30:告白日和(2)
クロードは怒りに任せ、バンッとテーブルを叩いて立ち上がった。
その瞬間、食堂の空気は一気に張り詰めた。
「フランツ、馬車の用意を。30分後には出る」
「かしこまりました」
「ニコル、30分以内に主人の支度を終わらせろ。服はシンプルなものを選んでくれ」
「お任せください」
クロードは次々に指示を出し、皆が彼の指示に従い動き始めた。
「さあ、奥様。お部屋に戻りましょう」
「ニコル……?」
アンリエッタの椅子を引き、部屋へと誘導するニコルは心なしか怒っているように見える。
そしてそれはおそらくフランツも同様で、アンリエッタは困惑した表情を浮かべた。
「この後、すぐに街に行く。第二区のメインストリートだ。アンリエッタ、…………もちろんついてくるよな?」
クロードは部屋を出て行こうとするアンリエッタの背中に向かって、話しかけた。
その声色はまだ怒りの感情を纏っていて、アンリエッタは振り返ることができず、小さく頷くのが精一杯だった。
だから、彼がどんな顔をしていたのか、彼女は知らない。
「流石に、旦那様が不憫でなりませんわ」
身支度を済ませ、エントランスに降りた主人にニコルはそっと耳打ちした。
お喋りな彼女が着替えの最中、ひと言も話さなかったことも相まって、その言葉がやけに重たく感じる。
「不憫って、どうして?」
「奥様はご自身の発言を顧みられた方がよろしいかと」
ニコルはジトっとした視線をアンリエッタに向けた。
アンリエッタはわけがわからず、怪訝に眉を顰める。
だが、その何もわかっていないところがダメなのだ。ニコルは「はあー」と少し苛立ったように大きなため息をこぼした。
「昔、ペリゴール家が傾いた時、使用人はみんな辞めて行きましたよね。何故だかわかりますか?」
「あのままペリゴールのお屋敷にいても満足なお給料をもらえないからでしょう?」
「いいえ?違います。あのまま全員がペリゴールに残れば、旦那様とお嬢様は何が何でも給金を確保しようとして無理をなさるからです」
ニコルはあの時、屋敷を去っていく先輩メイドたちに言われた。『あの不器用で優しいお嬢様を守ってくれ』と。
「皆、お嬢様を慕っていました。理由なんて人それぞれです。お嬢様のことですから、どうせ気付かぬうちにたらし込んでいたのでしょう。皆、間違いなくあなたに恩義を感じていました。好きであなたから離れたわけではありません。皆、断腸の思いで出て行ったのです」
「ニコル……」
「私は何度も言いました。卑屈になるのはお辞めなさいと。見えているものを見ないふりして、聞かなくていい言葉ばかりを拾って、まるで自分が価値のない人間であるかのように思い込むのはあなたの勝手ですが、それに我々を巻き込まないでいただきたい。私や旦那様の、アンリエッタ・ペリゴール様に対する感情を否定することは、例えあなた自身であっても許されません」
ニコルは冷たく言い放つ。彼女の突き放すような態度にアンリエッタは泣きそうになった。
だが、今のニコルはそんな彼女には優しくする気にはなれなかった。
アンリエッタが卑屈になるのは愛されるのが怖いからだ。過去の経験から、どうしても裏切られる可能性を考えてしまう彼女は、傷つくことを恐れ、卑屈な考え方をして向けられる好意に気づかないフリをすることで自分を守っている。
ニコルはそんな主人の心を十分に理解しているつもりだが、それでもそろそろ素直になって欲しい。ちゃんと、自分の価値を正しく理解して、他人からの好意を素直に受け入れて欲しい。
幸せになってほしい。
ニコルは階段から降りてくるクロードを確認すると、大切な主人を彼に託すようにそっとアンリエッタの背中を押した。
「行ってらっしゃいませ、奥様」
*
無言のクロードにエスコートされ、馬車に乗り込んだアンリエッタは彼と目を合わせることも出来ぬまま、目的地に到着するのを静かに待った。
丘を下り、しばらくのどかな田園風景を眺めていると、あっという間に商業の街である第二区の中心部までたどり着いた。
クロードはそこで馬車を止めるよう指示を出し、アンリエッタを降ろした。
「手を」
「あ、ありがとう」
「しばらく歩くが、大丈夫か?」
「うん。大丈夫……」
馬車から降りたアンリエッタは差し出されたクロードの手を取った。
相変わらず目線が合わないが、握る手の体温は少し高く感じた。
二人は無言のまま、手だけはしっかり繋いで第二区の大通りを北に向かって歩いた。
街並みは第一区に近づくにつれて、大衆食堂や古本屋などの庶民的な店が減り、高級ブティックや宝石店などが増え始める。
そしてそれに比例して鼻につく、むせかえるような香水の香りが徐々に濃くなり始めた。社交界でよく嗅いでいた、苦手な匂いだ。
(どこに向かっているのかしら)
クロードとのデートではよく、第一区に行くことが多かったが、そこでのデートにはあまり良い思い出がない。
貴賤結婚をする二人など、貴族社会では嘲笑の的だからだ。
アンリエッタは何となく不安に感じて、クロードの方を見上げた。
すると、彼もこちらを見下ろしており、バチッと目が合う。
クロードはすかさずそっぽを向き、不機嫌そうに「何だよ」と呟いた。
「何見てるんだよ。見るなよ」
「あなたが見ていたんでしょう」
「俺は見てない」
「見ていなかったら目が合うはずがないと思うのだけれど?」
「だったら君も俺を見ていたことになるな?だって目が合うんだから」
「私はあなたを見たんじゃないわ。そこの看板を見たの」
「だったら俺も………」
そこまで言って、クロードはふと、我に帰った。
自分は何故こんなくだらない言い争いをしているのだろう。子供じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい。
「……やめよう」
クロードは空を見上げ、小さくため息をこぼした。そのため息に、アンリエッタはビクッと体を強張らせる。
「アンリエッタ」
「な、何………?」
「急に出かけようだなんて言って悪かったな」
「べ、別に私は……」
「でも、どうしても君をここに連れてきたかったんだ」
クロードはそう言うと、とある店の前で足を止めた。
そこは馬車の荷台二つ分くらいの小さな路面店で、通路に面したカウンターの上には絞り機と綺麗にディスプレイされた沢山のフルーツが並んでいる。
「ここは、ジュース屋さん?」
「正解」
「店の名前は……、プティ・アンジュ……?」
アンリエッタは、白とピンクの縦縞模様が特徴的な可愛らしい看板を見上げ、首を傾げた。
「……プティ・アンジュってあなたの商会では?」
「そうだよ。ここは俺の店だ。商会プティ・アンジュの一号店。……なあ、アンリエッタ。この場所に見覚えはないか」
「見覚えといわれても……」
ここは一区と二区の境。裕福だったころのアンリエッタは一区で暮らしていたから、二区にはパレードでもない限り、来たことはないはず……。
「……ん?パレード?」
アンリエッタはハッと気がついた。
「もしかして、ここって……」
「ああ、そうだよ。ここは君と店を出した場所だ」
クロードは懐かしそうに目を細めた。
「俺にとってここは全ての始まりの場所で、一番大切な場所」
「クロード……」
「俺さ、人の一生は生まれた瞬間に決まるものだと思っていたんだ。貴族家に生まれた子は順風満帆な人生を送って、路地で生まれた子はロクデモナイ人生を送るものなんだって。だから、流れに身を任せて決められた人生を歩んでいくしかないんだって、ずっとそう思っていた。……でも違った。人生っていうのは変えられるんだ。自分次第でどうにでもなるんだ」
「そう、ね……」
「そして、俺にそれを教えてくれたのは君だよ。アンリエッタ。君が俺のこのクソみたいな人生を変えてくれたんだ」
この世界に光があることを知らなければ、クロードは今も暗闇の中でひとり、佇んでいただろう。
孤独であることに恐怖する心すら育つことなく、誰かを愛する喜びも知らず、誰かを傷つけ、傷つけられながらドブのような人生を歩んでいたはずだ。
アンリエッタが光を示してくれたから、クロードはそこに向かって走ることができた。
アンリエッタが道標になってくれたから、暗闇から抜け出すことができた。
「正直、君には聞かせられないような事も沢山してきたよ。資金集めのために、この顔を利用して下衆な商売をしたこともあった。……俺は、俺みたいな人間が君に相応しいなんて思っていない。どれだけ金を稼いでも、どれだけ高い服を来て、宝石を身につけても、この体に染みついたドブの匂いは消えない。そんな男が、君の夫になりたいだなんて身の程知らずも良いところだ。わかってる。全部わかってるんだ。でも……!でも……、それでも愚かな俺はどうしたって君が好きなんだっ!」
クロードはアンリエッタの手をギュッと握り、懇願するような瞳で彼女を見据える。
「……本当はもう一度会えたらいいな、くらいにしか思っていなかった。でも思いがけず、君と第三王子の婚約が解消されたことを知って、つい欲が出た。もしかしたら、今なら君の隣に立てるんじゃないかと思ったんだ」
「クロード、私……」
「身の程知らずだと罵ってくれていい。俺のことが嫌いなら、それでもいい。だけど、どうか否定しないで。君のことを好きなこの気持ちは否定しないでくれ。君を想うこの心だけは絶対に勘違いじゃないから」




