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錆びた街のレクイエム

この街では、真実はいつも霧の向こうにある。

大陸中央部、巨大なカルデラの底に沈む都市、レンブラ。その名は古い言葉で「影」を意味するという。かつて大陸に覇を唱えたゾル帝国の壮麗な首都は、「灰の戦争」を経て、今はアルドリア共和国の首都として、敗戦の記憶と錆びついた平和の中にあった。

街は二つの顔を持つ。

カルデラの縁に広がる光の街「クレストリア」。そして、常に影が落ちる奈落の底「ダスクウォード」。

富と権力が天上の光を浴びる一方で、忘れられた者たちは澱んだ闇の中で息を潜める。

そして、その境界を曖昧にするかのように、レンブラには一年を通して深い霧が立ち込める。霧は過去を覆い隠し、人々の輪郭をぼやかし、罪の匂いさえも和らげる。誰もが、何かを忘れるために、あるいは何かから隠れるために、この霧深い街へと流れ着く。

だが、どんなに濃い霧も、硝煙の匂いだけは隠しきれない。

そして、血の記憶だけは、決して洗い流すことができないのだ。

今宵もまた、一人の男が、忘れようとした過去の亡霊と出会うことから、すべては始まる。

霧は、都市レンブラの古い傷を隠す、気休めの包帯のようだった。

大陸中央部に広がるこの国、アルドリア共和国の首都は、巨大なカルデラの底にその身を横たえている。年間を通して晴れる日は少なく、とりわけ夜は、湿った空気が濃い霧となって街のすべてを覆い尽くした。

カルデラのさらに底、常に影が落ちる低地エリアは「ダスクウォード」と呼ばれている。そこは法の光が届かぬ無法地帯であり、共和国の輝かしい再建から取り残された者たちが流れ着く終着点だった。赤褐色の石材で組まれた古い集合住宅が、無秩序に折り重なるように密集し、その間を迷路のような路地裏が縫っている。錆びついた外階段、複雑に絡み合う配管、そして夜空を覆い隠す無数の電線。それらすべてが、霧に濡れて鈍い光を放っていた。

その一角に、バー『Stray Cat』はあった。

煤けたレンガの壁に、猫のシルエットをかたどった小さなネオンサインが、ぼんやりと青白い光を放つだけ。看板らしい看板もなく、知らなければ通り過ぎてしまう。そこは隠れ家というよりは、忘れられた場所、という方がしっくりきた。

店の主の名は、ノクト。

彼は黙って磨き上げられたカウンターの内側に立ち、一枚の乾いた布で、手元のグラスを繰り返し磨いていた。白いシャツに黒いベスト。その動きには一切の無駄がなく、まるでそれ自体が何かの儀式であるかのように、静謐な時間が流れていく。琥珀色の液体の満たされたボトルが並ぶ棚、壁にかけられた古びた風景画、そして蓄音機から物憂げにこぼれる、ジャズに似た古の旋律。この店にあるのは、それだけだった。

客は三人。それぞれの孤独を、酒という名の外套で覆っている。

カウンターの隅で背中を丸めるのは、指の節くれだった工員だ。油の染みついた作業着と、爪の間にこびりついた黒い汚れが、彼の無口な一日を物語っていた。その隣では、フードを目深にかぶった痩せた男が、グラスの中身をちびちびと舐めながら、神経質そうに時折視線を彷徨わせる。情報の売人か、それとも何かから追われているのか、ノクトは詮索しない。そして少し離れた席には、派手な化粧の下に夜の疲れを滲ませた、赤いドレスの女が煙草をくゆらせている。

誰もが、互いの人生に踏み込むことなく、ただ静かにグラスと向き合っている。ここは、そういう場所だった。

「また一人、消えたらしいぜ」

沈黙を破ったのは、油染みの作業着の工員だった。彼はグラスの中の氷をカラン、と弄びながら、低い声で呟いた。

「今度は『鉄槌党』の縄張りだとか。あの辺に物見遊山で首を突っ込むなんざ、命知らずか、よほどの馬鹿だ」

『鉄槌党』。ダスクウォードで急速に力をつけている、もっとも凶暴な暴力組織だ。

「正義感の強いジャーナリストだった、って話よ」

赤いドレスの女が、紫色の唇から細い煙を吐き出しながら、つまらなそうに言った。「正義なんて、この街じゃ一番高くつく嗜好品なのにね。味わう前に、命を奪われる」

ノクトは聞いているのかいないのか、表情一つ変えずに磨き上げたグラスを棚に戻す。この街では、人が一人消えることなど、水たまりに落ちた雨粒ほどの出来事でしかない。日常の風景だ。彼が関わるべきことではない。

その時、ドアベルがちりん、と場違いに乾いた音を立てた。

入ってきた女に、店の客たちの視線が一瞬だけ、好奇と警戒の色を帯びて集まった。

上質な生地のコートは、ダスクウォードの湿った空気にはあまりに清潔すぎた。歳の頃は二十代前半。恐怖と、それを必死に押し殺そうとする決意をないまぜにしたような大きな瞳で店内を見回し、やがてカウンターのノクトへと、おずおずと歩み寄った。

「あなたが、ここのマスター?」

声は、雨に濡れた鈴のように震えていた。

ノクトは無言で頷く。値踏みするような視線が、コートの仕立ての良さから、震える指先までをなぞった。クレストリアの住人だろう。光の街の人間が、こんな奈落の底に何の用だ。

女は意を決したようにバッグから一枚の写真を、震える手でカウンターに置いた。少し古びた、笑顔の若い男の写真だ。

「兄を探しています。名前はレオン。ジャーナリストです」

女――リナと名乗った――の話は、先ほどの客たちの噂をなぞっていた。兄のレオンは『鉄槌党』の不正、特にその急な資金源について追っていたらしい。三日前に「核心に近づいた」という連絡を最後に、消息を絶ったという。

「人探しなら、クレストリアの治安局へ」

ノクトの声は、店の氷のように低く、冷たかった。

「行きました!でも、まともに取り合ってもらえませんでした…。ダスクウォードのことは管轄が違うと、そう言われて…」

リナは唇を噛みしめ、今度は分厚い封筒を写真の隣に滑らせた。「噂で聞きました。この店のマスターは、ただのバーテンダーではないと。これは、手付金です。足りなければ、もっと用意します。だから…」

「ここは探偵事務所じゃない」

ノクトはリナの目を見ずに、きっぱりと言い放った。関わる気はない。面倒はごめんだ。それが彼のルールだった。

絶望が、リナの顔を覆った。彼女は俯き、消え入りそうな声で呟く。

「兄は…馬鹿なんです。この街にも、まだ正義はあるはずだって、信じていました。どんな闇の中にも、小さな光はあるはずだって…」

その言葉が、ノクトの心の奥底にある、凍てついた何かに微かなひびを入れた。

――正義。光。

脳裏に、雪と硝煙の匂いが一瞬だけ蘇る。「灰の戦争」の凍てつく雪原。帝国の紋章を胸に、正義を信じて戦った。仲間を失い、すべてを失い、最後に残ったのは、この空っぽの自分だけだ。

ノクトの指が、カウンターの下で一瞬だけ固く握りしめられたのを、リナは見逃さなかった。だが、彼の表情は石のように固いままだった。

やがてリナは諦めたように立ち上がり、深々と頭を下げた。

「…お邪魔しました」

写真と封筒は、カウンターに置かれたまま。彼女は力なく店を出ていった。ドアベルの音が、やけに悲しく響いた。

数時間が過ぎ、工員も、フードの男も、赤いドレスの女も、それぞれの夜へと帰っていった。店は完全な静寂に包まれた。

ノクトは一人、カウンターに残された写真と、その傍らの分厚い封筒を無言で見下ろしていた。金には興味がない。だが、写真の男の、あまりに無防備な笑顔が、そして妹の瞳の奥にあった絶望の色が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。あの瞳は、かつての自分が見捨てた誰かの瞳と、よく似ていた。

彼はゆっくりと封筒を押しやり、写真だけを手に取った。

そして、バーの奥にある私室へと入る。

部屋は簡素で、ベッドと小さなテーブルがあるだけだ。壁にはレンブラの詳細な地図が貼られ、無数の書き込みがされている。テーブルの上には、手入れの行き届いた分解状態の拳銃と、鈍い光を放つコンバットナイフが、まるで外科医の手術道具のように整然と並べられていた。そこはバーのマスターの部屋ではなく、完璧に準備された狩人の仕事場だった。

ノクトは写真をテーブルに置くと、壁にかけた黒のロングコートを羽織った。ホルスターに収めた重量感のある拳銃の感触を確かめる。

鏡に映った自分の顔には、もはや物静かなバーテンダーの面影はなかった。

あるのは、獲物を見据える夜の獣の、冷たく研ぎ澄まされた瞳だけ。

彼は店の裏口から、音もなく霧の中へ滑り出した。

まず向かったのは、ジャンクション(中央貨物駅)に隣接する「蒸留地区」。密造酒の甘ったるい匂いと、大型換気扇から吐き出される蒸気が混じり合う一角だ。その地下にある酒場『ラストドロップ』に、ノクトが求める情報屋はいた。

男の名はフィン。痩せこけた体に、爬虫類を思わせるぎょろりとした目が特徴だ。彼はノクトの姿を認めると、嫌そうに顔をしかめた。

「…何の用だ、亡霊」

フィンは「灰の戦争」で死んだはずの部隊の生き残りであるノクトを、そう呼んでいた。

ノクトは答えず、レオンの写真と、帝国時代の古い硬貨を一枚、カウンターに滑らせた。それは、二人の間にだけ通用する、血と裏切りで結ばれた契約の合図だった。

フィンは硬貨を一瞥し、ため息をついた。

「『鉄槌党』だろ。奴ら、最近妙に羽振りがいい。東の『ウロボロス連合』から流れてきた新しい“玩具”を手に入れたらしい。このジャーナリストは、その取引現場を嗅ぎつけちまったのさ」

「場所は」

「港湾区の第7倉庫。だが、無駄足だぞ、ノクト。そこは三日前に連中が“大掃除”をした後だ。血の匂いすら残っちゃいないだろうさ」

港湾区の第7倉庫街は、霧がとりわけ濃い場所だった。海の塩気と鉄錆の匂いが、ノクトの鼻をつく。巨大なクレーンが、霧の中に古代生物の骸のように静まり返っている。

フィンの言う通り、倉庫の周りには人っ子一人いない。だが、ノクトの感覚は、闇の中に潜む複数の気配を捉えていた。見張りだ。息を殺し、獲物を待つ訓練を受けている。

ノクトは身をかがめ、コンテナの影から影へと、まるで黒豹のように移動した。

最初の見張りは、倉庫の死角で煙草を吸っていた。ノクトはその背後に音もなく忍び寄り、男が煙を吐き出す瞬間、左腕で口を塞ぎ、右肘を首筋の急所に的確に叩き込んだ。男は声も上げられず、崩れ落ちる。

二人目は、隣接する建物の屋上。ライフルを構えている。ノクトは足元の空き瓶を拾うと、計算した角度で反対方向のコンテナに投げつけた。ガシャン、と音が響く。見張りがそちらに気を取られた一瞬、ノクトは闇から駆け出し、壁面の配管を掴んで一気に屋上へと駆け上がった。男が振り返った時には、すでにノゲトのナイフの柄が、彼のこめかみにめり込んでいた。

倉庫の分厚い鉄の扉には、新しい錠前がかかっている。ノクトはコートの内側から取り出した細い金属製のツールを鍵穴に差し込み、指先の鋭敏な感覚だけを頼りに内部のピンを操作していく。数秒の沈黙の後、カチリ、と小さな金属音が響いた。

倉庫の中は、もぬけの殻だった。しかし、床には広範囲にわたって、何かを洗い流したような不自然なシミが残っている。そして、空気には微かな薬品の匂い。血の痕跡を消すために使われるものだ。

ノクトは携帯式の微光ライトで床を照らしながら、慎重に進む。

すると、大型木箱の陰に、何かを踏み潰されたような痕跡を見つけた。壊れたカメラのレンズの破片と、焼け焦げたノートの切れ端だ。

彼はその紙片を拾い上げる。そこには、レオンの震えるような筆跡で、いくつかの単語と数列が記されていた。

『数列:72.18.04』

『ウロボロスの蛇は、鷲の巣で孵る』

『クレストリア…』

クレストリア。光のエリア。権力者たちの街。

ウロボロス。東の超大国。

ジャーナリストのレオンは、単なる暴力組織の不正ではなく、この国の根幹を揺るがす、巨大な陰謀の尻尾を掴んでしまったのだ。

ノクトがその事実に気づいた、その瞬間。

ガシャアン!と凄まじい音を立てて、彼が入ってきた倉庫の扉が外からロックされた。

次の瞬間、倉庫の四方の壁にある高窓が一斉に破られ、外から強力なサーチライトの光が何本も差し込んでくる。視界を奪われ、目が眩む。

「そこにいるのは分かっているぞ、帝国の亡霊!」

拡声器を通した、歪んだ声が響き渡った。

ライトの光の中、複数の人影が、銃を構えながらゆっくりと倉庫の中へ入ってくるのが見えた。

完全に、包囲されていた。

ノクトは静かに懐の拳銃に手をかけ、闇よりも深い影の中へと身を滑り込ませた。

狩りの時間が、始まる。


拡声器を通した、歪んだ声が響き渡った。

「そこにいるのは分かっているぞ、帝国の亡霊!貴様の首には、党から高額の懸賞金が出ている!生かして捕らえろ!だが、抵抗するなら躊躇うな!『灰の戦争』の悪夢を、ここで終わらせるんだ!」

リーダー格の男の、憎悪とわずかな恐怖が入り混じった声。

ノクトは、その声に聞き覚えはなかった。だが、向けられる感情には覚えがあった。それは、忘れられたはずの過去から伸びてくる、怨嗟の鎖だ。

サーチライトの光が、まるで舞台の幕開けの合図のように彼を照らし出す。レンブラの夜が、また一人、役者を求めている。演目は復讐か、それとも贖罪か。

ノクトは静かに懐の拳銃に手をかけた。熱も冷気も感じない、ただ無機質な鋼鉄の感触。彼の心は、嵐の前の海のように静まり返っていた。

闇よりも深い影の中へとその身を滑り込ませながら、彼はただ一つ、事実を認識する。

――狩りの時間が、始まった。

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