31:告白日和(3)
声が弱々しく震えている。
いつもは自信たっぷりのクロードが、瞳を潤ませ、声を震わせて懇願している。
その姿にアンリエッタは胸が締め付けられた。
だからつい、本音が漏れる。
「…………嘘よ。勘違いだなんて思ってないわ。知ってるわよ。あなたが私のことを好きなことくらい、ちゃんとわかってるわよ」
本当はわかっていた。わからないわけがない。
だってクロードの瞳はずっと、真っ直ぐにアンリエッタだけを見つめていた。
彼の瞳はいつも、彼女のことが好きだと言っていた。
「でも、怖かったの。あなたからの好意を認めたら、恋が始まってしまう気がして怖かった。だから認めたくなかった。……勘違いだなんて言って、ごめんなさい。人の気持ちを否定する権利なんて誰にもないのにね」
アンリエッタは俯き、そっとクロードの手を離そうとした。
だが、クロードはそれを強く拒む。
「クロード、離して」
「いやだ」
「お願い」
「ねえ、何が怖いの?恋をすることが怖いの?」
「怖いわ。だって、恋は始めてしまうと終わりが来るでしょう!?」
アンリエッタは顔を上げ、クロードを見た。彼女の目尻には薄らと涙が溜まっていた。
「アン……」
「お父様とお母様は恋愛結婚だった。燃えるような恋をして結ばれた。でも結局、ダメになった。私もそう。殿下とは政略だったけど、私は間違いなく彼に恋をしていた。彼も私に対して好意を抱いていた。でもダメになった。……恋はね、いつか終わるのよ。身を裂くような痛みを伴って、終わるの!!」
もう、あんな思いはしたくない。アンリエッタの瞳から一筋の涙が頬をつたい、流れ落ちる。
その涙にクロードは動揺した。母親の不倫がアンリエッタに植え付けた傷がこんなにも深いモノだとは思っていなかったのだ。
クロードは彼女の涙を指先でそっと拭った。
「泣かないで、アンリエッタ。終わらないよ。俺は君を裏切らない。一生君が好きだよ。この命を賭けて誓ってもいい」
「そんなことに命を賭けるものじゃないわ。……それに、あなたはそうかもしれないけど、私はわからないじゃない」
「どういうこと?」
「あなたが私を裏切らなくても、私があなたを裏切るかもしれないじゃない」
「………え?」
「私ね、母親似なの。顔も性格も、とてもよく似ているんだって。だから、いつか私もあの女みたいに、あなたのことを裏切るかもしれないわ」
みんなが言う。お前は母親にそっくりだと。
だからアンリエッタは、自分は母親とは違うと思いたくて毎朝、鏡を見る。あの女と同じ顔をしていないかどうか、あの恋に溺れた忌々しい顔をしていないかを確認する。
そしてその度に少しずつ、クロードを好きになっていく自分に気づいて、絶望するのだ。
「……わかってるの。私はお母様じゃない。だからこんな心配をするなんて馬鹿げてる。でも……、あの頃の傷ついたお父様の顔が頭から離れなくて、怖いの」
鏡を見る度に思い出すのは、母に捨てられた後の父の姿。彼は朝から晩まで泣き、酒に溺れ、暴れた。
優しい使用人たちによる手厚いケアによって、何とか回復したが、そうなるまでには半年もの時間を要した。
アンリエッタはあの時、人とはこんなにも簡単に壊れてしまうのかと思い、恐ろしくなった。
「恋をして傷つけるのも、傷つけられるのも怖いよ」
「アンリエッタ……」
「ごめん。臆病でごめんなさい、クロード」
アンリエッタはクロードの手を振り払い、涙を隠すように両手で顔を覆った。
クロードはそんな彼女を包み込むように、優しく抱き寄せた。
「泣かないで、アンリエッタ」
「泣いてないわ」
「泣いてるよ。……ねえ、君は俺のことが好き?」
「好きよ。わかってるくせに、聞かないで」
「だったらさ、試してみようよ。この先、死ぬまで一緒にいて、一度も互いを裏切らなければ恋は終わらないって証明できる」
「途中でダメになったらどうするのよ」
「万が一にでもそんなことはあり得ないけど、もし俺が裏切ったら、その時は殺してくれていい」
「私が裏切ったら?」
「その時は監禁する。それで、もう一度俺のこと好きになってもらえるようにお願いするよ」
「…………………か、監禁?」
随分と不穏な言葉が聞こえ、アンリエッタは顔を上げた。
すると、クロードはにっこりと微笑む。どこか仄暗い空気を纏う彼に、アンリエッタはゾクっとした。
「君の父上が母上の手を離したのは、彼が優しいからだ。俺なら絶対に手放さない。他の男になんて渡さない。心変わりしたというのなら、元に戻すまでだ」
「え………、怖いんですけど……?」
「残念だけど、この恋は終わらないよ。俺が終わらせない限り、終わらない」
クロードはアンリエッタの腰に手を回し、自分の方へと引き寄せる。そしてその白磁の頬に手を添え、優しく撫でた。
彼のオリーブグリーンの瞳にはアンリエッタだけが映し出される。
「ク、クロード?」
「とりあえず、キスしてもいい?」
「何がとりあえず、よ!どうしてあなたはそう簡単にキスしようとするのよ!」
「好きだから。スキンシップって大事だろ?夫婦円満の秘訣だ。でも、君がどうしても嫌だと言うのなら、今はやめておく。どうする?」
「どうするって言われても……」
「3秒以内に答えて」
「え……」
「さーん」
「え、ちょ……」
「にー」
「クロード、待って」
「いーち」
「私は、その……」
「ゼロ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「やだ。無理、待たない。もう待てない」
クロードはニヤリと笑い、アンリエッタの両頬を掴んだ。
徐々に近づいてくる彼の端正な顔にアンリエッタの心臓は高鳴る。吐息が鼻にかかるくらいの距離に、アンリエッタは目をぐるぐると回した。
クロードはそんな彼女の様子などお構いなしでグイグイと迫る。
「好きだよ、アンリエッタ。今までも、これからも。ずっと君だけを愛してる」
「ク、クロード。やっぱりやめ……!」
脳の処理が追いつかない。アンリエッタはギュッと目を瞑った。
その瞬間、不意にジュース屋の小窓が大きな音を立てて開いた。
「そうですね。やめていただけると助かります」
「………ミッ!?」
「ご機嫌よう、奥様。会長」
小窓から顔を出したのはミゲルだった。彼はジトっとした目で二人の顔を交互に見ると、そのまま合図するように視線を彼らの後の方へと移した。
アンリエッタは嫌な予感がしながらも、おそるおそるミゲルの視線を辿る。
すると、自分たちの背後には人だかりができていた。
「…………して」
「そろそろ店を開けたいので乳繰り合うのなら、その辺の路地に入ってからにしてもらえます?」
「……殺して」
「あ、この辺の路地は昔に比べると格段に治安が良くなってますから、安心してもらって大丈夫ですよ」
「殺してぇ!!」
そうだった。ここは往来だった。第二区のメインストリートだった。
いくら朝早とはいえ、人通りはそこそこある。
耳をすまさずとも聞こえてくるのは、人目も憚らずイチャつくバカップルを囃し立てるような指笛と、『おめでとう』という声。それからまばらな拍手。
それらに耐えきれなくなったアンリエッタは、両手で顔を覆い隠し、その場にしゃがみ込んだ。
「死にたいぃ……」
「アンリエッタ。顔を上げて」
「上げれるわけないでしょうが!どうしてあなたは平気なのよ!」
「だってここは、俺の庭みたいなもんだし」
「意味わかんない!」
路地育ちには恥じらいというものがないらしい。ケロッとした顔のクロードは、アンリエッタと同じようにしゃがみ、彼女の手首を掴んだ。
そして彼女の顔を覆う手を開くようにして自分の方へと引き寄せると、その血色の良い艶やかな唇に噛み付いた。
「……っ!?」
何が起きたのか理解できないアンリエッタは大きく目を見開き、固まってしまう。
クロードはそんな彼女の反応に嬉しそうに目を細め、もう一度、今度はさらに深く口付けた。
期待通りのキスに湧く観客。
悲鳴にも似た歓声を上げる少女、指笛を吹く青年、もっとやれと煽る酒瓶を持ったおやじ、子どもの目を塞ぐ母親。
様々な人に見守られながら、アンリエッタはぐるぐると目を回し、そのまま失神した。
完全なるキャパオーバーである。




