29:告白日和(1)
抜けるような青空。暑過ぎず寒過ぎない、快適な春の陽気。鼻腔をくすぐる花の香り。
そして、久しぶりすぎる予定のない休日。
まさに絶好の告白日和である。
クロードは一張羅のスーツに袖を通すと、鏡の前に立ち、念入りに髪型をセットした。
「今日は全てが上手くいく気がする」
根拠なんてないけれど、そんな感じがする。
クロードは静かに目を閉じ、昨日のアンリエッタの姿を思い出した。
上気した頬、恥ずかしがって逸らす視線。こちらのことを意識しているのは明白だった。
加えて、彼女は昨日、『キスして良いか』と聞いたら静かに目を閉じた。
「あれで俺のことを好きじゃないとか、あり得ないだろ」
クロードはビシッとジャケットの襟を正すと、新しく購入した指輪の箱をポケットに忍ばせ、颯爽と廊下へ出た。
*
「ごめんなさい」
朝食後、アンリエッタをデートに誘おうとしたクロードは、そうするよりも前に深々と頭を下げて謝られ困惑する。
「そ、それは何の謝罪?事と次第によっては、多分俺死ぬけど」
別に、今更何を言われても諦める気など微塵もないが、それでも、万が一にも、結婚を考え直したいとか、好きになれなくてごめんなさいという意味の『ごめんなさい』だった場合、とりあえず心臓は一度止まるだろう。確実に。
クロードは左胸の胸の辺りをグッと両手で押さえた。
「……何してるの?息苦しいの?」
「いや、衝撃に備えようと思って」
「そう……?」
「それで?なんの謝罪なんだ?」
「あ、あのね……」
「あー!!」
「な、何!?びっくりするから急に大きな声を出さないでよ!」
「アンリエッタ!一応、先に言っておくけど!!些細なことで俺に謝る必要なんてないからな!?君は俺の妻なのだから、この屋敷の中で何をしても良いんだ!俺の妻なのだから!」
「………え?う、うん?」
「だから、些細なことで謝る必要はないから!本当に!」
「ありがとう。でも、全然些細なことじゃないわ」
「いーや!絶対些細なことだ!そうに違いない!むしろそうであってくれ!」
「……急にどうしたの?怖いのだけれど」
「例えば……、そうだな。俺の分のイチゴタルトを全部食べてしまったとか、そんなことだろう。うん」
「…………ねえ。さっきから何を言っているの?もしかしてふざけてる?」
「ふざけてない!」
「だったら真面目に聞いて。怒るわよ?」
「…………はい。すみません」
「話してもいいかしら」
「はい、どうぞ……」
「あのね……、今朝思い出したの」
「な、何を?俺の弱点?」
「違うわよ。昔のことよ」
「昔の……」
「その……、あなたとの出会いを忘れていたこととか……色々……」
どうやら、アンリエッタは昨夜、夢の中で過去の出来事を思い出したらしい。
もじもじと話し出したアンリエッタは今まで忘れていた事が後ろめたいのか、気まずそうに目線をテーブルへと落とし、下げられていく皿を無意味に見つめた。
「ずっと忘れていたこともそうだけど、あの時、また会いに行くって言ったのに結局行かなくて……、ごめんなさい。私、あの後……」
「お、思い出してくれたのか!?俺たちの出会いを!?」
「詳しくは覚えてないけどね。ふんわりと……、何となくなら覚えてる……。本当に、なんとなくだけど……」
具体的にどんな会話をしたかは覚えていない。
ただ、名前すら聞かなかったことなら覚えている。
そして責任を取るだけの能力もないくせに救ってやるなんて言って、傲慢な態度で近づいて、彼の今までの生き方を全否定したことも覚えている。
アンリエッタはもう一度、小さく『ごめんなさい』と呟いた。
「………」
「……………」
気まずい沈黙。クロードの反応がない。
だが、反応がない代わりに、何やら鼻を啜る音は聞こえる。アンリエッタは不思議に思い、恐る恐る顔を上げた。
すると、何故か向かいに座るクロードが声も出さずに泣いていた。
「………………え?」
「そっか……、そっか……!!」
「な、ななな何!?何なの!?どうして泣いているのよ!?」
「ううっ……。嬉しい!!」
「はい?」
「君が思い出してくれて、嬉しいんだ」
「えぇ………?」
そんなに泣くほどのことだろうか。アンリエッタには理解できなかった。
だが、彼のその姿に動揺しているのはアンリエッタだけであるようで、食堂内にいるニコルもシェフもフランツも、普段通りの済ました顔をして空気のように壁際に控えている。
アンリエッタは周囲を見渡し、おかしいのは自分の方なのかと戸惑った。
しばらく静かに涙を流し続けたクロードは、フランツが差し出した塵紙で鼻をかみ、姿勢を正した。
そして真剣な眼差しで、ジッとアンリエッタを見つめた。
「な、何よ」
「なあ、ライラックの意味はわかったか?」
「……何の話?」
「俺、言ったよな?イリスに意味はないけど、ライラックには意味があるって。その意味、ちゃんと考えてくれた?」
「わ、忘れていたわ。そんなこと」
「ヒントは花言葉だ」
「……………それ、もう殆ど答えじゃない」
「それはつまり、君は答えを知っているってこと?」
「し、知らないわよ!」
「じゃあ、正解を教えてあげる」
「……やだ。聞きたくない」
「俺の初恋は君だよ、アンリエッタ。グレイスなんかじゃない。俺はあの日、俺を暗闇から救い出してくれた君に恋をした」
クロードはハッキリと言い切った。
ほんのりと赤く色づいた頬、どこか期待しているような上目遣い。彼が放つオーラ、視線、息遣いの全てが、アンリエッタを好きだと言っている。
アンリエッタは堪らず、目を逸らした。
「…………クロード、それは勘違いだよ」
「………………え」
「初恋だなんて、そんなの思い込みよ」
「……何だと?」
「あなたは私を勘違いしているわ。あの頃の私はお父様の真似をしていただけ。お父様の知恵とお父様の財産であなたのような子どもを救ったつもりになって、満足していただけ。それだけよ。私はあなたに好きになってもらえるような人間じゃない」
アンリエッタは窓の外、遠くの空を見つめて悲痛な表情を浮かべた。
「……実はね、ジュース屋さんのこと。お父様にキツく叱られたの」
あの日、アンリエッタはこっそり屋敷を抜け出したつもりだったが、父シャルルにはお見通しだったらしい。
その上でシャルルはこれも成長の過程では必要なことだと、お転婆すぎる娘の突飛な行動に口を挟むことなく、こっそりと護衛だけつけて見守ることにしたそうだ。
だが、まさか娘が路地裏の子どもを巻き込んで商売をしているだなんて思いもしなかったようで、その夜、シャルルは珍しく声を荒げて彼女を叱ったと言う。
「何故、路地の子を巻き込んだのだと言われたわ。だから私は、恵まれない少年を一人、救ってやったのだと答えた。そうしたら、お父様は私の頬を打ったの」
救ってやるだなんて、どうしてそんな傲慢な考え方ができるのだと。お前は神にでもなったつもりか、とシャルルは怒った。
彼はわかっていたのだ。様々な利権が絡み合うこの問題の複雑さを。これがただの貧困問題ではないということを。
路地の子どもを助けるには抜本的な改革を行う必要がある。そしてそれには膨大な時間と労力と金がいる。
だからこそ、ちょっと商売の仕方を教えただけで少年を救った気になっている娘が許せなかったのだろう。
シャルルはそのことを厳しい口調で、けれども子どもでもわかるように丁寧に説明した。アンリエッタは肩を振るわせ、しゃくり上げながら父の話を真剣に聞いた。
シャルルはそんな娘に説教の最後、『まさか彼に金を渡していないだろうな?』と尋ねた。アンリエッタがどうしてそんなことを聞くのかと返すと、シャルルはこう言った。
ーーー路地で子どもが大金を持っていると、必ず襲われる
その言葉を聞いた瞬間、アンリエッタはすぐに屋敷を飛び出した。
小雨が降る中、彼と出会ったあの路地へ向かうと野次馬が集まっていた。
噂話に聞き耳を立てると、聞こえてくるのは少年が一人、集団暴行を受けて亡くなったという話。どうやら強盗に襲われたらしい。
アンリエッタは亡くなった少年が警ら隊によって、路地から運び出されていくのを見た。
顔に布がかけられていたから、それが昼間の彼かどうかはわからない。
すぐに確かめれば良かったのかもしれないが、アンリエッタはそれをしなかった。
「私は逃げたの。あの少年が昼間の彼だったらと思うと、怖くて……」
だから、また会いに来るという約束を守らなかった。彼の生死を曖昧なままにして、自分は悪くないと思いたかった。
「結果的に、あの少年はあなたではなかったけれど、でもそれは結果論よ。あなたがああなっていた可能性は十分にあった」
「……」
「それなのに、こんな話を綺麗さっぱり忘れて、のうのうと気楽に生きてきたの。幻滅したでしょう?私はそういう、薄情な人間なのよ」
きっとこんな人間だから、母は簡単に娘を捨て、婚約者も友達もみんな離れて行ったのだろう。
アンリエッタは自嘲するように呟いた。
「あの時はごめんなさい。自己満足に付き合わせてしまって」
「………」
「……私はあなたを救ってはいない。あなたが路地を抜け出せたのは全てあなた自身の努力のおかげよ。私は何もしていない。……だから、私のことが好きだというのはきっとあなたの勘違いよ」
恵まれない子どもたちを保護し、継続的な仕事を与えることで現実的な救済をしたクロードと、その場限りの思いつきで行動して救済した気になっていた自分。
アンリエッタは自分と彼の間に大きな溝がある気がしてならない。人としての価値に雲泥の差がある気がしてならない。
所詮自分は、虚勢で塗り固めた紛い物。本当に気高いのはクロードのほうだ。
「ごめんなさい……」
アンリエッタはまた小さく呟くと、そっと視線をクロードの方へと戻した。
そしてビクッと肩を跳ねさせた。
クロードが見たこともないような形相でこちらを睨みつけていたからだ。
「クロ……」
「言いたいことはそれだけか?」
地を這うような低い声。これは明らかに普段の戯れのような口喧嘩とは違う、紛れもない本物の怒りからくる声だ。アンリエッタは背筋に冷たいものが走るような感覚を覚えた。