯作書いてみないか?」


 なにが『じゃあ』なのか。


「俺、あんたのデビュー作気に入っちゃった。これ、劇にしようぜ」

「嘘だろ」

「ああでも、長いなあ。こんな長いのは実績積んでいかないとなかなか演れない。無名の劇団の劇を四時間も見てくれるお客さんってレアだし」

「あの」

「じゃあ戯作の練習に二、三本短編書くのはどうかな。公演用のオリジナル台本があるとうちも助かるしぃ」

「おい」

「とりあえず一回うちの劇団来てくれよ。たぶんみんな賛成する。明日ヒマ?」


 非常に残念なことにヒマで、私の一瞬の沈黙でイズマはそれを見抜いてしまった。


「決まり!」


 眩しい笑顔で、イズマは言う。

 正直気乗りはしない。けれど一方で、期待している自分もいる。

 私は売れない作家だ。そんな私に、書くことを求める人間がいる。少し、私の理想とは違うけれど。

 それが、嬉しくないはずがないじゃないか。


「……分かったよ。だけど戯作の経験はないから、期待しないでほしい」


 予防線を張る私に、イズマはただにこにこしていた。

 ……あまり、よくない考えだとは思うけれど。

 彼の持つ引力を、私の作品に足し算できる。そうしたらもう一度、私の筆名が世に知られるかもしれない。

 そんな打算が、ないこともなかった。


  *          *          *


 はてさて、しがない役者は、その人生に光を取り戻せるのか。


『つまらなそうな主人公だ』


 まったくその通り。俺は、俺という人間は非常につまらない。救いようがなくネガティブだし、プライドもないし、そのくせ普通の人生を歩む堅実さも持っていないときた。

 だから、演じることにした。役名はイズマ。底抜けに明るくて、前向きで、ちょっと無神経。大した実力もないくせに、小さい劇団でスターを気取ったお調子者。

 けれど時々、どうしようもなく死にたくなる。


『私の小説は、そんな大それたものじゃないよ』


 違うよ、作家先生。

 イズマはあんたのデビュー作が好きだけど、()は、あんたの三作目に救われたんだ。報われなくて、リアリティラインがぎりぎりまで現実に近づけてある、息が詰まりそうな作品。だけど、俺だったら投げ出したいような人生を、あの主人公は生き抜いた。

 俺もそうなりたいって思ったんだ。


「開演だ」

「……私まで緊張してきた」

「あはは」


 なあ、アリサさん。

 俺と(イズマ)。結局表裏だから、どうしようもない凡人だけど。

 うっかり死にぞこなった主人公は、全身全霊で、あんたを世界に見つけさせるからな。

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― 新着の感想 ―
いち物書きとして考えさせられる作品だと思いました。物書きとしては作品を読んでもらえないことは悲しいですし、それを職業としているなら尚の事でしょう。無気力になってしまうのも頷けます。そんな主人公が衝撃的…
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