6:好きじゃない(2)
「……好きじゃ、ない?」
新妻にハッキリとそう宣言されたクロードはドアノブに手をかけた状態で固まってしまった。
彼の秘書ミゲルは、トレードマークの黒縁メガネを片手でクイッと上げ、神妙な面持ちで言葉をかけた。
「どんまい、会長」
励ましたつもりだろうか。だとするのならば言葉のチョイスが残念すぎる。
クロードは八つ当たりのようにミゲルを睨みつけた。
「大丈夫だから。別に凹んでないから」
「え?大丈夫なんですか?さっき、めちゃくちゃハッキリと嫌いって言われてましたけど」
「違うから。別に嫌いとは言われてないから。好きじゃないって言われただけだから」
「それ、同じ意味ですよね?」
「違うから。『嫌い』と『好きじゃない』は天と地くらいの差があるから。『好きじゃない』は嫌いなわけじゃないから。好きじゃないだけだから」
「でも、『好き』の対義語は『嫌い』ですよ?」
「違うから。好きの反対は無関心だから」
「ん?ではつまり、『好きじゃない』と言われた会長は、奥方様になんの興味関心も持たれていないということですか?」
「……」
「好きな人に興味関心を持たれないって、それならいっそ嫌われた方がまだマシな気もしますが」
「も~~~~~ッ!!!お前は本当に!!お前は!!」
「な、なんですか。急に」
「なんで一々そういうことを言うんだよ!ほんと相変わらず一言多いな!」
ミゲルは昔からこうだ。悪気なく言わなくてもいいことを言う。
見た目は暗めの茶髪に茶色い瞳の、どこにでもいそうな素朴で優しい男という印象なのに、中身は真逆だ。辛辣で容赦がない。ついでにデリカシーもない。
「チッ。いつか必ず、そのいけ好かないメガネを叩き割ってやる」
「構いませんよ、伊達なので」
「なんで伊達メガネなんてしてるんだよ!」
「なんとなく、賢そうに見えるかなって」
「賢そうに見えるからって理由でメガネつけてるところがもう馬鹿なんだよ。このバカ!」
「馬鹿っていう方がバカなんですよ。ばーかばーか」
「子供か!お前といると疲れるわ!」
「それはこっちのセリフですよ、まったく。たかが結婚のために二週間も仕事を休んでくれちゃって」
「仕方ないだろう。準備で忙しかったんだから」
「準備って、半分以上結婚式に関係のない準備だったじゃないですか」
ミゲルはわざとらしく大きなため息をついて、廊下の突き当たりにあるスイートルーム宿泊者専用のラウンジを指差した。
そこはアンリエッタの宿泊に伴って急遽改装された場所で、華美な装飾が目立つラグジュアリーな空間から、白と黒を基調としたシックな空間へと変貌を遂げた場所でもある。
たったの3日しか滞在しないアンリエッタのためだけに、二週間もかけて模様替えを行ったクロードに、ミゲルは呆れ果てていた。
「採算が合わない。無駄中の無駄ですね」
「うるさいな」
「これで奥様がラウンジを利用しなかったらさらに無駄ですよ」
「わかってるよ。だからこうして朝食に誘いに来たんだろうが」
「でも、好きじゃない相手と一緒に食事なんてしてくれるでしょうか?」
「好きじゃないだけだ。嫌われてないから食事くらい大丈夫だ!それに昨夜は……」
クロードは静かに目を閉じ、アンリエッタが覚えていない初夜のことを思い出した。
「昨夜のアンリエッタはまるで、俺のことが好きみたいな態度だった」
酒のせいであることは理解している。きっと本人は覚えてもいないだろう。けれど、昨夜のアンリエッタは確かにこう言った。
『あなたの初めてが私ならよかったのに』
頬を紅潮させ、潤んだ瞳で、まるで過去の女に嫉妬しているかのようなことを言った。
クロードはそんな彼女に動揺を隠せなかった。理性を抑えるのに必死だった。
(……可愛かったなぁ)
昨夜を思い出し、思わず口元が緩む。
その後はすぐアンリエッタが吐き気を催したりで大変だったが、あの一瞬でクロードは彼女が自分に対して特別な感情を抱いていると確信した。
「だからな、要するにあいつの『好きじゃない』発言はただの照れ隠しってわけだ」
「会長に妄想癖があることがよくわかりました」
「妄想じゃない!あいつはもう俺に惚れてる。確実に!」
「すごい自信ですね。あと、急にあいつ呼びするところとか、ちょっと引きます」
「引くなよ!あいつはもう俺の女なんだから、別に普通だろ!?」
「……ねぇ、私はモノではないのだけれど」
鈴のような愛らしい声に、クロードは時が止まったかと思った。
彼はゆっくりと視線をやや下に移動させる。すると、そこには苦り切った顔をしたアンリエッタがいた。
「ア……ンリエッタ……?」
「ごきげんよう、クロード・ウェルズリー」
「ア、アンリエッタ……、あの……」
「ねぇ、クロード」
「……はい」
「教養のない貴方にはわからないかもしれないけれど、人の部屋の前で騒ぐのは良くないわ」
「さ、騒いでない!」
「そうです。騒いでいません。盗み聞きしていただけです」
「おい、ミゲル!!」
本当に言わなくていいことばかり言うやつだ。
クロードはミゲルを後ろから羽交締めにして、口を塞いだ。
「最っっっ低」
「なっ!?」
「女性の会話を盗み聞きなんて、信じられないわ」
「好きで聞いてたんじゃねーよ!聞こえてきたんだよ!大体、外に聞こえるくらい大声で叫んでる方も悪いだろ!?」
「聞こえても気づかないふりして通り過ぎればすればいいじゃない。用もないのにわざわざ立ち止まって部屋から漏れ出る声を聞くのは、立派な盗み聞きよ」
「用ならあるし!」
「何の用よ」
「朝食に誘いにきたんだよ!」
「お断りします。せっかくのお料理が不味くなるわ」
「はぁ!?」
「そうやってすぐに叫ばないでちょうだい。耳が痛いわ」
「君がそうさせているんだろうが!本当可愛くない女だな!」
「可愛くなくて悪かったわね。でもそんな女に求婚してきたのは貴方でしょう?悔やむなら愚かな選択をした自分を悔やむのね」
「何だよ、偉そうに!俺が求婚してやらなかったら間違いなく行き遅れていたくせに!」
「バカにしないでちょうだい。求婚なら貴方以外からも受けていたわ」
「……え?」
そんな話は聞いていない。クロードは目を丸くした。
「どうしたの?鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「お、俺以外からも求婚を受けていたのか?」
「ええ、そうよ?」
「え?え??」
「そんなに驚くこと?私は腐ってもペリゴール侯爵家の一人娘なのだから、貴方みたいに爵位目当てで求婚してくる人だって普通にいるわよ?」
ただし、その大半が悪い噂の絶えないロクデモナイ男ばかりだったわけだが。
そう思うと、クロードはまだマシな方だったと言えるだろう。
「まあ、こんな没落貴族に求婚して来る男にまともな奴なんていなかったけどね。もれなく全員、お見合いの時にその高いプライドをへし折ってやったわ。おかげで『また会いたい』なんて言ってくる男は片手ほどしかいなかったわね」
「デ、デートした奴とか、いたのか?」
「いたわよ。でも、どの人もその日のうちにお断りしたわ」
奇跡的にデートするまでに至った男は全員、つまらない男だった。
彼らが話す内容といえば、社交界のくだらない噂話や、他人の悪口。あとは過剰なまでのアンリエッタへの賛辞。
中でも最悪だったのは、アンリエッタを誉めるために他の令嬢を貶す男だ。そいつの話は聞くに耐えなくて、三十分でデートを切り上げたとアンリエッタは語る。
「ま、とにかくそういう訳だから。私は貴方が求婚してこなくても行き遅れることはなかったわ」
「……なあ」
「何よ?」
「じゃあ、どうして俺は何度も会ってもらえたんだ?」
「……え?」
「言い寄ってきた男はみんな一回しかデートしてもらえていないのに、どうして俺は何度も会ってもらえたんだ?」
「そ、それは……」
「君はデートがつまらなかったから、彼らの求婚を断ったんだろう?なら、どうして俺は断られなかったんだ?」
「だ、だって貴方は断っても断っても、しつこく求婚したきたから……」
「初めてデートをした時、次はいつ会えるかと聞いたら君は『わからない』と言った。ハッキリと『もう会わない』とは言われなかった。その後も、俺が誘ったらイヤイヤ言いつつもちゃんと来てくれた。なあ、どうしてだ?どうして俺を受け入れてくれたんだ?」
「ちょ……、何よ。急に……」
「アンリエッタ。もしかして、本当は……」
何を期待しているのか。クロードは明確な言葉を欲しがるように、一歩ずつアンリエッタに近づく。
アンリエッタはそんな彼から逃げるように後ずさる。まるで森で熊と対峙した時のように慎重に。
ミゲルもニコルも、そんな二人の様子を生暖かい目で見守っていた。
「君は俺のこと……」
「あ、貴方が一番お金を持っていたからよ!!」
「………………………お、お金?」
「そう、お金よ!お金!」
ハッキリと金目当てで結婚したと宣言したアンリエッタ。
確かに、ペリゴール家にとってこの結婚が金のためであることは公然の事実だが、それを本人に宣言するのは流石にどうかと思う。
これには、ミゲルもニコルも苦笑するしかなかった。
アンリエッタ自身も流石に失言すぎると心では思っているが、彼女の口は本心を隠そうと必死すぎて止まらない。
「金?金目当てなのか?本当に?」
「な、何が悪いのよ!政略結婚ってそういうものでしょう!?貴方が爵位目当てであるように、私もお金目当てで貴方と結婚したのよ!」
「おい、ちょっと待て。俺は別に爵位目当てなんかじゃないぞ!?」
「爵位目当てでしょうが!私と結婚したら王宮の舞踏会にも参加出来るし、そこで人脈を広げれば商会をより大きくできるって言ってたじゃない!」
「そ、それは……、確かに言ったけど。でもそう言う意味じゃ……!」
「いいわよ、別に今更誤魔化さなくても!」
アンリエッタがお金目当てなことも、クロードが爵位目当てなことも公然の事実。
アンリエッタは子どものようにイーッと歯を見せてクロードを威嚇した。
まただ。また、彼の前では淑女を保てない。
こんな幼稚なことをする自分に耐えられなくなったアンリエッタは「朝ごはん、いらない!」と言って部屋に閉じこもってしまった。
「ちょ、待て!アンリエッタ!!……あ、くそ。鍵かけやがった!!」
「旦那様、鍵が壊れますわ」
「せっかく改装したけど、ラウンジは無駄になりそうですね」
アンリエッタの部屋のドアを無理やり開けようとする主人を冷めた目で見つめながら、ミゲルは大きなため息をこぼした。