27:本当の初対面(3)
父は初めからおらず、母らしき女も気がついたらいなくなっていた。
親の愛というものを知らずに育ったクロードは、周りを見て生き方を学んだ。
泥水を飲んでも死なないこと。食べ物は飲食店のゴミ箱を漁れば手に入ること。
欲しいものは奪い取ればいいこと。気に食わない奴は殴って黙らせればいいこと。
腕力のある者には逆らわないこと。殴られる時は抵抗しない方が早く終わること。
それから、自分以外を信じてはいけないこと。
全部、周りの大人を見て学んだ。
当時のクロードは、それが世間一般の常識とは大きくかけ離れていることを知らなかった。
……いや、違う。本当は知っていた。
自分がしていることが悪いことだということには気づいていた。ただそんな事など、どうでもよかっただけだ。
だって、常識なんてものを持っていたところで腹の足しにもならない。
路地裏では弱い奴から死んでいく。善良なやつから死んでいく。
クロードは死にたくなかった。だから自ら闇に染まり、悪事を働いた。
そうやって生きてきて、13年目の春。
彼は、太陽のように眩しい一人の女の子に出会った。
あれは、よく晴れた日曜日。毎年、春になると首都で開催される建国祭でのことだ。
抜けるような青空の下で行われる王族のパレードと、見物客相手に商売をする露店でごった返す第一区の大通りで、クロードはとある男性のポケットから財布を盗んだ。
男性はパレードに夢中で気がついておらず、クロードはしめしめと思いながら盗んだ財布を懐に隠し、人混みを掻き分けてそそくさと路地裏へ戻ろうとした。
だが、しかし。路地に消えようとしたその時、彼は一人の少女に声をかけられた。
『待ちなさい』
手入れの行き届いた艶やかな蜂蜜色の髪に、穢れのない透き通った群青の瞳。
険しい顔でクロードの細く汚れた腕を掴む少女は、服装こそただの街娘のようであったが、その佇まいから明らかに高貴な身分の子どもであることが窺えた。
クロードは少女の手を力一杯振り解くと、キッと彼女を睨みつけた。
『なんだよ』
『何だよ、じゃないでしょ。盗んだものを出しなさい』
『はあ?お前には関係ないだろう』
『関係ないけれど、見過ごすわけにはいかないわ!』
少女は振り払われた手でクロードの腕をもう一度掴むと、そのまま彼の腕を捻り上げた。
『いててて!?』
『観念なさい!』
栄養失調気味のクロードは、十分な食事を取って健康的な生活をしているであろう少女に腕力で劣っていたようで、あっさりと組み敷かれ、盗んだ財布を奪われてしまった。
『何すんだよ!!痛いじゃないか』
『あなたが素直に渡さないからでしょう?ほら、さっさと着いて来なさい』
『あ、おい!!』
少女は財布についた汚れを払うと、クロードの腕を引き上げ、強引に路地から連れ出した。
そしてパレードの人混みを掻い潜り、先ほどの男性のところまでやってきた。
『……最悪だ』
クロードは自分の悪事をバラされると思い、咄嗟に頭を庇うようにして疼くまった。
財布を盗んだことがバレたら、屋台でパンを盗んだ時の比じゃないくらいに殴られるだろう。そう思ったのだ。
だが、少女はそんなクロードを見下ろし、首を傾げた。
『何をしているの?』
『あ?』
『……睨まないでよ。まあ、いいわ。とりあえず立ちなさい』
『はぁ?』
『いいから』
少女は不思議そうにしながらも、強引にクロードを立ち上がらせ、男性に声をかけた。
『あの、すみません。これ、お兄さんのお財布ではないですか?』
少女が声をかけると男性は振り返り、『ああ、そうだけど……』と怪訝に眉を顰めた。
なぜ子どもが自分の財布を持っているのかと疑問に思ったのだろう。もう一人の子どもは明らかにストリートチルドレンだし、もしかしたら盗まれたかもしれないと思ったのかもしれない。
アンリエッタは疑いの視線を受ける彼に、ニコッと微笑んでクロードを紹介した。
『彼が拾ってくれたんです。でも誰のものかわからなくて困っていて……』
『……え?』
『私、さっきそこの露店でお兄さんが果実水を買うところを見ていたので、財布の柄を覚えていて。それで、もしかしたらと思って声をかけさせてもらいました』
『……おお!そうかい!それはどうもありがとう!』
先ほどまで怪しんでいた男性はパッと朗らかな表情になり、クロードの頭を豪快に撫でた。
長らく水浴びもできていないのに、躊躇することなく自分に触れた挙句、その事を嫌がるそぶりもない彼に、クロードはただただ困惑するばかりだった。
『ありがとな!助かったよ!』
『……』
何と返せば良いかわからない。ありがとう、なんて生まれて初めて言われた。
クロードは俯き、唇をキュッと真一文字に結んだ。
すると、少女は彼の耳元で囁いた。
『こういう時は、"どういたしまして"と言うのよ』
『……どう、いたしまして』
クロードは言われるがまま、男性に言葉を返した。
すると、その男性は満足げにうんうんと頷き、二人に果実水をご馳走してくれた。
二人は男性に別れを告げ、パレードの人集りの後ろの方で、木箱で作られた簡易ベンチに並んで座って果実水を飲んだ。
初めて飲んだ果実水は少し酸味のある爽やかな甘さで、クロードはあっという間に飲み干してしまった。
『おいしいね』
『……ああ』
誰かに感謝されることも、誰かに優しく頭を撫でられることも、全部が初めてだったクロードは呆然としたまま空を見上げる。
近いはずの歓声はどこか遠く聞こえ、心ここに在らずという感じだ。
さっきからずっと、心がそわそわして落ち着かない。
『ありがとうって、初めて言われた』
『そうなの?』
『ああ。言われた事ない』
『ふーん。……じゃあさ、今どんな気持ち?』
『どんな?』
『嬉しい?悲しい?辛い?楽しい?』
『………嬉しい。でも、ちょっと苦しい』
あの“ありがとう”は本来貰えなかった言葉だ。
だから、感謝されたことに対する嬉しさはあれど、いまいち素直に喜べない。
『……なあ、どうして嘘をついたんだ?』
あの財布は拾ったんじゃない。盗んだのだ。
それなのに、どうしてこの少女は彼にその事を伝えなかったのだろうか。クロードは不思議そうに尋ねた。
すると少女はクロードと同じように空を見上げ、呟いた。
『何となくよ。生き方を知らないのなら、情状酌量の余地はあるかなと思ったの』
『何だそれ』
『ねえ。あなた、明日の予定は?』
『予定なんてあるわけないだろ』
『じゃあさ、明日の朝8時。ここに来てよ』
『はあ?何でだよ』
『いいから!ね?』
少女は果実水を飲み干すと、木箱から飛び降りてクロードの正面に立った。
そして彼の顔を覗き込み、ニッと歯を見せて笑った。
『この私が、あなたに生き方を教えてあげる』
『生き方?』
『そうよ。生き方!本当は今教えてあげたいのだけど、私今は手持ちがないのよね』
『何言って……』
『だから、今日は解散ね。そろそろお父様も心配してるだろうし、私もう行かなきゃ』
『あ、おい!』
『じゃあ、また明日ね!約束よ!』
少女は自分の言いたいことだけ言って、クロードの前から去って行った。