8:ライラック(2)
「おや?クロード君じゃないか」
アンリエッタの部屋の前には彼女の父、シャルル・ペリゴールがいた。
シャルルは柔らかな笑みを浮かべ、「昨日はどうも」と挨拶をした。
少し低い背丈と丸みのある体型はシャルルの穏やかな性格を表しているようで、彼の姿を見るとクロードはいつもホッとする。
「アンリエッタに用事かい?」
「ええ、まあ」
「そっか……」
ふと、シャルルの視線がクロードの手元に移る。それに気づいたクロードは、咄嗟にライラックのブーケを背に隠した。
貴族令嬢相手に、手作りの花束を渡すのは失礼に当たらないだろうか。せめて花屋で買うべきではなかったかーーー。
そんな考えが頭をよぎってしまったのだ。
自分の出自に対する劣等感が強いクロードは今更ながら、金のかかっていないプレゼントを贈ることを恥ずかしく感じた。
「素敵な花束だね。それはアンリエッタに?」
クロードの心情を察したのか、シャルルは優しい声色で尋ねた。
彼の声がとても優しかったせいだろうか。クロードは戸惑いながらも、正直にコクリと頷いた。
「そうかい、そうかい。あの子のために、いつもありがとうね」
「……いえ、俺は別に。特に何も」
「何もしていないなんて事はないよ。きみはいつも本当に良くしてくれている。ありがとう」
「侯爵閣下……」
「やだなぁ。そんな他人行儀な呼び方はよしてくれ」
「え……?」
「もっとふさわしい呼び方があるだろう?」
「し、しかし……」
「私はずっと息子が欲しくてね。だから君に義父と呼ばれる日を心待ちにしていたんだ」
義父と呼ぶことを躊躇うクロードに、シャルルはニコッと笑った。
普段はあまり似ていると感じないが、笑った顔はどことなくアンリエッタに似ている。
親の温もりを知らずに育ったクロードは恥ずかしそうに、ゆっくりと口を開いた。
「……義父……上」
貴族を、それも建国当初から続く名門ペリゴール家の当主を『義父』と呼ぶなんて畏れ多いとわかっているのに、じんわりと心が温かくなった。
「んふふ。ありがとう」
照れくさそうに俯くクロード。シャルルはそんな彼を見て、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「君のような息子を持つことができて、嬉しいよ」
「ありがとうございます。俺なんかには勿体無いお言葉です」
「ところで、アンリエッタはどうだい?まだ君に失礼な態度をとっているのかい?」
「いえ!そんなことは……、ははっ」
そんなこと……はあるが言えるわけもなく。クロードは苦笑いを浮かべた。
彼の表情でなんとなく察したのか、シャルルは肩を落としてため息をついた。
「ごめんねぇ。どうも意地っ張りなところがあるみたいで。今度きつく叱っておくよ」
「そんな!大丈夫です!……その、彼女のあの態度は愛情の裏返しだと思ってますから」
「そう?ならいいんだけど……。だけど、いつまでもあのままだと、いつか愛想をつかされちゃうんじゃないかと心配でね」
「愛想を尽かすなんて!そんな日は一生来ないです!……だ、だって俺は、彼女がとても優しくて思慮深くて、気高い女性だということを知っていますから」
あの日からずっと、心を奪われたまま。他に目を向けたことなんて一度もない。
クロードはシャルルの目を見てはっきりと言い切った。
「そっか……。そっか、そっか。ありがとうね」
「い、いえ……」
「色々と苦労をかけると思うけど、娘をよろしくね」
「はい。もちろんです!」
「では、私は失礼するよ」
「え?彼女に用事があったのでは?」
「大した用事じゃないから、また改めるよ」
新婚夫婦の邪魔はできない。シャルルはそう言って、クロードに背を向けた。その背中は少し寂しそうにも見えて、クロードは思わず呼び止めてしまった。
「あの……!」
「ん?何かな?」
「や、やはりシーズン中も一緒に暮らしませんか?用意した屋敷はその…….、小さいですが、部屋はまだ余っていますし……」
「んふふ。ありがとうね。でも遠慮しておくよ。新婚の二人の邪魔はしたくないから」
「で、ですが……」
「それにね、本音を言うとこんな高級ホテルに宿泊なんて滅多に出来ないから、満喫したいんだ。だから君の好意に甘えて、しばらくはホテル生活をしたいんだけど、いいかな?」
「……それは、もちろんです」
シャルルは困ったように笑いながら、コテンと首を傾げた。
ホテル生活を満喫したいだなんて、本当は思っていないだろうに。
この人はいつもこうだ。由緒正しい血筋の貴族なのに、偉ぶったりしない。いつも穏やかで誰に対しても公平に優しい。
初めて会った時もそうだった。急に現れて、娘と婚約したいと言ってきた身の程知らずな平民を快く家の中に招き入れてくれた。門前払いも覚悟の上だったのに、対等な人間としてクロードに接してくれた。
「義父上。これからはアンリエッタと一緒に親孝行します」
「あはは。急にどうしたんだい?」
「すみません。何となく言いたかったので」
「やだなぁ、照れるじゃないか。でも、ありがとう。君たちの親孝行、楽しみにしておくよ」
「はい!」
「じゃあ、またね」
シャルルは照れたようにはにかみ、軽い足取りで去っていった。
「アンリエッタ……、君は幸せ者だな」
あんな優しい父がいて。
クロードは去って行くシャルルの背中に一礼した。
「さて。行くか」
クロードはピンと背筋を伸ばし、アンリエッタの部屋の扉をノックした。
「俺だ、アンリエッタ。少し話があるんだが……」
そう声をかけると、部屋の中からドタバタと大きな音がした。
何ごとかと焦ったクロードはアンリエッタの返事を待たずに扉を開けた。
すると、そこには何故か床に倒れ込む彼女がいた。
「何してるんだ?」
「……うるさい」
明らかに椅子に躓いて転んだであろう姿のアンリエッタは、スンとした顔で立ち上がり椅子を元に戻して、服についた埃を払った。
そして肩にかかった髪を後ろに靡かせてひと言。
「……何かご用かしら?」
転んだことを無かったことにしたいのだろうが、無理がある。
流石に堪えきれず、クロードは吹き出した。
そんな彼の反応にアンリエッタの顔はみるみるうちに赤くなる。
「いやいやいや、流石に無理があるから。何もなかったみたいな顔しても無理があるから」
「し、仕方ないでしょ!?急に来るから焦ったのよ!先触れくらいよこしなさいよ!」
「同じホテルの同じ階に滞在してる夫婦がどうして事前にアポ取るんだよ。おかしいだろ」
「う、うるさいうるさいうるさい!用がないなら帰りなさいよ!」
「用ならあるから。とりあえず、落ち着けって」
「私はいつでも落ち着いてるわよ!」
「どこがだよ。ククッ」
「わ、笑うなぁ!」
アンリエッタはキッとクロードを睨みつけた。
まるで小動物のようだ。警戒心の強い猫のようで可愛い。クロードはつい、抱きしめたい衝動に駆られ、アンリエッタに手を伸ばした。
だが、何かされると思ったのか、アンリエッタはギュッと目を閉じて体を強張らせた。
彼女の反応に、クロードはすぐに手を引っ込める。そして反対側の手に持っていたブーケを目の前に差し出した。
「……何よ、これ」
「見たらわかるだろ。花だよ。……き、君にあげようと思って………、摘んできた」
「あなたが?自ら?」
「そ、そうだよ!悪いか!?」
「……いいえ。悪くないわ」
両手でブーケを受け取ったアンリエッタは顔を伏せ、ジッとライラックの花を見つめる。
顔が見えないから、プレゼントとして成功だったのか失敗だったのかがわからない。
クロードはアンリエッタの顔を覗き込んだ。
すると、アンリエッタはキラキラと目を輝かせ、薄らと頬を赤く染めていた。
(……え、何だよ。その反応)
可愛い。かつて見たことがないほどに可愛い。
彼女につられて、クロードまで顔を赤らめた。
「とても素敵なブーケだわ」
「それは、どうも……」
「そういえば、はじめてね。あなたに花をもらうのは」
「そ、そうだったか?」
「いいの?本当に貰っても」
「も、もちろん」
「そう。なら遠慮なくいただくわ。ありがとう」
「おう……」
アンリエッタはギュッと花束を抱きしめた。
嬉しそうに頬を緩ませて花を抱く姿はとても愛らしく、今まで贈ったどの贈り物よりも喜んでいるように見えた。
(だから何だよ、その反応。クソ可愛いな、おい)
そんな反応をされると、うっかり抱きしめてしまいそうだ。クロードは可愛いアンリエッタを直視することができず、キョロキョロと目を泳がせた。
「ニコルに花瓶を用意してもらわなくちゃ」
「そう、だな」
「本当にありがとう。嬉しいわ」
「そ、そうか」
「うん……」
「えっと、じゃあ俺はこれで……」
「う、うん。わざわざ、ありがとう……」
「いや、別に……」
妙な空気が二人の間に流れる。何だかくすぐったくて、落ち着かない。心臓の音がうるさい。
プレゼントなんて今までたくさん贈ってきたのに、どうしてだろう。いつもよりも気恥ずかしい。
クロードはドギマギしながら、逃げるようにアンリエッタの部屋の扉を閉めた。
「……花、好きなのか?」
花が好きならもっと早く贈れば良かった。
クロードは、今度は100本の薔薇の花束でも贈ろうかと考えながら部屋に戻った。
そしてミゲルの顔を見て、ハッと思いだした。
「あ、告白するの忘れてた」
「…………馬鹿でしょ」
何をしに行ったのやら。ミゲルはやれやれと肩をすくめた。