エピローグ
それはグレイスたちの件が解決して数日後昼過ぎのこと。アンリエッタは来週の王宮の舞踏会に備えて新調した新作のドレスの試着で疲れ果てていた。
「来週の舞踏会を皮切りに、社交シーズンが始まりますけれど、そんなことで大丈夫です?」
コンサバトリーのソファでぐったりとして寝転ぶ主人に、ニコルは呆れ顔で紅茶とクッキーを差し出した。
「体力なさすぎませんか?きっと運動不足ですよ」
「違うわよ。この気だるさは精神的なものよ」
「精神的……」
「今年は何を言われるのかしら。それが気がかりでね」
去年までとは違い、今年は婦人だけのお茶会を除けば、ほぼ全ての社交場にクロードを連れて行かねばならない。
平民の夫を連れ立って、王宮や貴族邸に赴くのは正直なところ気が重い。
「私は何を言われても平気というか、慣れているから問題ないけれど、彼は違うでしょ?だから……」
「いやいやいや。絶対に陰口くらいで傷つくタイプではないでしょう」
過酷な環境で生まれ育ち、そこから這い上がってきた男だ。貴族の遠回しな陰口でいちいち傷ついていたら身がもたない事くらい、クロードもわかっているだろう。ニコルは心配ないかと、と大きな窓の外を指差した。
すると、そこには忙しそうに庭師に指示を出すクロードの姿があった。
「あれは何をしているの?」
「お庭の模様替えですよ。王宮のバラ園風にしたいそうです」
「何でまた……」
「え、忘れたんですか?」
「何が?」
「奥様が言ったんじゃないですか。つい2日前の夕食時に、王宮のバラ園は素敵だったと」
「あー、あれね……」
そういえば、王宮での舞踏会について説明しているときに、何気なくそんなことを言った気がする。
だがまさかそれを聞いて、また無駄に金を使うだなんて誰も思わないだろう。
アンリエッタは額を抑え、呆れたように肩を落とした。
「愛されてますね」
「そういう問題じゃないでしょう。また無駄遣いをして」
「いいじゃないですか。お金は持ってる人が使わないと、経済が回らないですから」
「物は言いようね。それより、今日仕事は?午後から事務所の方に行くって言ってなかったかしら」
「そういえば仰ってましたね。忘れているのかも。聞いてみますね」
ニコルは窓を開けてクロードを呼んだ。
「旦那様ー、奥様がお呼びですー」
「ちょっと、ニコル。どうして私の名前を使うのよ」
「その方が効率が良いからですよ。ほら、ね?」
ニコルは得意気に鼻を鳴らして窓の外を見ろと言う。
アンリエッタが渋々窓に近づくと、クロードはニコルの言う通り、嬉しそうな顔をしてこちらに向かって来ていた。
「……まるで犬だわ。イメージは、そうね。ラブラドール・レトリバーかしら。黒い毛並みのね」
「フラットコーデッドじゃなくて?」
「あら、どうして?」
「なんか猟犬っぽいじゃないですか。狙った獲物は逃さない的な?」
狙われた獲物とはもちろん、アンリエッタのことである。
ニコルはアンリエッタの方を見て、意地悪そうにニヤリと口角を上げた。
「この間は見事に狩られましたね。貪られて屍になってました」
「………………うるさいわよ、ニコル」
「何の話をしているんだ?」
「犬の話よ」
「犬?飼いたいのか?」
「もう飼っているから必要ないわ」
「それって、どういう意味?」
「比喩表現よ」
「……?」
途中からかしか会話を聞いていないクロードは首を傾げた。
その仕草が可愛く思えたアンリエッタはぐっと眉間に皺を寄せる。悔しい。
「何でそんな顔をするんだよ」
「あなたが悪い」
「はあ?」
「それより、いいの?午後から事務所に顔を出さないといけないって言ってなかった?」
「………そ、そんなこと言ったか?」
「目を逸らしたということはサボりということね?」
「違う。サボりじゃない。ミゲルに任せているだけだ。何があれば連絡が来るから大丈夫だ」
「任せるというより、押し付たという感じね。そういう事をしていると、そのうち辞めちゃうかもしれないわよ?彼」
「辞めないさ。あいつは俺のこと好きだからな」
「何それ。あまり調子に乗っていると痛い目を見るわよ?」
アンリエッタは呆れたようにため息をこぼし、庭園の奥に見える裏門を指差した。
するとそこには、屋敷に向かって大股で歩くミゲルがいた。
顔はよく見えないが、歩き方を見る限りではかなり怒っているようだ。
「お迎えよ、クロード」
「げっ……」
クロードは心底嫌そうな顔をして、胸ポケットにしまっていた懐中時計を確認した。
そしてアンリエッタの方をじっと見上げると、少し屈むよう促した。
「ん?何?」
「いいから。もう少しこっちに」
「ええ。わかったわ」
アンリエッタは促されるがまま窓から身を乗り出した。
クロードは少し背伸びをすると、アンリエッタの髪を耳にかけた。
そしてキョトンとした顔をするアンリエッタに、チュッと音を立てて啄むようなキスをした。
アンリエッタは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「……なっ!?」
「好きだよ、エッタ。また夜にな」
「ちょっと!!」
不意打ちをつかれたアンリエッタは咄嗟に叫んだ。 ほのかに顔が赤い。どうやらキスはまだ慣れないらしい。
クロードはそんな彼女の様子に満足気な表情を浮かべて、正門の方へと駆けていってた。きっとミゲルに鉢合わせる事なく事務所に行くつもりなのだろう。
「やめてよ、もう」
アンリエッタは早くなる鼓動の音を隠すように、胸の辺りをギュッと抑えた。
想いが通じ合ってからずっとこんな調子だ。何度キスをしても慣れない。拗らせた恋はすんなりと自分の中に入って来てくれない。
ずっとソワソワして落ち着かない。これではまるで思春期の恋だ。
「…………私も好きだよ、ばか」
アンリエッタは小さく呟いた。
「奥様、私のこと忘れてません?」
いつの間にか、完全に蚊帳の外へと投げ出されていたニコルは、不服そうに唇を尖らせた。
その声にハッとしたアンリエッタは顔を真っ赤にして、ニコルの方を見る。
ニコルは当然、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「良かったですねぇ」
「う、うるさい!!」
「いやぁ、本当に良かった良かった。うんうん」
幸せそうで、良かった。
ニコルは心の底からそう思った。
(END)




