33:初夜
ーーー今夜、俺の部屋に来てほしい。
日中、今までで一番楽しかったデートを終えたクロードは、アンリエッタに言った。
これはつまり、そういうことだろう。
話を聞いたニコルは、主人の体を頭のてっぺんから足の先までピカピカに磨き上げ、送り出した。
「お、お邪魔します……」
「どうぞ」
扉を開けたアンリエッタはこの屋敷に来て初めて、クロードの部屋に足を踏み入れた。
(え、何もない……)
キングサイズのベッドにサイドテーブル、クローゼットに本棚。装飾品どころか、家具も必要最低限のものしかない部屋にアンリエッタは驚いた。
もっと豪華絢爛な部屋を想像していたのに、普段の振る舞いからは想像できないほどの質素な部屋だ。どうやらクロードは人には散々高級な贈り物をするくせに、自分が使う物には無頓着らしい。
「何もないのね。意外だわ」
「ほとんど寝るためだけの部屋だからな。仕事は執務室でするし」
「それにしても何もなさすぎよ。ソファくらいは置いたら?」
どこに腰掛ければよいのか。アンリエッタは迷った。
「悪いな。適当にベッドにでも座っておいてくれ」
「ベッ……!?」
「何か飲み物を取ってくるよ」
「わ、わかった……」
いきなりベッドとは性急すぎやしないか。こういうのはムード作りが重要だと聞いていたが、実際は違うのか。
もしや、すでに夫婦となっている二人には、事に及ぶ前の一連の儀式のような歓談は不要なのか。
アンリエッタは頭の中で必死に正解を探しながら、とりあえず言われるがままにベッドに腰掛けた。
(このあと、どうすればいいんだっけ!?)
閨の作法はひと通り学んだ。確か、基本的には男性に身を委ねれば良かったはず。
だが、アンリエッタのクセが強めな家庭教師は、相手に任せすぎてもダメだとも言っていた。
(任せすぎてもダメ……、服くらいは自分で脱いでおくべきかしら)
アンリエッタはとりあえず、ガウンをそっとずらした。
「お待たせ、アンリエッタ。ワインでも飲ま………………、え?」
年代物のワインとグラスを手に戻ってきたクロードは、ベッドの上で服を脱ぎ始める彼女に目を丸くした。
「な、なななな!?何で脱いでるんだ!?」
「……え?」
「え!?」
「え……、だって……。す、するんじゃないの?」
「な、何を?」
「……え?」
「え?」
何だろう、この空気は。アンリエッタは額に汗を滲ませた。
これはもしや、早とちりだったパターンではなかろうか。
確かに部屋に来いと言われたが、夫婦の営みをしようとは言われていない。むしろクロードの反応を見る限り、ただ二人で酒を飲んで語らいたかっただけの可能性が高い。
アンリエッタはスッとガウンを羽織り直し、何事もなかったかのように肩にかかる髪をふわりと後ろへ流した。
「別に脱いでいないわ」
「いや、絶対脱いでいただろう」
「気のせいよ」
「なあ、もしかしてそのつもりで来た?」
「………何が?」
「し、初夜のやり直し、的な……?」
「………………ち、違うの?」
「そのつもりはなかった…….、かな……」
「そう……、そうなの。へえ……」
「……」
「…………」
また、気まずい沈黙が流れる。
アンリエッタは特に騒ぐ事なく静かに顔を両手で覆い、そのまま後ろに倒れた。
「ア、アンリエッタ!?」
「殺してぇ……」
恥ずかしくて死ねる。穴があったら入りたい。
今日は恥をかいてばかりだ。
「クロードのバカ」
「何でだよ。俺は別に悪くないだろ」
クロードはサイドテーブルにワインを置くと、ベッドに腰掛けた。
そしてアンリエッタの肩口に手をつき、彼女を見下ろす。
アンリエッタが指の隙間から彼を見上げると、ニヤニヤと腹立たしい笑みを浮かべていた。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってるわよ。どうせ私のことを馬鹿だとか思っているのでしょう?」
「思ってないよ。まあ、可愛いなとは思ってるけど」
クロードはアンリエッタの顔を覆う手にキスを落とした。
触れた唇の感触に驚いたアンリエッタは、手を頭の上に移動させた。
「ははっ。茹蛸だ」
アンリエッタの顔を見たクロードは堪らず吹き出した。
「渡したいものがあったから呼んだだけだよ。ごめんな。期待させて」
「してない!」
「嘘つき」
こんな風に怒る時は大体図星だ。
クロードは指先だけでそっとアンリエッタの頬に触れた。
その触れ方があまりにも優しくて、アンリエッタはくすぐったそうに身動ぐ。
「や、やめて」
「どうして?」
「どうしてって……、くすぐったい」
「じゃあ、くすぐったくないように触ればいいか?」
クロードはそう言うと、意地悪そうな顔をして、アンリエッタの輪郭をなぞるように指を首筋へと滑らせる。
そしてそのまま、彼女の濃紺のナイトドレスの肩紐を下にずらした。
「……エッタ」
潤んだ瞳と濡れた唇。白い肌に薄い肩。それからほんのり赤く色づいた胸元。
クロードはゴクリと喉を鳴らす。夜の静寂のせいで、その音は普段よりも大きく聞こえた。
「ク、クロード……?」
「嫌か?嫌ならやめる」
「嫌じゃ…….ないけど……」
「じゃあ、もっと触れてもいいか?」
問いかけるクロードの息遣いが荒くなる。
それにつられるように、アンリエッタも息が苦しくなってきた。
近づく距離。高鳴る鼓動。交わる吐息。
アンリエッタは自然とクロードの首に手を回した。
「クロード」
「何?」
「息が苦しいの」
「うん」
「だから……、キスして?」
「……っ!?」
どこでそんな煽り方を覚えてくるのか。
可愛らしくも色気のあるおねだりに、クロードの中の何かがプツリと切れた。
クロードは貪るように、アンリエッタの唇に噛み付いた。
そこからはもう、理性なんてまともに働かなかった。
長年恋焦がれてきた人に触れられる喜びと、神聖な物を穢しているという背徳感が混ざり合い、クロードはその夜、アンリエッタが気絶するまで彼女を味わった。
翌朝、二人を起こしに行ったニコルは、爽やかな笑顔のクロードと、干からびた状態で横たわるアンリエッタを目撃したらしい。