25:本当の初対面(1)
皆が出て行き、急に静かになった部屋に取り残されたアンリエッタはピンクダイヤの指輪を、そっと宝石箱に戻した。
もう陽が落ちてあたりが暗くなったせいだろうか。彼女の後ろ姿はどこか寂しそうにも見え、クロードは声をかけるのを躊躇った。
するとアンリエッタはくるりと振り返り、「ごめんなさいね」と小さな声で謝った。
何の謝罪なのかわからないクロードは首を傾げた。
「それは何に対する謝罪だ?」
「貴方の初恋の人に怪我をさせてしまったことよ。一応謝っておこうと思って」
今のクロードがグレイスのことを特別に想っていないとしても、彼女が彼にとっての大切な初恋の人である事実は変わらない。
アンリエッタは、自分がもっと上手く立ち回り、解決できていれば彼女が自傷行為をすることもなかったかもしれない、と弱々しく呟いた。
アンリエッタは今回のことについて、自分が悪かったとは思っていない。だが、それでも後悔が全くないわけでもないらしい。
「傷が残らなければ良いけれど……」
アンリエッタはそう言って小さくため息をこぼした。多分、本当に心配しているのだろう。
だが、クロードにとってはそんなこと、どうでも良かった。
「…………はああああ」
まるで腰を抜かしたかのように、情けない声をあげてその場にしゃがみ込むクロード。
アンリエッタは突然の彼の行動に困惑した。
「ミゲルが言っていたのはコレかぁ」
「え、どうしたの?気分でも悪い?」
下を向いたまま顔を上げない彼に、アンリエッタは手を伸ばす。
するとクロードはその手を掴み、自分の方に引き寄せた。そして、グッと顔を近づける。
彼のオリーブグリーンの瞳に映り込む自分の姿が確認できるくらいの距離感に、アンリエッタは焦った。
「ちょ、引っ張らないでよ!危ないじゃない!」
「違うから」
「何がよ!」
「初恋はグレイスじゃない」
「だから何、……………え?」
「俺の初恋はグレイスじゃないよ」
「そ、そうなの?」
「どうしてそんな勘違いをしているのか、本当に謎なんだけど」
「だ、だって、昔言ってたじゃない。今でも13歳のときに出会った初恋の女の子のことが忘れられないって。だから、てっきりグレイスのことだと……」
「グレイスと会ったのはそれよりも前だよ。子どもの頃に何となく連んでる時期があっただけ。その後、俺は別の路地裏に移動して会うこともなくなったんだけど、商会を立ち上げて間もない時期に再会したから、一緒に働かないかと誘ったんだ」
「うそ。じゃあ私の勘違い……?」
クロードは変な誤解をされては困ると、ハッキリと否定した。
あれだけ悩んでいた事が勘違いであると知ったアンリエッタは、微かに頬を赤く染めた。
何だか、ものすごく逃げ出したい気分だ。恥ずかしい。
「嫉妬したのか?」
「……してない」
「今の間は図星の時の間だ」
「都合よく解釈しないで」
クロードはニヤニヤとした顔でアンリエッタを見上げる。アンリエッのはそんな彼に目潰しでも食らわせてやりたくなった。実に腹立たしい顔だ。
「その顔やめて。ニヤニヤしないで」
「仕方ないだろう。嬉しいんだから」
「何を喜ぶ事があるのよ」
「だって嫉妬してもらえたんだぞ?普通は喜ぶだろ」
「妻の嫉妬に喜ぶなんて最低よ」
「あ、今嫉妬だと認めたな?」
「……なっ!?」
自分の失言に気づいたアンリエッタは両手で口元を覆った。
最悪だ。認めてしまった。
アンリエッタは悔しそうにクロードを睨む。だが、その顔すらも彼にはご褒美だった。
クロードは掴んだ腕を離し、その手をアンリエッタの顔に伸ばす。そして、撫でるようにそっと指先だけ、頬に触れた。
「ちょ、くすぐったいからやめて」
「なあ、アンリエッタ」
「な、何よ」
「イリスに意味はないよ。………でも、ライラックにはちゃんと意味があるから」
「……それ、どういうこと?」
「わからないならいい」
「良くないわよ。気になるじゃない」
「じゃあ考えて?」
わかるまで、ずっと俺のことだけを考えて。
クロードはアンリエッタの顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。
その表情は商会長として気を張っている時よりも幼く見えて、アンリエッタは不覚にもときめいてしまった。
「……非常にくやしい」
「え、何が?」
「何でもない。それより、夕食はどうするの?」
そういえば、まだ食事をとっていなかった。
アンリエッタは早くなる胸の鼓動を悟られないようにスッと立ち上がり、そのままクロードと不自然な距離をとった。
クロードはその距離感にムッとする。
「何故離れる?」
「別に、何となくよ。それより、夕食の話をしましょう」
「……とりあえず、温め直してもらうようにキッチンには伝えてる。もうすぐしたら呼びに来るだろう」
「そう。それはどうもありがとう」
アンリエッタはお礼を言いながらも、ふんっとそっぽを向いた。
クロードはそれが気に入らないのか、立ち上がり、一歩ずつ距離を詰める。
「コーヒーの件はカタがついた」
「そう」
「明日からまた普通の生活に戻る」
「良かったわね」
「メイドは、今度は君が面接して選んでくれ。明後日には連れてくるから」
「わかったわ」
「それまではしばらく、ニコルに負担をかけるが、良いか?」
「それはあの子次第ね。でも掃除なら私もできるわ」
「君に掃除させるくらいなら俺がする」
「…………………ねえ」
「ん?どうした?」
「何故、私は壁際まで追い込まれているの?」
ジリジリと近づいてくるクロードと距離を取ろうと後退りしているうちに、アンリエッタはいつの間にか部屋の隅に追い込まれていた。
どうしよう。逃げ場がない。
「退いてよ」
「やだ」
「何で……」
「退いたら逃げるだろ?」
「逃げないもん」
「絶対うそ。だって今も逃げたじゃないか。だから俺は仕方なくこうしてる」
「仕方なく、なら退いて」
「いーや」
クロードはアンリエッタの要求を却下すると、壁に両手をつき、彼女を封じ込めた。
この男は本当に何がしたいのだろうか。わからない。
アンリエッタは彼を押し返そうと、その胸に手を当てた。
すると、ビックリするほどに心臓が早鐘を打っていた。
「…………え?」
こんな音、死んでしまうんじゃないだろうか。そう思うほどに早い。
アンリエッタは大きく目を見開いて、クロードを見上げた。
「……クロード、あなた病気なんじゃない?」
「かもな。でも、もし俺が死んだら君のせいだ」
「それはひどい濡れ衣だわ」
「いいや。君のせいだ。だって、あの日からずっと俺の心臓を動かしているのは君だから」
「……あの日?」
「なあ、アンリエッタ。キスしてもいいか?」
「キッ……!?」
唐突すぎる提案にアンリエッタの顔は一瞬にして、熟れた林檎のように赤くなった。
クロードはその真っ赤な頬に優しく触れると、悪戯に指先を口元に滑らせる。そして親指の腹で優しく唇の形をなぞった。
「だめ……?」
ほんのりピンク色に色づいた、艶やかな唇に噛みついてしまいたい。そんな衝動に駆られる。
クロードは焼き切れてしまいそうな理性を何とか保ち、もう一度、今度は甘えるように尋ねた。
これは初夜の翌朝と同じだ。流されてはダメ。
自分を見る彼の熱い視線から目を逸らしたくて、アンリエッタはギュッと目を閉じた。
その時、
「……食事のご用意ができましたが?」
謹慎が解かれたニコルが、ものすごく不機嫌そうな顔をして、夕食の時間を告げに来た。
あまりのタイミングの良さに、残念がるクロード。一方で、アンリエッタは一度深呼吸をして、またしても大きな悲鳴を上げた。