3:子作りは義務(2)
短く切り揃えられた真っ黒な髪に、毎度不機嫌そうにこちらを見つめるオリーブグリーンの瞳。
この顔を見るたびに、アンリエッタはいつも惨めな気持ちになる。
「ご機嫌よう、クロード・ウェルズリー」
アンリエッタはベッドから降りることなく、クロードに笑顔を向けた。
彼女のその態度に、クロードの眉間の皺はさらに深くなる。
「今はもうクロード・ペリゴールだ」
「あら、そうでしたわね?」
「あと、ご機嫌はよくない。主に君のせいで」
「あら、それはごめんなさいね?」
「……悪いなんて思ってないだろ」
「ええ、もちろん」
満面の笑みで返してやる。アンリエッタにおちょくられたクロードはよほど悔しかったのか、子どもみたいに地団駄を踏んだ。
「ちょっと。埃が立つから暴れないでちょうだい」
「くそ!本当に可愛げがないな!君はいつからそんな風になってしまったんだ!」
「生まれた時からですが、何か?」
「ほんと、ああ言えばこう言う!!」
「口喧嘩では負け知らずですの。ごめんあそばせ」
「そ、そんなんだから友達の一人もいないんだ!」
「なっ!?失礼ね!友達くらいいるわよ!」
「ほう?一体どこに?」
「……それは!……えっと」
「ほら、いないじゃないか」
「い、いるわよ!ほら、あそこに!」
痛いところ突かれたアンリエッタはごまかすように、クロードの背後に立つニコルを指差した。
ニコルは主人が指差す先をたどり、後ろを振り返る。しかしそこには無駄に煌びやかな扉しかない。
「……えーっと?」
理解が追いつかず、しばらく考えたニコルはゆっくりと室内を見渡してようやく気がついた。
主人の必死の眼差しに。
「わ、私!?」
「……そうよ。貴女よ、ニコル。私の大親友」
「えぇぇ!?」
「おい、アンリエッタ。彼女はどう見ても使用人だが?」
「どう見たって友達でしょうが」
「どこの世界に給金をもらう友達がいるんだよ」
「別にニコルはお金払わなくてもそばにいてくれるわよ。そうよね?ニコル」
「え?え?」
「ね!?ニコル!?」
「も、ももももちろんですわ!」
「ほらぁ!」
主人の圧力に負けたニコルは思わず頷いてしまった。どう見ても言わせただけだが、アンリエッタは「ほら見ろ」とドヤ顔でクロードを見上げる。
クロードはそんな彼女を鼻で笑った。
「……な、何よ」
「では今後、彼女の給料は無しにしよう」
「え!?」
「いや、それは……」
「トモダチ、なんだろう?ならば金など要らないじゃないか」
クロードは勝ち誇ったかのように、ニヤリと口角を上げた。
ニコルは流石に無給は困ると涙目で訴えた。
「ぐぬぬぬぬ」
悔しい、とても悔しい。これはもう負けを認めるしかない。そうでなければニコルの生活がままならない。
財布を握られるということはこういうことだ、と教えられた気分だ。
アンリエッタは悔しさを抑えるようにグッと奥歯を噛み締めながら立ち上がり、クロードの胸ぐらを掴んだ。
「友達の一人もいない貧乏人が生意気言って申し訳ございませんでしたぁ!!」
「いや、そんな顔で謝られても。せめて少しくらい申し訳なさそうにしろよ」
「これが私の精一杯よっ!」
アンリエッタはクロードの胸を思い切り押した。
だが鍛えているせいか、彼はびくともしなかった。そういうところが、彼女をより惨めにする。悔しさで頭がどうにかなりそうだ。
(だめだ、一旦落ち着こう)
この男を前にするといつも心が乱される。冷静になれない。こんなの、伝統あるペリゴール家の人間としてふさわしくない。
(アンリエッタ・ペリゴールはこんなふうに声を荒げたりしない。くだらない言い争いなんてしない……!)
アンリエッタは大きく深呼吸をすると、再びベッドに腰掛けて足を組んだ。
「それで?何の用?」
「何の用って……」
「まさか本当に子作りをしに来わけでもないでしょう?」
今日の結婚式での態度に対する文句を言いにきたか、それとも今日の結婚式に参列していた貴族の情報が欲しいのか。
どちらにせよ、今夜はもう遅いので明日にしてほしい。
アンリエッタがそう言うと、クロードは気まずそうに視線を床に落とした。
ほのかに頬が赤い。これは予想外の反応だ。
「え……?まさか……?」
「……そのまさかだよ、悪いか」
「嘘でしょ……」
アンリエッタの視線が痛いのか、クロードの顔はみるみるうちに赤くなる。
どうやら本当に子作りをしに来たらしい。律儀に。伝統に則って。
「私、今日したって子どもはできないって伝えたと思うけれど?」
「聞いたけど……!でも、来ないわけにはいかないだろッ!?」
「どうして?このフロアは人払いしてるんでしょ?」
「……それは、そうだけど」
「だったら別に誰が見てるわけでもないんだし、来ても来なくても何も変わらないわよ」
「二、ニコルが見ているだろう」
「ニコルは主人のベッド事情を触れ回るようなことはしないわ。ね、ニコル?」
「もちろんです!!」
「いや、しかしだな……」
「何が問題なの?まさか、あなたは下世話な人たちに『堅物女との初夜はどうだった?』って聞かれて、軽く嘘もつけないほど正直者だった?」
そんなはずないだろう、とアンリエッタは嘲笑を浮かべる。
息を吐くように嘘をつける人だから、一代でここまでの富を築き上げることができたのだ。この男は、その程度の嘘くらい簡単につけるに決まっている。
だから、体裁のためだけにお飾りの妻を抱くなんて無駄なことをする必要がない。
「金に成らないことに時間を費やさないのが商人なのでしょう?だったらさっさと自分の部屋に帰ったら?」
アンリエッタは犬を追い払うように、シッシっと手を振った。
不遜な態度だ。クロードはグッと眉根を寄せた。
「……金には成らないが、俺のためにはなるんだ」
クロードは低い声でボソッと呟き、険しい顔でアンリエッタに近づいた。そして、彼女の肩を軽く後ろに押した。
その不意打ちの攻撃に、アンリエッタはバランスを崩し、呆気なくベッドに背をつけた。
「ちょっ……!?」
クロードは困惑するアンリエッタの肩口に手を付き、鋭い目つきで彼女を見下ろす。
彼のこの、獰猛で熱い視線がとても苦手なアンリエッタは、咄嗟に目を逸らした。
「どうした?何故こちらを見ない?」
「眩しいからよ」
「それはつまり、灯りを消して欲しいということか?」
「ちがう!」
「ニコル、悪いがランタンの火を消して退室してくれ」
「は、はい!」
「あ、ちょ、ニコル!?」
動揺したニコルはランタンの火を吹き消した。
辺りは薄暗くなり、窓から差し込む月明かりだけが二人を照らす。
何だかすごく、落ち着かない。これは不整脈だろうか、心臓の音がいつもと違う。
今の二人がどう見えたのか、ニコルはひどく動揺した様子で「おやすみなさい!」と挨拶だけして走り去ってしまった。
アンリエッタは心の中で「裏切り者!」と毒を吐いた。
「はぁ……」
「……そんな嫌そうにため息をつくなよ」
「嫌だからため息が出るのよ」
「言っておくけどな、君が何と言おうと初夜を無事に迎えることは夫婦の義務だぞ」
「……まあ、それはそうなのだけれど」
アンリエッタはジッとクロードを見上げた。
(これは、覚悟を決めるしかないようね)
確かに、初夜が無事に終わるよう協力するのは妻の義務だ。
それにここで拒否したところで、いずれはしなければならないのが初夜。ならばいつしても同じ……。だから大丈夫。大丈夫。
(私はできる!!)
アンリエッタは大きく深呼吸をして、眼前のクロードをキッと睨みつけた。
するとクロードはプッと吹き出し、腹を抱えて笑った。
「あははっ!」
「な、何よ。笑ってるんじゃないわよ」
「いや、なんて顔してるんだよ」
「かお……?」
「まるで出征を控えた兵士のような顔だって言ってるんだよ」
「そんな顔してないわよ。適当なこと言わないでくれる?」
「そんなに怖いのか?」
「別に怖くないわ。余裕よ」
「そうか。じゃあ、何の問題もないな」
「……………え、そ、それは」
問題ないわけがない。
座学で閨の作法は習ったが、頭で理解することと実践するのはまた別問題だ。
アンリエッタはぐるぐると目を回した。
「ははっ」
「だから笑わないでってば!」
「いやぁ、初心だなと思って」
「うるさい!」
「まあ、そう心配するな。大丈夫だから。ちゃんと優しくするから。腹上死なんてさせないから」
「なっ!?」
「それに俺、結構上手いから。だから安心しろよ」
クロードはクスクスと笑いながらアンリエッタの髪を取り、毛先に軽く口付けた。
どうやら自身の失言にはまだ気づいていないようだ。
「…………上手い?」
アンリエッタはむくりと起き上がった。なんだか少し雰囲気が怖い。声も心なしか低くなった気がする。
訳がわからず、クロードは首を傾げた。
「アンリエッタ?」
「へぇ、そう。へぇ……」
上手いか下手かなんて、経験がないとわからない。それはつまり、過去にそういう行為をしたことがあるということ。
別に婚約する前の恋愛なんて自分には関係のないことだとわかっているのに、アンリエッタはなぜがとても不快な気分になった。
「やっぱり、あなたのふしだらな噂は本当だったのね?」
アンリエッタは冷めた目でクロードを見据えた。
「何言って……、あっ……!」
ようやく自分の失言に気がついたのか、クロードはあたふたと弁明を始めた。
「ち、違う!違うんだ!その、婚約してからは他の女には触れていない!断じて触れていない!」
「へぇ、そう」
「あの、昔のことだし!そもそも生きるためというか、その、どうしても必要で、それで関係を持った人は確かに2、3人はいたかもしれないけど!でもそれだけだ!誰にも心は渡さなかった!誰のことも本気じゃなかった!」
「本気じゃなかった……?」
「そう!本気じゃないんだ!」
「……ふーん?」
それは要するに、遊びで女を抱いた事があるということ。
「どのみち最低じゃない」
噂話というのは意外と正しいらしい。
アンリエッタは石像のように固まったクロードを無視してベッドから飛び降り、テーブルに用意されていたワインに手を伸ばす。
彼女の生まれた年のワインだ。
(ほんと、つくづく細かいところまで演出を欠かさない男ね。これが経験の差ってやつかしら)
顔が良くてスタイルも良くて、金持ちで気配りもできて、何より女を喜ばせる術を知っている。
きっと。さぞかしモテてきたんだろう。
多くの女と付き合って、別れてを繰り返したからこんな気配りができるんだ。
そう思うと、少し虚しい。
「……こっちは全部初めてなのに!!」
アンリエッタは勢いに任せてボトルに口をつけ、ワインを流し込んだ。