28:本当の初対面(4)
翌日。大通りの中央広場に聳え立つ時計台が午前8時を知らせる頃。クロードは約束通り、昨日の場所に赴いた。
別にあの少女を信じたわけではない。恵まれた環境にいるやつの気まぐれだと思っている。
きっと彼女は来ない。自分なんかに会うために来るわけがない。
ただ、今日を生きるのに必死だったクロードは『また明日』なんて言われたことがなかったから、つい来てしまった。
『どうせ暇だし』
来るわけないけど。わかっているけれど、しばらく待ってやろう。
クロードは小さく息を吐き、昨日の木箱に腰掛けた。
『……なんか、気分がいいな』
朝の空気はこんなにも澄んでいただろうか。
道端に咲く花はこんなにも美しかっただろうか。
忙しなく行き交う人々の顔は、こんなにも輝いていただろうか。
今まで白黒にしか見えていなかったクロードの世界は、いつのまにか鮮やかに色づいていた。
『ごめん、待った!?』
しばらくして昨日の少女が息を切らせてやってきた。
申し訳なさそうに謝る彼女に、クロードは目を丸くする。
まさか本当に来るとは。
『本当に来たのか……』
『……?来るわよ。約束したじゃない』
『いや、まあそうなんだけど、……』
『それより、早く行こう』
『どこに?』
『私たちのお店よ』
『はい?』
少女は相変わらず強引で、説明することなくクロードの手を引いて通りの反対側へと走り出した。
昨日とは違い、高い位置で一つに結ばれた彼女の髪は、走るたびにふわりと風に靡いて、クロードの視線を独占する。
クロードはそんな彼女の後ろ姿をジッと見つめ、導かれるままに大通りを駆け抜けた。
『何だ?これ』
『私たちの店よ!素敵でしょう?』
目的の場所についた少女は自慢げに両手を広げ、その“店“とやらを披露した。
ビクニック用のシートの上に4つの木箱が置かれている。木箱の上には手作りのメニュー表と大量のオレンジ、それから瓢箪と搾り器が置かれており、まるで昨日のジュース屋のようだ。
もっとも、クオリティはおままごとの域を出ていないけれど。
『まさか、ここで店をするのか?』
『さっきからそう言っているけど?』
少女はキョトンと首を傾げた。
彼女の反応に、クロードは大きなため息をこぼす。
こいつは何もわかっていない。
『あのさ、知らないようだから教えてやるけど、建国祭で露店を出すには許可が必要なんだよ』
建国祭では多くの商人が露店を出す。トラブルを避けるためにも、街の警ら隊と商店街の組合に出店料を払い、営業許可をもらわねばならないのだ。
そしてその営業許可の申請は建国祭の一週間前には締め切られている。だからここで商売をすることはできない。
クロードがそう教えてやると、少女は人差し指を立てて、得意げにチッチッと舌を鳴らした。
『よく知っているわね。でも甘いわ。そういうことは大抵の場合、権力でどうにかなるのよ』
『何言って……』
『これ、なーんだ?』
少女はワンピースのポケットから一枚の紙を取り出した。
その紙には営業許可証と書かれており、下の方にはしっかりと商店街組合と警ら隊の印鑑が押されていた。
『おま……、これって……』
『営業許可証よ。ツテがあってね。特別に許可をもらったわ』
『特別って……。お前、何者だよ』
『……そういえば名乗っていなかったわね。私はアンリエッタよ。アンリエッタ・ペリゴール』
『いや、名前を聞いた訳じゃねーんだけど』
『じゃあ、何を聞いたの?あ、もしかして立地の話?……まあ確かにここは端っこだし、立地はあまり良いとは言えないけど。でも、ものは考えようよ?例えば……、そうね。あそこのお菓子屋さんのスコーンは美味しいけれど、口の中の水分が持っていかれるの。でも飲み物を売っているお店の多くは反対側の通路だから、呼び込めばきっと、あそこでスコーンを買ったお客はこちらに流れてくるわ』
少女は数軒隣の店を指差し、自身ありげに語る。
本当に人の話を聞かないやつだ。クロードは呆れたように肩落とし、『もういい』と呟いた。
『それで?何をするんだ?アンリエッタ』
『ジュース屋さんよ!今朝、そこの八百屋で材料は揃えておいたわ』
『……なるほど。俺はそれを手伝えば良いわけね』
『え?違うわよ?』
『店主はあなた。私は従業員よ』
『はい?』
『言ったでしょう?生き方を教えてあげるって』
生きるためには金がいる。資本主義の基本だ。
アンリエッタは金の稼ぎ方を教えてやると言って、ニッと歯を見せた。
そして通りに人が増え始めると、前に出て呼び込みを始めた。
もちろん、そう簡単に人は止まってくれない。きっと、子どもだけで営む屋台は怪しく見えるのだろう。周囲のお店が繁盛し始めても、ここだけは閑古鳥が泣いていた。
それでも、アンリエッタは諦めずに通行人に声をかけ続けた。
額に汗を滲ませ、必死にジュースを売り込むお嬢様の姿は、クロードにはとても滑稽に見えた。何を馬鹿なことをしているんだと、嘲笑ってやりたかった。そんなチマチマしたことをしなくても、金を手に入れる方法はいくらでもある。そう思った。
けれど、どうしてだろう。クロードは彼女を笑うことができなかった。
『お客様第一号よ!!オレンジジュースを一つお願いします、店長さん!』
しばらくして、アンリエッタは一人の男性を連れて来た。
その男性はクロードを見ると、見覚えのある財布を見せて優しく微笑んだ。
『昨日ぶりだね、少年』
『あ……、昨日の……』
『店を始めたのか?』
『あ……いや、これは……』
『商売は難しいだろう?』
『え……?』
『俺たちも、こうやって汗水垂らしながら必死に金を稼いでるんだ』
男性はそう言うと、オレンジジュースと引き換えに、銅貨をクロードの手のひらに乗せた。
そして、真っ当に生きるんだぞと言って、また豪快にクロードの頭を撫で回して颯爽と去って言った。
『……………気づいていたんだ』
どうやら彼は、クロードが財布を盗んだということに気づいていたらしい。けれど、気づかないフリをしてくれていたのだ。
警ら隊に突き出しても良かったはずなのに。罵って、ボコボコに殴ったって誰も彼を責めないのに。
きっと、クロードの行く末を案じてくれたのだろう。
クロードは遠くなる彼の背中に深々と頭を下げた。
そこからはクロードも、アンリエッタと一緒に呼び込みをした。
すると、昼過ぎには途切れることなく客が集まるようになった。
慌ただしく過ぎて行く時間。クロードは久しぶりに、時間が経つのを早いと感じた。
ジュースを作り、客に渡し、お金を受け取る。ただそれだけのことを繰り返しているだけなのに、楽しいとも感じた。
気がつくと、クロードはとても良い笑顔でお客さんに『ありがとう』と言っていた。
『おつかれさま!』
最後のジュースを売り切ったのは、午後二時を過ぎた頃だった。
やり切った爽やかな顔をしたアンリエッタは、額の汗を拭うとエプロンを外し、お金を数え始めた。
そして合計金額を紙に書き、隣に果物や屋の領収書を並べてクロードに見せた。
『見て。こっちが、今日買った果物の代金。それから、こっちが今日ジュースを売って得たお金』
『……おう』
『この数字からこの数字を引くと、こうなる。これが今日の利益よ』
『りえき……』
『今日お店をして、増えたお金ってこと』
アンリエッタは銅貨を並べ、商売の仕組みを簡単に説明した。
クロードはそれを真剣な眼差しで聞いていた。
『お金はね、こうやって増やすの』
得意げな顔でそう言うと、アンリエッタは今日の売り上げを全てクロードに渡した。
『このお金、あなたに預けるわ』
『……預ける?』
『そのお金を開業資金にして、商売を始めるの!営業許可は今日の分しか取れなかったから、ジュース屋さんはもう出来ないけど、今度はもっと別の商売を考えましょうよ!ね?どう?』
『どうって言われても……』
『あなた、いつもどこにいるの?』
『昨日の路地裏だけど……』
『じゃあ、明日……は無理だけど、また近いうちに路地裏を覗くわ!それでいい?』
『それでいいって、お前……。路地には来ないほうがいいぞ?』
『大丈夫よ。今日は仮病使って家を抜け出して来たから一人だけど、次はちゃんと護衛を連れてくるから!」
アンリエッタは相変わらず強引に、また約束を取り付けた。
そして、『私が絶対にあなたを路地裏から救い出してあげる』と言い切った。
『変なやつ……』
今まで、哀れみの視線を向けられることはあった。
物乞いをすると、可哀想にと慈悲を与えてくれる人はいた。
けれど、実際に手を差し伸べて陽の当たるところまで引っ張っていってくれる人は一人もいなかった。
自信満々にニヤリと笑い、手を差し伸べてくるアンリエッタが、クロードにはとても眩しく見えた。
網膜が焼けそうになるほどの強い光を放つ彼女から、目が離せない。
クロードはその日、初めて天使は実在することを知った。
*
その後、結局アンリエッタがクロードの前に姿を表すことは一度もなかった。おそらく、親が路地裏に行くのを止めたのだろう。彼女の身分を考えれば当然のことだ。
クロードはきっともう、アンリエッタとは会えないだろうと思った。
でももし、万が一にももう一度会えることがあったなら、その時は恩返しがしたい。預かっているお金を返して、自分の力で稼いだ金で彼女にプレゼントを贈りたい。高貴な彼女の隣に、胸を張って立てるような男になりたい。そう強く思った。
だからクロードは、何度も心が挫けそうになりながらも、必死に努力して今の地位にまで上り詰めた。
「まさか、結婚できるなんて思いもしなかった」
ワイングラスを片手に、クロードはしみじみと呟いた。
新聞でアンリエッタと第三王子の婚約解消を知ったあの日。クロードは衝動的に、ペリゴール家の門を叩いた。
今思い返してみても、最悪な求婚だった。それまでずっと、遠すぎる存在として、見上げるだけしか出来なかった人に手が届くとあって、頭がおかしくなっていた。
自分のことを覚えていない彼女に、あんな風に求婚しても怖いだけだということにも気づけないほど、舞い上がっていた。
「プロポーズ、やり直そうかな」
そうしたら、アンリエッタは好きと言ってくれるだろつか。
クロードは夜空に浮かぶ星々に、そっと手を伸ばした。
そして星を掴むようにギュッと拳を握った。
「今でも十分幸せだけど、願わくば、君の心が欲しいよ。アンリエッタ」




