16:容疑者、ニコル
「貴方のところのメイドを疑っているわけじゃないのだけれど、念のためにってことで……。いいかしら?」
美味しくないコーヒーを飲みながら、アンリエッタは様子を窺うように、正面に座るクロードの顔をチラリと覗き見る。
頬に大きな手形を作った彼は不機嫌そうにそっぽを向いたまま、「君の好きにすればいい」と返した。
これは明らかに怒っている。やはり、もう一度謝っておくべきなのだろうか。アンリエッタは悩んだ。
そして、そもそも人前で変なことをしようとしたクロードが悪いという結論に至り、喉元まで出かかった謝罪の言葉を飲み込んだ。
「じゃあ、早速調べるわね」
「……ああ」
「いいのね?」
「いいって言ってるだろう?」
「グレイスのこともみんなと同じように調べるけれど、後で怒らないでよ?」
「怒るわけないだろ」
というか、そもそもなぜここでグレイスの話が出てくるのか。クロードは意味がわからず、怪訝な顔をした。
アンリエッタにはその何もわかっていなさそうな顔がとても腹立たしく感じ、「そういうところよ!」と美味しくないコーヒーを半分以上残して席を立った。
その時だった。
外からニコルの叫び声と共に大きな物音がした。
「この声は……、ニコル!?」
アンリエッタは部屋を飛び出した。クロードとミゲルも慌てて彼女の後を追う。
声がする方へと駆けていくと、そこは部屋の前で同僚のメイドたちに取り押さえられている彼女がいた。
「ニコル!?」
アンリエッタは慌ててニコルに駆け寄り、彼女を床に押さえつけるメイドたちを引き剥がした。
「これはどういうこと!?」
アンリエッタは、おそらくこの状況を一番よく理解しているであろうグレイスを睨みつける。
どこか冷めた目でニコルを見下ろしていたグレイスは、気がつくと悲しそうに眉尻を下げてクロードの方を見た。
「グレイス。何があった?」
クロードがそう聞くと、グレイスは言いづらそうに口を開いた。
「奥様が失くされたとおっしゃっていたブラックオパールがニコルさんの部屋のベッドの下から出てきました」
「……何だと?」
「多分、ニコルさんが盗んだのかと……」
グレイスはハンカチに包んだブラックオパールの耳飾りを、そっとクロードに差し出した。
クロードはすぐにそれが本物であることを確認した。
「ニコル、これはどういうことだ?」
「ち、違います!私は盗んでいません!!」
「盗んでなかったら、どうして宝石があなたの部屋から出てくるのよ!」
「そうよ!」
「そんなことを言われても、どうしてだかわからない!私だって、どうして宝石が自分の部屋にあるのかわからないの!」
「適当なことを言うんじゃないわよ、この泥棒が!」
「違う!!」
口々にニコル責め立てるメイドたち。ニコルは泣きそうになりながら、何度も叫んだ。
廊下は騒然とし、庭師やコックたちまでもが騒ぎを聞きつけて集まってきている。
そんな中、アンリエッタはニコルを口汚く罵るメイドたちを「うるさい」と一喝し、黙らせた。
そして、
「ニコルはそんなことしないわ」
声を荒げることなく、けれども確固たる自信を持って強く宣言し、静かにニコルを抱きしめた。
アンリエッタにだけは信じて欲しいと思っていたニコルは涙を堪えきれず、嗚咽を漏らして泣いた。
「……どういうことだ?」
その様子に、クロードは困惑した。
アンリエッタほどニコルを知らない彼は、物証がある以上、彼女を疑わざるを得ない。だが泣き崩れる姿に嘘はないように思えた。
「ミゲル。お前はどう思う?」
クロードは客観的な意見が欲しくて、ミゲルを見た。
すると彼は面倒臭さそうに目を逸らした。
「僕は商会の人間であってこの屋敷の人間ではありませんので、意見を求められても困ります」
「……その逃げ方はずるくないか?」
あくまでも一人の人間として意見を求めただけなのに、まさか拒否されるとは思わなかった。クロードは明言を拒否するミゲルに呆れ顔だ。
だがミゲルの言うことも正論で、確かに彼はあくまでも商会長の秘書であり、このお屋敷の執事ではない。面倒ごとに巻き込まれても百害あって一利なしだ。
クロードは小さくため息をこぼし、グレイスを見た。
「グレイス、お前はどう思う?」
「私は……」
意見を求められたグレイスは少し迷った末に、お仕着せのポケットに入れていたもう一つのハンカチを出した。
その白いハンカチに包まれていたのは、昔クロードが買ってあげた銀製のイリスの髪飾りだった。
「それって……」
「ごめんなさい、クロード。実は少し前に失くしてしまっていて……」
「……まさか、それもニコルの部屋から出てきたと言うのか」
「うん……」
グレイスは目尻に涙を浮かべ、小さく頷いた。
「ニコルさん、仲良くしたいと思っていたのに……」
まさかの同僚の裏切りに、グレイスは静かに涙を流した。
一粒の雫が彼女の頬を伝い、ポタリと床に落ちる。廊下の窓から差し込む斜陽のせいもあり、その姿はどこかの絵画のように美しく見えた。
メイドたちはグレイスを囲み、彼女を慰める。そしてまたニコルを厳しく責め立てた。
ニコルはそんなものは知らないと叫び、アンリエッタは銀の髪飾りを見てもなお、ニコルを信じていると言う。
(ブラックオパールだけではなく、銀の髪飾りまで……)
クロードはどうしたものかと悩んだ。物証が二つもあるのなら普通は言い逃れなんてできない。
だが誰かに嵌められた可能性もゼロではない。
「わかった。この件は調査した上で処分を下そう。それまで、ニコルは部屋で謹慎だ」
「き、謹慎……ですか?」
「ああ、そうだ」
クロードは、ニコルのその胡桃色の瞳の奥にある本心を探ろうとジッと彼女を見据える。見下ろされるような形になっているからか、ニコルにはクロードの鋭い視線がとても恐ろしく見えてしまい、咄嗟に目を逸らした。
ニコルのその仕草に他意などないが、状況的には追求されることを嫌がる犯人のように見えてしまう。クロードは顔を顰めた。
「クロード、ニコルは窃盗なんてしない!!」
「アンリエッタ。気持ちはわかるが物証が出ている。これで何の調査もせずに無罪放免だなんて、皆が納得しない」
「……それは」
正論だ。むしろ、こういう場合は疑惑の段階でも面倒がって調査もせずに解雇の判断を下す人も多い。そんな中、きちんと調査をしてから判断を下すとしてくれたのは彼の優しさと言えるだろう。
だが、それでも納得できないものはできない。アンリエッタは悔しそうに奥歯を噛み、ニコルを抱きしめた。
「わかったわ……。調査が終わるまで、ニコルは謹慎としましょう。いいわね、ニコル」
「……はい」
「よし、ではこの件は一旦これで終わりだ。以降は俺が預かるから、皆は仕事に戻……」
「本当に調査、するんですか?」
一旦話がまとまりそうになったところで、クロードの話を遮るようにミゲルが手を上げた。とても面倒くさそうに。
クロードは怪訝な顔をして彼の方を振り返る。
「何だよ、ミゲル」
「調査って言いますけど、一体誰が調査するんですか?」
「誰って、俺に決まって……」
「まさか、会長が自ら調査するんですか?奥様のために《《また》》仕事を休んで?」
「……何が言いたいんだよ」
「別に何も?ただ、その間に商会の信用がどんどんと落ちていきそうだなと思っただけです」
商会プティアンジュのコーヒーは、普段は紅茶しか飲まないお貴族様が好んで買う代物。それはつまり、メインの顧客が貴族であるということ。
「お貴族様は飽き性ですからねぇ?」
お貴族様は珍しい物にはすぐに飛びつくが、その分見切るのも早い。少しの対応の遅れが大きな損失につながる。そのことはクロードが一番よくわかっているはずだ。
ミゲルは冷たい視線を彼に送った。
「し、しかしこのまま放置するわけにもいかないだろう」
「放置すればいいと思いますよ。だってそもそも、屋敷の管理は奥様の仕事でしょう?ねえ、奥様?」
「……え?」
「調査についても、ニコルさんの処分についても、奥様がすべきことではないのですか?」
ミゲルはまるで蔑むようにアンリエッタを見下ろした。
あまり好感を持たれていないことはわかっていたが、それでもクロードの側近からこのような視線を向けられるのは少々痛い。
(……でも、正論ね)
ミゲルの言うことはもっともだ。今までは何となくグレイスに遠慮して強く出られなかったが、本来屋敷の管理は女主人であるアンリエッタの仕事。つまり、こういった問題が起きた時は自分で対処するのが正しい。
アンリエッタはゆっくりと立ち上がり、ミゲルを見据えた。
「そうね。あなたの言う通りだわ、ミゲル。これは私が対処すべきことだわ」
ついでにこれを機に、使用人たちを含めたこの屋敷の全てを掌握してやる。そんな気概でアンリエッタは「任せて」と言った。
その言葉に、ミゲルは満足げにニヤリと口角を上げた。
「奥様はそうおっしゃってくださいましたけど。いいですよね、会長?」
「俺はアンリエッタがいいなら別に構わない」
「よし!じゃあ、決まりですね!あー、良かった。これで会長は無事に明日からもお仕事ができますね!」
ミゲルは両手を叩いて、大袈裟に喜んだ。
グレイスはそんな彼を見上げ、不服そうに口を挟む。
「……ねえ、ミゲル。ちょっといい?」
「どうしました?グレイス」
「奥様とニコルさんはずっと一緒だったのよ?いいの?」
「いいの、とは?」
「だ、だから、もし奥様が調査をしたらきっと……」
「何です?もしかしてグレイスは奥様が大した調査もせずに、証拠不十分として処分なしの判断をなさるだろうって思っているとか?」
「そ、それは……」
「だとしたら、奥様を馬鹿にしすぎでしょう。ねえ、奥様?いくら何でも、そんな甘いことは仰らないですよね?」
ミゲルは意地の悪そうな顔をしてアンリエッタに尋ねた。
アンリエッタは馬鹿にするなと返すように彼を睨む。
「わかったわ、グレイス。公平性を保つために、調査の手伝いは執事のフランツにお願いする。これならどうかしら?」
「さすが奥様!良いと思います。フランツさんも、それでいいですよね?」
「かしこまりました」
初老の執事フランツは、落ち着いた様子で静かに頭を下げた。
彼はアンリエッタと適度の距離がある上に、優秀で誠実で男だ。そんな彼が調査のサポートをするならば皆も納得するはずだ、とミゲルは言う。
「グレイスもこれなら納得でしょう?」
「……わかった」
グレイスはわかっていなさそうな顔をしつつも、小さく頷いた。
「よし、では話はまとまったな。じゃあ、アンリエッタ。あとは頼むぞ」
「ええ、任せておいて……」
「俺はしばらく商会の方に寝泊まりすることになると思うけど、何かあったらすぐに連絡してくれ。必ず駆けつけるから」
「……お気遣い、ありがとう」
本当は全然良くない。不安しかない。この状況でクロードがしばらく不在になるのは怖い。
だが、そんなことを言って仕事の邪魔をしたくない。
アンリエッタはゆっくりと深呼吸をして、笑顔を貼り付けた。そして自分に言い聞かせるように、「大丈夫」と小さく呟いた。
*
一旦解散となった後、ミゲルは仕事に戻ろうとするグレイスを呼び止めた。
ちょうど、夕陽が沈みかけた廊下で不敵に笑う彼に、グレイスは怪訝に眉を顰める。
「何よ」
「どうして勝手に部屋を調べたんですか?」
「は?勝手じゃないわよ。奥様が部屋を調べるとおっしゃっていたから、私はお手伝いをしようとしただけで……」
「でも、奥様は会長の許可を得てからと仰っていたんですよね?」
「そ、それは……!」
痛いところを疲れたグレイスはカッと顔を赤くした。
「ならば、奥様と会長の立ち合いのもとで各部屋の捜索を行うべきではありませんか?」
「み、みんなが先に始めようって……」
「ほほう、言い訳ですか」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「部下の意見に流されて非常識な行動をとるなど、とても優秀な教育係とは思えないですね。本来なら、貴方は非常識な部下を諌めるべき立場にあるはずです」
「……」
「貴方がそんなことでは困りますよ。これからはもっと立場を弁えてください」
ミゲルの冷たい視線がグレイスに向けられる。
念を押すように言われた「立場を弁えろ」という言葉は、何を意味するのだろうか。
グレイスは顔を隠すように俯き、小さく頷いた。
「……悪かったわ。確かに解決を急ぐあまりに先走りすぎたかも。次から気をつける」
「わかれば良いのです、わかれば。……それでは、また」
ミゲルはメガネの端をクイッと上げ、胡散臭い笑顔を貼り付けてその場を後にした。




