表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

クレストリアの鷲、奈落の蛇

影に生きる者にとって、光は安息ではない。それは、己の輪郭を白日の下に晒し、隠してきた傷を暴き出す、無慈悲な烙印だ。

闇の中では、誰もが等しく輪郭を失う。過去も、罪も、後悔も、夜の静寂と霧の中へと溶け込んでいく。だからこそ、男は闇を選んだ。光が届かぬカルデラの底、ダスクウォードの片隅を、自らの墓所と定めた。

だが、運命は時として、最も安住を求める者にこそ、過酷な試練を課す。

一枚のメモ。一つの名前。それは、彼が捨てたはずの世界へと繋がる、錆びついた扉の鍵だった。

扉の向こうにあるのは、光の街「クレストリア」。

そして、その光が生み出す、闇よりも深く、冷たい、巨大な陰謀。

男は、再び光の中へ足を踏み入れることを決意する。

それは、誰かを救うためではない。ましてや、正義のためなどでは断じてない。

ただ、己のルールを破り、その領域を侵犯した者たちに、報いを受けさせるため。

そして、闇に生きる者が光に挑むという行為が、いかに無謀で、愚かしい挑戦であるかを、身をもって証明するために。

1. 鉄の檻

サーチライトの暴力的な光が、倉庫内の闇を無慈悲に切り裂いた。埃が光の筋となって乱舞し、ノクトの視界を奪う。鼓膜を打つのは、拡声器を通した歪んだ声と、侵入してくる男たちのブーツがコンクリートの床を擦る、不協和音のような足音だ。数は、ざっと八人。四方からの光に照らされ、逃げ場はない。完全に包囲され、出口は外から固くロックされている。

絶体絶命。それが、この状況を言い表す、陳腐でありきたりな言葉だった。

「撃て!蜂の巣にしてしまえ!」

号令と共に、銃声の嵐が倉庫内を吹き荒れた。異なる銃種から放たれる乾いた炸裂音が、コンクリートの壁に幾重にも反響し、地獄のオーケストラを奏でる。ノクトが身を隠す巨大な木箱に、鉛の弾丸が次々と突き刺さり、ささくれ立った木屑が彼の頬を熱く掠めた。

(統率が取れていない。恐怖に任せた威嚇射撃だ。だが、中にいる何人かは元軍人崩れか…足の運びが違う)

ノクトの思考は、爆音の中ですら氷のように冷静だった。彼は一瞬で敵の練度と配置を分析すると、懐の拳銃を抜いた。サプレッサーは付けていない。この状況では隠密行動に意味はなく、むしろ轟音が敵の聴覚を麻痺させ、連携を乱す。

彼は木箱の影から、ほんの一瞬だけ身を乗り出した。狙うのは敵ではない。頭上の鉄骨に取り付けられた、忌々しいサーチライトだ。パン、パン、と二発。銃声が他の音にかき消される中、ガラスの砕ける鋭い音と共に光源の一つが消え、倉庫内に深い影がまだらに戻った。

敵が一瞬ひるむ。そのコンマ数秒の隙に、ノクトは床を転がり、別のコンテナの陰へと滑り込んだ。

「どこだ!奴はどこへ消えた!」

リーダー格の男が怒鳴る。その声の方向から、敵の司令塔の位置を特定する。

「落ち着け!奴は手負いの鼠だ!囲んで潰せ!」

闇に目が慣れていない敵兵たちは、互いに顔を見合わせ、銃口を闇雲に彷徨わせている。ノクトはその混乱を、闇の中から静かに観察していた。彼は闇に潜む獣だった。そしてここは、彼の狩り場だ。

近くの影が動いた。銃口を向けてくる男。だが、ノクトの方が早い。男が引き金を引くよりも早く、彼の拳銃が火を噴いた。一発。狙いは正確に、敵の胸の中心。銃弾は防弾ベストのセラミックプレートを砕き、その衝撃が男の呼吸を止め、内臓を揺さぶる。男は声もなく崩れ落ち、その命が尽きるまでの数秒間、ただ己の身に起きたことを理解できずに喘いだ。

ノクトはすぐさま移動する。同じ場所にとどまるのは、死を意味する。倉庫内に乱立するコンテナや、埃をかぶった古い機械設備が、絶好の遮蔽物となり、立体的な迷路を形成していた。彼はその地形を、まるで自分の手足のように完全に把握し、敵の死角を縫うように移動した。銃声の反響、薬莢の落ちる微かな音、敵の荒い呼吸、汗と恐怖の匂い。彼の五感は、アドレナリンによって極限まで研ぎ澄まされ、ありとあらゆる情報を吸収していく。

二人一組ツーマンセルで動け!側面を取られるな!」

リーダー格の男が指示を飛ばす。敵は二人組で行動を開始した。セオリー通りの動きだが、それはノクトにとって、次の一手を読みやすいということに他ならなかった。

物陰から飛び出してきた二人組。ノクトはためらわず、その足元を撃った。弾丸がコンクリートの床を削り、跳弾が敵の体勢を崩す。そのわずか一秒の隙を突き、ノクトは距離を詰め、一人の銃を持つ腕を掴んで捻り上げた。肩関節が、鈍い音を立ててありえない方向に曲がる。男が苦痛に叫ぶのを盾にしながら、もう一人の喉元に、空いた手でナイフを突き立てた。頸動脈を断たれた男は、噴き出す自らの血に溺れながら、驚愕の表情でノクトを見つめ、崩れ落ちた。

熱い血が噴き出し、ノクトの手にまとわりつく。彼は盾にした男を蹴り飛ばすと、再び闇の中へと後退した。弾倉を抜き放ち、コートのポケットから予備と交換する。その冷静で機械的な動作の最中も、彼の思考は止まらない。

(残り五人。リーダー格の男は後方にいる。こちらの弾は残り少ない。一発も無駄にはできない)

恐怖に駆られた敵は、やみくもに弾をばらまき始めた。それが命取りだった。

ノクトは倉庫の壁際にある古い制御盤に目をつけた。そこから伸びる錆びついた鎖が、頭上のコンテナクレーンに繋がっている。彼は最後の弾丸を、その制御盤に精密に撃ち込んだ。ショートした激しい火花が散り、古びたギアが断末魔のような悲鳴を上げる。

「何だ!?」

敵が空を見上げた瞬間、吊り下げられていた巨大な鉄の塊が、彼らの頭上へと落下した。轟音と地響き。断末魔の叫びは、鉄と肉が潰れる不快な音にかき消された。

倉庫に、静寂が戻った。残るは、リーダー格の男一人。

「化け物が…」

男は後退りながら、震える手で銃を構え直す。ノクトは硝煙の匂いが立ち込める闇の中から、静かに姿を現した。左腕から、じわりと血が滲んでいる。敵の放った流れ弾が掠めたのだ。

「レオンはどこだ」

ノクトの低い声が、静まり返った倉庫に響いた。

「知るか!お前もここで死ね!」

男が引き金を引く。だが、弾倉は空だった。カチリ、と虚しい撃鉄の音が響くだけ。

絶望に染まった男の顔を、ノクトは無感情に見つめながら、ゆっくりと距離を詰めた。

「喋れ。あるいは、死ぬか。選べ」

その声には、一切の慈悲はなかった。

数分後、ノクトは顎を砕かれ、床に転がって呻く男を後にした。「レオンはクレストリアの“お客様”に引き渡された。それ以上は知らない」という情報を引き出した後で。

彼は裏手の通用口の、内側からしか開かない古いロックを外し、再び霧の街へと姿を消した。左腕に走る熱い痛みが、この夜の戦いが現実であったことを、彼に告げていた。

2. 帰還と分析

ダスクウォードの夜は、まだ終わらない。ノクトは裏路地の闇に身を潜めながら、遠巻きに第7倉庫街に集結する治安局の車両を眺めていた。赤い警告灯が、濃い霧の中でぼんやりと滲んでいる。彼らは死体の数を数え、薬莢を拾い集め、そして正体不明の襲撃者の痕跡を探すだろう。だが、何も見つかりはしない。ノクトは、痕跡を残さない術を熟知していた。

彼は非常線を避け、迷路のような路地を、まるで巣穴に戻る手負いの獣のように進んでいく。道端では、酔いつぶれた男が眠り、暗がりでは非合法な取引が行われている。それらは、この街のありふれた日常であり、ノクトはその風景の一部として、誰の注意も引くことなく通り過ぎていく。

『Stray Cat』の重いドアを閉めると、外界の喧騒は嘘のように遠のいた。店の中は、彼が出て行った時と寸分違わず、静寂を保っている。ノクトは私室へ直行し、血で汚れたシャツを脱ぎ捨てた。

左腕の傷は、思ったよりも深い。彼は棚の奥から救急キットを取り出すと、手慣れた様子で傷口を消毒し、縫合針と糸で自ら傷を縫い始めた。鏡に映る自分の顔には、痛みを感じているような素振りは微塵もない。それは、彼が「灰の戦争」の地獄の中で、嫌というほど繰り返してきた儀式だった。古傷の上に、また一つ、新しい傷が刻まれる。それだけのことだ。

傷の手当てを終えると、彼は棚から取り出したウイスキーをグラスに注ぎ、一気に呷った。琥珀色の液体が、焼けるように喉を通り過ぎていく。彼はテーブルの上に、戦利品を並べた。焼け焦げた紙片と、リーダー格の男から奪い取った通信機。そして、砕かれた顎の男から聞き出した「クレストリアのお客様」という言葉。

彼は、焼け焦げたメモに再び目をやった。

インクが滲み、ほとんど判読できない。だが、彼の目は、そこに残されたいくつかのキーワードをはっきりと捉えていた。

『数列:72.18.04』

『ウロボロスの蛇は、鷲の巣で孵る』

『クレストリア…』

彼はグラスを片手に、思考の海へと深く潜っていく。

「ウロボロスの蛇」。東の超大国「ウロボロス連合」を指す隠語だろう。裏社会ではよく使われる符牒だ。彼らが、共和国の裏社会に兵器を横流ししているという噂は、以前からあった。

「クレストリア」。権力者たちの住まう光の街。レオンが引き渡されたという「お客様」は、そこにいる。

問題は、間の二つだ。「数列」。日付か?暗号キーか?それとも…座標か。今の段階では判断がつかない。

そして、「鷲の巣」。「鷲」は、かつて大陸に覇を唱えた旧ゾル帝国の国章だった。その紋章を、ノクトはかつて自らの軍服につけていた。

「鷲の巣」…その言葉が、ノクトの脳裏に、忘れかけていたはずの過去の記憶を呼び覚ます。「灰の戦争」末期、帝国軍の諜報部隊が主導した、敵後方での拠点構築作戦。その作戦名が、『鷲の巣』だった。作戦は失敗し、参加した部隊は壊滅、記録もすべて焼却されたはずだ。だが、もし生き残りがいたとしたら?もし、その者たちが帝国の復活を夢見て、水面下で活動を続けていたとしたら?

ウロボロス連合と、旧帝国派の残党。二つの勢力が、クレストリァを舞台に何かを企んでいる。そして、ジャーナリストのレオンは、その核心に触れてしまったのだ。これは、単なる裏社会の抗争ではない。国家の存亡に関わる、巨大な陰謀だ。

3. 次なる一手

ダスクウォードの情報網だけでは、これ以上は追えない。フィンに通信記録を解析させてはいるが、それだけでは不十分だ。光の街に自ら乗り込み、レオンが遺したさらなる情報を手に入れる必要がある。彼の部屋には、まだ何か残っているはずだ。

ノクトは受話器を取り、古い番号簿をめくった。クレストリアに住む人間など、彼の知人にはほとんどいない。だが、一人だけ、例外がいた。依頼人、リナだ。

電話は、数回のコールの後につながった。

「…もしもし」

受話器の向こうから、少女の不安げな声が聞こえる。

「俺だ」

ノクトが短く告げると、彼女が息を呑む気配がした。

「…あなた、なの…?無事だったの?」

その声には、安堵の色が滲んでいた。だが、ノクトは感傷に付き合うつもりはなかった。

「質問がある。お前の兄、レオンの部屋はどこだ。彼が遺した資料が、他にあるはずだ」

「クレストリアの…第3地区にあるアパートです。でも、部屋は治安局に封鎖されて…」

「鍵はかかっていても、扉は開く」

ノクトはこともなげに言った。「俺が行く。お前はそこにいろ。いいな」

「待って!私も…」

リナが言い募ろうとするのを遮り、ノクトは最後通告のように、低い声で告げた。

「来るな。足手まといだ」

ブツリ、と一方的に通信は切れた。彼女がこの件にこれ以上深入りすれば、間違いなく命を落とす。それは、ノクトがこの依頼に関わった時点で、避けなければならない結末だった。これは、もはや彼女の兄を探すという個人的な依頼ではない。プロとしての、後始末だ。

ノクトは、クレストリアへ潜入するための準備を始めた。埃をかぶったスーツケースから、いくつかの偽造IDカードを取り出し、その中から最も今の状況に適したものを選ぶ。服装も、ダスクウォードの闇に紛れるための黒いコートではなく、クレストリアの人混みに溶け込むための、ごくありふれたグレーのジャケットに着替えた。腰のホルスターを慎重に隠し、潜入用のツールキットを内ポケットに忍ばせる。

準備を終えた彼は、店のカウンターに一人立った。客のいないバーは、墓場のように静かだ。彼は棚から一本のボトルを取り出し、自分のためにグラスを注いだ。それは、店で一番高価な、そして彼自身が最も好む、旧帝国時代に蒸留されたシングルモルトだった。

琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れている。その向こうに、これからの戦いが見えるようだった。監視の目、腐敗した権力、そして見えない敵。これまでとは比較にならないほど、危険で、複雑な戦場。

彼はグラスを空にし、静かにカウンターに置いた。

覚悟は、とうにできている。失うものは、何もないはずだった。

彼は『Stray Cat』のドアを開け、夜明け前の、まだ霧が支配するレンブラの街へと、静かに踏み出していった。

男は、自ら選んで闇にいた。光がもたらす希望も、絶望も、もう二度と味わうことのないように。

だが、運命は彼を再び光の下へと引きずり出した。彼が最も嫌う、偽りに満ちた輝きの中へ。

クレストリア。その街は、彼の過去と未来が交錯する場所。

かつて彼が守ろうとした帝国の栄光の残骸と、今まさに国を蝕もうとしている巨大な陰謀が、そこでは渦を巻いている。

彼は、その渦の中心へと、ただ一人で歩みを進める。

それは、英雄の凱旋ではない。断頭台へと向かう罪人の行進にも似て、静かで、そして揺るぎない足取りだった。

彼の戦いは、まだ誰にも知られていない。

この街の霧が晴れる時、彼が立っているのは、瓦礫の上か、それとも夜明けの光の中か。

その答えを知る者は、まだ誰もいない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ