4:気の迷い
思えば、初対面から最悪だった。
領地を大規模な洪水が襲い、父シャルルが手がけていた事業が失敗し、身内の醜聞の影響で第二王子との婚約も破談となった3年前。憔悴し切ったアンリエッタの前に颯爽と現れたクロードは、大量の宝飾品ともに白紙の小切手を並べてこう言った。
『君の夫になるにはいくら必要だろうか』
とても高揚した様子だった。喜びを隠しきれていなかった。
こちらはまだ何も言っていないのに、まるで勝利を確信したかのような余裕の笑みと不遜な態度。
一代で莫大な富を築き上げた男とは思えぬほどの下手な交渉に、アンリエッタは腑が煮え繰り返る思いだった。
確かに、普段から一癖も二癖もある貴族を相手に商売をしている彼にとって、彼女は取るに足らない相手だっただろう。いくら建国当初から続く名門ペリゴール侯爵家といえど、今は貴族としての体面を保つことさえ厳しい財政状況だ。そんな相手に身構える必要などないのもわかる。
だが、流石にこれは失礼がすぎる。過去に求婚してきた男の中でも群を抜いて失礼だ。
金欲しさにこんな不躾な男の手を取るなんて、貴族としてのプライドが許さない。
だからアンリエッタは彼が持ってきた白紙の小切手を手に取り、それを真っ二つに割いてやった。
『求婚のマナーくらい、お勉強なさったら?』
当主を通さず、直接本人に求婚してくるなど言語道断。
アンリエッタがそう言うと、クロードは顔を真っ赤にして屋敷から去っていった。
まさか断られるとは思ってもいなかったのだろう。走り去る彼の後ろ姿は実に情けないものだった。
『これでもう来ないでしょう』
アンリエッタはそばで控えていたニコルに、自信満々に言った。
ああいう、『お前たちを救ってやってもいい』という高慢な態度で求婚してくるプライドだけは立派な失礼男は、そのプライドを傷つけてやればに二度と現れない。それは過去の経験に基づく客観的な見解だった。
けれど、クロード・ウェルズリーという男は狙った獲物は逃さない主義だったらしい。
それから二週間後のこと。彼は正式な手続きを踏んで再度求婚の手紙を送ってきた。
そこからはもう本当にしつこくて、断っても断っても彼はめげずに求婚してきた。
あまりにしつこいからアンリエッタは仕方なく何度かデートしてやったが、まるで楽しくなかった。
クロードとのデートは専ら買い物で、宝石店や仕立て屋ばかり。食事も連れていかれるお店はどこも貴族御用達の高級店でばかりで、周りの視線が辛いし……、とにかく最悪だった。彼とのデートは苦しかった記憶しかない。
それでも結局、ペリゴール家の財政状況を考えると背に腹はかえられず。アンリエッタはクロードと婚約するしかなかった。
ーーーというのが、アンリエッタの認識だ。
「婚約から1年半かぁ。長かったような、短かったような……」
婚約してからは社交界にも顔を出し、その度に嘲りの視線を向けられ続けた。かつては夜会に顔を出せば、多くの人に囲まれていたというのに、今はもう遠巻きにヒソヒソされるだけ。とても惨めだった。
アンリエッタは過去を思い出し、小さくため息を漏らす。そして、ボーッと視線の先にある天井の幾何学模様を見つめた。
「……ん?」
なぜ天井が目に入るのか。見上げていないのに天井が見えるということは横になっているということだが、アンリエッタの記憶では先ほどまで椅子に座ってワインを飲んでいたはず。
「うーん?」
アンリエッタは回らない頭を懸命に回転させながら自分の右隣を見た。すると、そこには半裸で眠るのクロードの整った顔があった。
「うわ。まつ毛、長……」
整った眉に長いまつ毛。セクシーな泣きぼくろにスッと通った鼻筋。それから血色の良い唇。この男は本当に整った顔をしている。
アンリエッタは吸い寄せられるようにクロードの頬に触れた。
すると、フッと彼の切長の目が開いた。その美しいオリーブグリーンの瞳にアンリエッタの顔がはっきりと映る。
「……おはよう、アンリエッタ」
「………おは、よう?」
そう答えたところで、アンリエッタの脳はようやく覚醒した。
「ぬぉおえ!?」
驚きのあまり、ベットから飛び降りる。
そしてすぐさまクロードと距離を取るように大きなカーテンの後ろに隠れた。
「な、ななななぁ!?」
動揺しすぎているせいか、うまく言葉が出てこない。
アンリエッタは慌てて服を弄り、自分が下着を履いていることを確認した。
(よかった。下着は着ている)
しかし、下着を着用しているからと言って安心して良いものなのだろうか。
だってクロードは半裸。そして心なしか吐き気がするし、体に違和感がある。
アンリエッタは顔を真っ青にしてクロードの方を見た。
クロードはそんな彼女の様子を見て、プッと吹き出した。
「な、何笑ってんのよ!」
「いや、必死すぎておかしくて」
「はあ!?」
「まあ、落ち着け。昨夜は何もしていない」
「嘘つき!だってなんか変な感じするし!」
「変な感じって?」
「なんか、気持ち悪いっていうか……」
「それは酒が弱いのにワインを一気に飲んだからだろう」
「し、じゃあ、なんで貴方は何も着てないのよ!」
「下は履いてる」
「上は裸じゃない!破廉恥!」
「破廉恥って……、昨夜君が俺の服に吐いたから脱いだだけだ」
「は、吐いた?」
「ああ、盛大に俺の服に吐いた」
「……え?え?」
困惑するアンリエッタ。だが冷静になって辺りを見渡すと、床に落ちたワイングラスと絨毯に残ったワインのシミが目に入る。状況から察するに、彼の言っていることは正しそうだ。
「あ、あの、私……、ご、ごめんなさい」
アンリエッタは顔を青くしたまま頭を下げた。
するとクロードは大きなため息をついて、布団から出た。そして自分のガウンを手に取り、彼女に近づく。
「ごめんなさい。私、本当に何も覚えてなくて……」
「いいよ、別に。でも今後はあんまり無茶な飲み方はすんなよ?」
「わ、わかってる……」
「わかってるならいいけど」
クロードはアンリエッタを窘めるように微笑みかけ、さりげなく彼女の肩にガウンをかけた。
「あ、ありがとう」
「ん。どういたしまして」
お礼を言うアンリエッタに、クロードは見たこともないほど優しい笑みを見せた。
いつも眉間に皺を寄せている彼とはまるで別人の、恋人に見せるみたいな優しい微笑み。
「………なっ!?」
アンリエッタは驚きと戸惑いのあまり、咄嗟にクロードに背を向けた。
だって、あまり見せない自然な笑みは妙に色っぽく、普段とは違って寝癖がついた漆黒の髪は無駄に艶やかで。そして何より、半裸であるせいで嫌でも目に入る彼の鍛えられた腹筋がいやらしくて。
とても直視出来ない。いや、してはならない。そんな気がしたのだ。
(もう!クロードのバカ!なんて顔をするのよ!)
そんな顔しないでほしい。見たくないものが見えてしまいそうになる。気付きたくないことに気づいてしまいそうになる。
アンリエッタは心を落ち着かせようと窓の外を見た。
だがしかし、夜明け前の外はまだ薄暗く、窓が鏡のように真実を映し出す。
(だから!!なんて顔しているのよっ!!)
アンリエッタは窓に映る自分の顔を見て、カァッと体が熱くなるのを感じた。
こんな、恋する乙女みたいな顔。ありえない。信じない。見たくない。
アンリエッタは顔を両手で覆い、そのまま床にしゃがみ込んだ。
「おい、どうした?気分が悪いのか?」
「何でもない」
「何でもないわけないだろ。気分が悪いならまだしばらく横になってた方が……」
「何でもないってば」
「いや、でも……」
「大丈夫だから放っておいて」
「そういうわけにはいかないだろ?」
「だから大丈夫だってば!しつこい!」
しつこく心配するクロードに苛立ったアンリエッタは勢いよく振り返る。
当然、すぐそこには彼の端正な顔面があった。
唇と唇が触れ合うまでわずか10センチ。息を吸うことさえ憚られる距離感。
アンリエッタもクロードも、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……ご、ごめん」
「……いや、別に」
なんて言いながらも、互いに指先一つ動かさない。
動けないのか、はたまた動きたくないのか。二人は見つめ合い、メデューサに睨まれたかのように固まってしまった。
(え……、何?これ。何なの、この空気)
相手の呼吸音も、心臓の鼓動さえも、やけに大きく聞こえるほどの静寂が絶妙な空気を作り出す。
「エッタ……」
先に動いたのはクロードの方だった。
クロードは震える手で、まるで壊れ物でも触るかのようにそっとアンリエッタの頬に触れた。
触れた指先から、彼の熱が伝わる。
アンリエッタは一瞬にして、全身の血が沸騰するのを感じた。
ダメだ。このままでは、神の御前でもないのにうっかりキスしてしまいそうだ。
この男は所詮は政略結婚の相手。誰も見ていないところで、何の意味もないキスをするような関係ではないというのに。
「……いいか?」
クロードは遠慮がちに尋ねた。
(いいか?……って何が?)
いいか?だけではわからない。初心なアンリエッタにはわからない。ちゃんと言ってくれないとわからない。
……わからないフリをしたい。だって、イエスもノーも言いたくない。
アンリエッタはどうするのが正解なのかわからず、ギュッと目を閉じた。
それが世間一般で言うところのイエスであることも知らずに。
「……っ!」
クロードは歓喜の表情を浮かべた。
アンリエッタの行動をイエスと捉えたのだろう。彼は彼女の両頬にソッと手を添えた。
しかし、
「………………おはようございます?」
ちょうどそのタイミングで、部屋の扉が開いた。
その直後、アンリエッタの叫び声がフロア中に響いた。