光の街の罠
男は、自ら選んで闇にいた。光がもたらす希望も、絶望も、もう二度と味わうことのないように。
だが、運命は時として、最も安住を求める者にこそ、過酷な試練を課す。
一枚のメモ。一つの名前。それは、彼が捨てたはずの世界へと繋がる、錆びついた扉の鍵だった。
扉の向こうにあるのは、光の街「クレストリア」。
そして、その光が生み出す、闇よりも深く、冷たい、巨大な陰謀。
彼は、その渦の中心へと、ただ一人で歩みを進める。
それは、英雄の凱旋ではない。断頭台へと向かう罪人の行進にも似て、静かで、そして揺るぎない足取りだった。
彼の戦いは、まだ誰にも知られていない。
この街の霧が晴れる時、彼が立っているのは、瓦礫の上か、それとも夜明けの光の中か。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。
1. 偽りの夜明け
夜明け前の空気は、ダスクウォードとクレストリアの境界で、その質をがらりと変えた。カルデラの底に沈殿していた澱んだ湿気と、錆と欲望の匂いが嘘のように消え、代わりに澄み切った冷気と、消毒されたアスファルトの匂いが鼻をつく。ノクトは、まるで水圧の異なる海域へと泳ぎ出る深海魚のように、慎重にその境界を越えた。
クレストリアの夜明けは、秩序そのものだった。清掃車両が音もなく道路を洗い流し、新聞配達ドローンが青白い光を点滅させながら家々を巡る。早朝出勤と思しき、仕立ての良いコートを着た人々が、無言でエアトラムの停留所へと吸い込まれていく。誰もが、巨大な時計の精密な歯車であるかのように、決められた役割を正確にこなしていた。
だが、ノクトはその完璧すぎる景観の裏に、冷たく無機質な視線を感じていた。建物の角、街灯のポール、ショーウィンドウの奥。あらゆる場所に監視カメラのレンズが光り、市民のすべてを記録している。彼は群衆に紛れ、フードで顔を隠しながら、その無数の視線の死角を縫うように歩いた。それは、かつて「灰の戦争」の最前線で、敵の狙撃手の射線を避けて進んだ時と、どこか似ていた。この光の街もまた、形を変えた戦場なのだ。
レオンのアパートメントは、クレストリア第3地区の、空を突き刺すような高層マンションにあった。白い大理石でできたエントランスでは、武装した警備員が二人、微動だにせず立っている。ノクトは彼らをやり過ごし、通用口へと回った。コンシェルジュに怪訝な顔をされたが、彼は偽造IDカードを見せ、共和国の施設管理局の人間だと名乗った。「定期メンテナンスだ」と短く告げると、男はそれ以上何も聞いてこなかった。この街の人間は、権威の印を前にすると、思考を停止する。
エレベーターで目的の階へ上がり、レオンの部屋の前に立つ。ドアには、治安局が貼った「立入禁止」の封印シール。ノクトは慎重にその一端を剥がすと、特殊な金属製のツールを鍵穴に差し込んだ。ダスクウォードの荒っぽい錠前とは違う、複雑な構造のシリンダー錠だ。彼は息を殺し、指先の鋭敏な感覚だけを頼りに内部のピンを操作していく。彼の耳には、遠い廊下の空調の音、エレベーターの駆動音、そして、この階のどこかの部屋から微かに聞こえるクラシック音楽の旋律までが届いていた。数分の、永遠にも感じられる時間の後、カチリ、と小さな金属音が響いた。
まるで自分の家に入るかのように、彼は静かに室内へと侵入した。
2. ジャーナリストの遺産
部屋の中は、几帳面なジャーナリストの仕事場そのものだった。しかし、その几帳面さは、乱暴な手によって無残に踏みにじられている。治安局の捜索だろう。引き出しは開け放たれ、床には書類が散乱し、いくつかのファイルは明らかに抜き取られていた。
(素人の仕事だ。本当に重要なものは、見つかっていない)
ノクトは直感した。レオンほどの男が、核心的な情報をこんな分かりやすい場所に置くはずがない。彼の執念は、もっと深い場所に隠されているはずだ。
ノクトは、散らかった部屋を注意深く見て回った。壁一面の本棚には膨大な資料や書籍が並んでいる。机の上には、飲みかけで冷え切ったコーヒーカップと、一枚だけ写真立てが置かれていた。屈託なく笑う、若い頃のリナの写真だ。彼の視線が、その写真の上でほんの一瞬だけ、止まった。
彼は、表面的な乱雑さの奥にある、微かな違和感を探し始めた。壁の不自然な継ぎ目、床板の僅かな浮き、本棚に並ぶ本の順番の乱れ。プロの視点は、素人が見逃す細部の矛盾を的確に捉える。やがて、彼は一冊の分厚い古典文学全集に目を留めた。旧ゾル帝国時代に出版された、古い装丁の本だ。その一冊だけ、背表紙に微かな傷がついている。本棚の他の本が五十音順に並べられているのに、その一冊だけが、まるで作者の名前を間違えたかのように、不自然な場所に置かれていた。
ノクトがその本を抜き取ると、ずしりとした不自然な重みがあった。ページをくり抜いた内側には、一枚の黒いデータディスクが収められていた。レオンが遺した、最後の切り札だ。そして、本の見返し部分には、彼の震えるような筆跡でこう記されている。
『我が魂の光。最初の言葉、最初の行』
これが、ディスクを解くためのパスワードだろう。ノクトはディスクを慎重にポケットにしまい、部屋を元通りに見せかけるための偽装工作を始めた。自分がここに侵入した痕跡を、完全に消し去るために。
その時だった。
彼の鋭敏な聴覚が、廊下の向こうから聞こえる微かな衣擦れの音を捉えた。
(…尾行か?)
鉄槌党の追手か、それとも別の誰かか。ノクトは動きを止め、息を殺して気配を探る。だが、その気配は殺意というより、ためらいと不安に満ちているように感じられた。彼は一度やり過ごし、再び作業に集中した。だが、数分後、また同じような気配を感じる。まるで、ドアの前を行ったり来たりしているかのようだ。
(素人か…?だが、なぜここに)
警戒を最大限に高めながら、彼は作業を終えた。
3. 白昼の罠
ノクトは再び音もなく部屋を出て、慎重に階下へと向かった。マンションのエントランスを出て、人通りのある大通りへ。背後の気配は、まだ続いている。距離を取りながら、しかし必死についてくる、素人同然の尾行だ。
敵の正体を探るため、ノクトはわざと人通りの少ない路地へと進路を変えた。大通りから一本入っただけで、クレストリアの華やかな喧騒は嘘のように遠のき、古い石畳と建物の壁に囲まれた、静かな空間が広がっている。彼はおびき寄せるように、ゆっくりと歩を進めた。
角を曲がった瞬間、ノクトは足を止め、背後を振り返った。
物陰から、案の定、コートの裾を握りしめたリナが姿を現す。彼女はノクトに見つかったことに気づき、びくりと肩を震わせた。その瞳は、恐怖と、何かを訴えたいという切実な光で揺れていた。
「なぜ来た」
ノクトの低い声には、怒りと呆れが滲んでいた。「来るなと言ったはずだ」
「ごめんなさい…。でも、あなたを一人にはしておけなくて…兄の部屋に、何か私にしか分からないものがあるかもしれないって…」
リナが必死に言い訳をしようとした、その瞬間だった。
甲高いスキール音と共に、一台の黒塗りの大型車両が、路地の入り口を塞ぐようにして猛スピードで現れた。歩道との境界を無視し、ガーデンテーブルを派手に撥ね飛ばしながら、二人へと突っ込んでくる。
「危ない!」
ノクトは反射的にリナの体を突き飛ばし、自らは身を翻して車両をかわす。車は急停車し、後部ドアから屈強な男たちが三人、同時に飛び出してきた。特徴のない黒いスーツだが、その動きは紛れもなく『鉄槌党』の実行部隊のものだった。
クレストリアの白昼、近隣のカフェから悲鳴が上がる。ノクトは銃を抜けない。ここで派手な戦闘を起こせば、治安局が瞬く間に飛んでくる。それは、最悪のシナリオだった。
「リナ、逃げろ!」
彼は叫びながら、徒手空拳で男たちに向かっていく。一人の顎に強烈な掌底を叩き込み、もう一人の蹴りを捌いて体勢を崩させる。彼の動きは、最小限の力で最大限の効果を生む、洗練された殺人術だ。
だが、敵の目的はノクトの足止めだった。
残る一人が、ノクトが突き飛ばし、まだ状況を理解できずにいるリナの元へ一直線に駆け寄る。
「やめて!」
リナの悲鳴。男が彼女の腕を掴んだのを見て、ノクトの動きが一瞬、ほんのわずかに乱れた。守るべき存在がいるという事実は、熟練した戦士にとって、時に致命的な足枷となる。
その隙を、敵は見逃さなかった。一人がノクトの脇腹に強烈な打撃を加え、もう一人が特殊な警棒で彼の肩を殴りつける。痺れるような痛みが走り、一瞬、呼吸が止まる。
その間に、リナは男に羽交い締めにされ、手にしたスタンガンを首筋に押し当てられた。短い放電音と、青白い火花。リナは小さく痙攣し、ぐったりと意識を失った。
「しまっ…!」
ノクトが駆け寄ろうとするも、二人の男に阻まれる。リナの体はゴミ袋のように軽々と担ぎ上げられ、黒塗りの車両の後部座席へと放り込まれた。
ドアが閉まり、エンジンが咆哮を上げる。
「待て!」
ノクトは男たちを振り払い、走り出す車両に追いつこうとアスファルトを蹴った。だが、加速していく車との距離は無情にも開いていく。やがて、黒い車体は大通りへと消えていった。
路上には、騒然とする人々と、リナが落としたのであろう、小さなシルクのスカーフだけが残されていた。
ノクトは荒い息をつきながら、そのスカーフを拾い上げた。指先が、微かに震えている。
4. 帰還不能点
これまで、彼の戦いは常に孤独だった。それは自ら選んだ道であり、他者を巻き込まないための、彼なりの流儀だった。失うものは、とうの昔に全て失ったはずだった。
だが、手のひらに残るスカーフの柔らかな感触が、その空虚な確信を嘲笑う。
目の前で奪われた、か弱い光。守ると約束したわけでもない。だが、守らなければならなかった。己の判断の甘さが、この結果を招いた。その事実は、どんな傷の痛みよりも深く、彼の心を抉った。
冷静な狩人の仮面が、音を立てて砕け散る。
バーテンダーの物憂げな瞳が、凍てつくような怒りの炎に焼き尽くされる。
この日から、彼の戦いは目的を変えた。
世界の危機など、どうでもいい。
国家の陰謀など、知ったことか。
ただ、あの少女を取り戻す。
そのためならば、彼は喜んで悪魔にでもなろう。
ノクトはスカーフを強く握りしめ、去っていった車両の方向を睨みつけた。その瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
レンブラの霧は、今、復讐者の誕生を静かに見届けていた。
帰還不能点。
いかなる旅にも、その境界線は存在する。一度越えてしまえば、もう二度と元の場所へは戻れない、決意の境界線。
男にとって、この白昼の路地裏が、それだった。
彼は、少女を攫われたのではない。
己のプライドを、過去の誓いを、そして、かろうじて保っていた人間性のかけらを、奪われたのだ。
彼がこれから進むのは、血と硝煙にまみれた修羅の道。その先に何が待っていようと、彼はもう足を止めることはない。
手に入れたデータディスクは、国家を揺るガす陰謀の鍵。
そして、握りしめたスカーフは、個人的な戦争の始まりを告げる血判状。
二つの宿命をその身に刻み、男は再び、奈落の底へと帰っていく。
より深く、より暗い、戦いの舞台へ。