9:幼馴染の女(1)
結局、改装されたラウンジは一度も使われる事なく、アンリエッタはタウンハウスへと居を移した。
これから始まる社交シーズンを彼女はこの邸宅で過ごすことになる。
「さあ、ついたぞ」
クロードにエスコートされ、馬車を降りたアンリエッタは目の前に建つ邸宅を見て感嘆の息を漏らした。
「わぁ……!」
こじんまりとしているが、手入れの行き届いた庭と小さな噴水。シンプルだけれども可愛らしいデザインの外観に、たくさんある大きな窓。そして何より、どこか懐かしい雰囲気を感じるコンサバトリー。
どれもアンリエッタの好みのど真ん中をついている。
アンリエッタはキラキラと目を輝かせた。
「どうだ?アンリエッタ。気に入ったか?」
「……ハッ!しまった!」
「全部、君好みだろう?」
「……うぅぅ」
アンリエッタの反応に手応えを感じたクロードは、ニヤニヤとした笑みを浮かべて尋ねてくる。
まるでお前のことなど全てお見通しだ、とでも言いたげな表情だ。
(悔しい)
悔しい。だが仕方がない。今日は生憎の曇天で、先程までの気分は最悪だったのに、この邸宅のせいで一瞬にして最高の気分になってしまったのは事実だ。
心の底から気に入ったものを気に入らないと言えるほど器用じゃないアンリエッタは、フンッとクロードに背を向けつつも、小さな声で「とても気に入ったわ、ありがとう」と返した。
まさか、お礼を言われると思っていなかったクロードは、「気に入ってもらえたなら、よかった」と言いつつ、彼女から目を逸らした。
二人して赤面しているのに、互いに相手がどんな表情をしているのか見えていない。
なんと馬鹿馬鹿しいことか。
ニコルとミゲルは顔を見合わせ、肩をすくめた。
「ニコルさん」
「はい、なんでしょうか」
「なんていうか、一生やってろって感じですね」
「そうですね。ほんと、こんな感じで大丈夫かしら……」
知る人が見るとただのバカップルだが、知らない人が見れば幼稚な喧嘩ばかりする仲の悪い夫婦に見える。
貴賤結婚のせいで既に社交界で嘲笑の的である二人は、これからあの魔窟のような世界で生きていかねばならないのに。このままでは『案の定、結婚生活がうまくいっていない』と馬鹿にされてしまう。
「何か、奥様が素直になれるキッカケでもあればいいのだけれど」
ニコルはポツリとつぶやいた。
*
エントランスで新しい使用人たちからの出迎えを受けたアンリエッタは、屋敷を一通り案内された後、気になっていたコンサバトリーへと移動した。
そこには色とりどりの鮮やかな花が飾られており、ガラス天板の丸テーブルに装飾の少ない二人掛けのソファが置かれていた。
コンサバトリー自体はそんなに広くないはずなのに、家具の配置やインテリアのデザインが絶妙で実際よりも広く感じる。さすがだ。クロードのセンスは中々のものだ。
「家具もひと通り新調したけど、気に入らなければ買い直せばいいから」
偉そうにそう言いながら、クロードは二人掛けソファの左半分にドカッと腰掛けた。これが金持ちの余裕というやつだろうか。気に入らなければ買い直せばいいなどという発言に、倹約家のアンリエッタは眉を顰めた。
「気に入ったから買い直したりなんてしないわ」
「そうか」
「でも……、ここのソファは買い足す。席が足りない」
アンリエッタは嫌そうな顔をしながら、2人掛けソファの右端にちょこんと座った。
無理やりに空けた隙間は子ども1人くらいなら座れそうだ。
クロードはこの隙間にムッとした。
「遠くないか?」
「このソファが大きいのよ」
「これはそこそこ小さいぞ。部屋のサイズに合わせたからな」
むしろ、アンリエッタと2人で座ることを考えるともう少し小さくても良かったかもしれない。
クロードはさりげなくアンリエッタの方へと移動した。
「……近寄ってこないで」
「話しずらいから近づいただけだ」
「貴方の声は大きいから離れていてもよく聞こえるわ」
アンリエッタはフンッとそっぽを向いた。目を合わそうとしない彼女に対し、クロードは意地でも視界に入ろうと顔を近づける。
ニコルはそんな2人の前にティーセットを置いた。真新しい茶器で淹れられた香りの良い紅茶は、2人のくだらない攻防を沈めてくれた。
「ありがとう、ニコル。いい香りだわ」
「なかなか手に入らない南部の茶葉だそうです」
「そうなの。私、この香りは結構好きだわ」
「旦那様が奥様のためにとご用意くださったそうですよ」
「…………そう」
「おい。何だよ、その間は。不満なのかよ」
「いえ、別に」
「素直に喜べよ」
「喜んでいるわよ。お気遣い、どうもありがとう」
「……心がこもってない」
沈めたはずなのに、またすぐにくだらない喧嘩が始まる。
ニコルはどうしたものかとため息をこぼした。
そうこうしていると、ミゲルがコンサバトリーにやってきた。
「会長ー、今いいですか?」
「どうした?」
「グレイスが屋敷の使用人を代表して奥様にご挨拶したいそうですけど」
「ああ、構わないぞ。入れ」
「だって、グレイス」
「ありがとう。失礼します」
許可を得てすぐ、ミゲルの後ろに隠れていた小柄な女がひょっこりと顔を出した。
そばかすが可愛らしい女だ。背はアンリエッタと同じくらいだろうか。
彼女はその青緑色の瞳にクロードを映すと、パアッと表情を明るくした。
「久しぶりだな、グレイス」
「久しぶりだね、クロード」
クロードは席を立ち、グレイスの元へと向かった。そして再会のハグを求めるグレイスを軽く躱し、彼女と硬い握手を交わした。
グレイスはどこか不服そうだったが、クロードはおそらくそれに気づいていない。
「アンリエッタ。さっきも軽く挨拶したけど、改めて紹介するよ。この屋敷のメイド長を務めるグレイスだ」
クロードは自信満々にグレイスを紹介した。
グレイスは肩くらいまである青みがかった黒髪を耳にかけ、見定めるようにアンリエッタをジッと見据える。そしてすぐに人好きのする笑みを貼り付け、美しい所作で挨拶をした。
「はじめまして、奥様。グレイスでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
無駄のない洗練された動きに、アンリエッタは「なるほど」と小さくつぶやいた。
クロードは身寄りのない子どもを引き取り、長い時間をかけて一通りのマナーや所作、仕事を叩き込み、彼らを給金の良い貴族家へ斡旋する事業を行っているのだが、グレイスはその使用人斡旋サービスで教育係を担っているらしい。
不幸な子どもの救済にもつながるとして、このサービスを利用する心優しき貴婦人は多いそうだが、彼女を見るとその質の高さも人気の理由なのではないか思う。
「あなたのところのメイドはとても優秀なのね」
「わかるのか!?」
「見ればわかるわよ。……グレイス、よろしくね。頼りにしているわ」
アンリエッタは余裕ある貴婦人の微笑みで、グレイスに挨拶を返した。
クロードはアンリエッタが彼女を受け入れたことが嬉しかったのか、ソファに座り直すと目をキラキラと輝かせて聞いてもいない話をし始めた。
「アンリエッタ。グレイスは商会の立ち上げメンバーの一人なんだ。とても優秀で気立てが良く、商会の従業員からもよく慕われている信頼できる人だ」
「そう。それは心強いわね」
「今はもう指導係という立場だから、こうして特定の家に仕えることはもうないのだけれど、君のために特別に来てもらったんだ」
「……そう。それはどうもありがとう」
恩着せがましい言い方にアンリエッタは少し苛立った。
だが、クロードはそれに気づいておらず、しつこくグレイスを褒め称える。
グレイスは「もうやめてよ、恥ずかしい」と言いながらも、満更でもない表情を浮かべていた。
(一体、私は何を見せられているのだろう)
アンリエッタは、二人に気付かれないように小さくため息をこぼした。
「……そんなわけだから、何か困ったことがあればグレイスを頼るといい。大抵のことは解決してくれるだろう」
「ありがとう。でも、いいの?彼女、教育係なのでしょう?商会の方にいないと困るんじゃない?」
「ああ、そのことなら大丈夫だ。教育係は他にもいるし、それに君がここでの生活に慣れたら、たまに商会の方にも顔を出してもらうつもりだから」
「そう……」
「とりあえず、君の身の回りの世話は引き続きニコルに任せようと思う。だが、屋敷全体の管理は基本的にはグレイスに任せよう。構わないか?」
「ええ、問題ないわ」
あなたの家なのだから、あなたの好きなようにすればいい。
アンリエッタはそう言ってやりたかったが、嫌味が過ぎると思い、言葉を飲み込んだ。