15:ペリドット(2)
「……少し、いいかしら」
気まずそうに顔を伏せたアンリエッタが扉から顔だけを覗かせる。その仕草はまるで叱られ待ちの子どものようだ。
クロードは予想外の来訪者に驚いた。
「ど、どうした?」
「ちょっと話したいことがあって……」
「そ、そうか。どうぞ、入ってくれ」
「……し、失礼します」
アンリエッタは部屋に入り、ゆっくりと扉を閉めた。そしてなぜか扉の前で直立不動のまま動かなくなってしまった。
顔を伏せたまま動かない彼女に、クロードはさらに困惑する。
「えっと……、こっちに来たら?」
「いいえ。ここでいいの」
「そ、そう?」
ここ最近、避けられ続けていたクロードはそれ以上無理強いできず、「君がいいなら」と頷いた。
「………」
「………」
何とも言えない沈黙が2人の間を流れる。
話があると言いながら、口を噤んだままのアンリエッタと、それをじっと見つめるだけのクロード。
ミゲルは空気を読むべきか読まぬべきか迷った。
そして、迷った結果。
「コーヒー、飲みます?あんまり美味しくないですけど」
空気を読まない選択をしたミゲルは、豆を挽き始めた。
コーヒーの香りがうっすらと漂う。その香りに緊張がほぐれたのか、アンリエッタは口を開いた。
「……な、失くした」
「……ん?」
「失くしました。ごめんなさい」
「何を失くしたんだ?」
「…………ブ」
「ブ?」
「…………………ブラックオパール」
「…………………………えぇ!?」
アンリエッタの言葉に真っ先に驚いたのはクロードではなくミゲルだった。
ミゲルはコーヒーミルを放置し、トレードマークの伊達メガネをクイっと上げてアンリエッタに詰め寄る。
「な、なななな失くしたぁ!?」
「ひっ!?ご、ごめんなさい!!」
「あれがいくらすると思って……!!」
「ごめんなさいぃ……」
「こら、ミゲル。やめろ」
「会長があれを手に入れるためにどれだけ苦労したと!!」
「いいから、やめろ。下がれ。アンリエッタにそれ以上近づくな」
クロードはミゲルの首根っこを掴み、後ろに追いやった。
ミゲルは不服そうな顔をして襟を正す。
「アンリエッタ、顔を上げてくれ」
「……はい」
「俺は別に怒っていないから」
「でも、呆れてはいるでしょう?」
「いいや?」
「嘘よ。絶対呆れているわ」
だって、数ヶ月前にもらったばかりの高価な宝石を失くすだなんて、自分なら怒りを通り越して呆れてしまう。
怒っているのならそう言って欲しい。どんな罰でも受ける覚悟だと、アンリエッタは真剣な目をして顔を上げた。
しかし、そんな彼女を見下ろすクロードの表情はとても穏やかなものだった。
「だから怒ってないって言ってるだろ?人の話を聞けよ」
あまりに穏やかに笑うものだから、アンリエッタの心は不覚にも少し軽くなってしまった。
「もしかして、最近避けていたのってそのせいか?」
「……うん」
「そっか。よかった」
「な、何がよかったのよ!全然良くないわよ!だって最高級のブラックオパールよ!?」
ペリゴール家の手から離れたあのオパールは、結局とある収集家の手に渡った。
その人は一度手に入れた宝石はなかなか手放さないことで有名な人で、そんな人から買い取るなんて普通はできない。
ミゲルの言う通り、よほど苦労して手に入れたのだろう。おそらく、金額だけでなく、多くの時間や労力を費やしたに違いない。
だから、そんなものを失くした自分を責めようとしない彼をアンリエッタは理解できない。
「あなた、ちょっと頭がおかしいんじゃない?」
「早くも俺との結婚生活が嫌になったのかと思ってたんだ。だから、避けてた理由がそんなことで安心した」
「そんなことって……、大層なことよ」
「俺にとってはそんなことだ」
「やっぱり頭おかしいわ」
一人で焦って、落ち込んで、緊張して、大変だったのに。まさかそれをそんなこと呼ばわりされるとは思わなかった。アンリエッタは拗ねた子どものようにプイッとそっぽを向いた。
その時、不意に彼女の胸元に光るペリドットのネックレスが光った。
それはクロードが初めて特別な意味を込めて送ったプレゼント。
普段はあまりつけてくれないのに、何故今日のような何でもない日にこれをつけてくれたのだろう。そんなことを思った。
そしてふと、ある考えが頭をよぎった。
「なあ、そのネックレス。もしかして俺に媚びようとしてつけてきた?」
「こ、媚び!?」
「もしかして、それをつけた姿を見た俺が少しでも怒りを和らげてくれたらいいなー、とか考えた?」
「………っ!?」
「その顔は図星だろ?」
「う、うるさい!」
ニヤニヤと迫るクロード。アンリエッタは顔を真っ赤にして後ずさる。しかし、元々ドアの前で話していたので逃げられるはずもなく。
気がつけばアンリエッタは壁に背をつけ、クロードを見上げていた。
右を向くと彼の腕。左を見ても彼の腕。前には彼のそこそこに鍛えられた胸板があり、身動きが取れない。まるで檻に閉じ込められたみたいだ。
「な、何よ……」
「観念したらどうだ?」
「何がよ」
「前から思ってるけど、アンリエッタ……、君、俺のこと好きだろう?」
「そんなわけないでしょう」
「じゃあどうしてそんなに顔が赤いんだ?」
「こ、これは……、暑いからよっ!!!」
アンリエッタはどうにか追求から逃れようと、クロードの胸を力一杯に押した。
しかしやはりびくともしない。きっと無駄に鍛えているせいだ。腹立たしい。
「なんでびくともしないのよ!」
「鍛えているからな」
「意味ないでしょう!商人のくせに!」
「意味ならあるよ。だって、君は筋肉が好きだろう?」
「私はそんな変態じゃないわよ!」
そこはせめて、嘘でも「君を守るために鍛えている」と言うべきだろうに。人を筋肉フェチの変態扱いしやがって。本当にこの男といると疲れる。
アンリエッタは心を落ち着けるように大きく深呼吸をした。
「いいこと?クロード。何を勘違いしているのか知らないけれど、私は貴方のことなんて好きじゃないわ」
「……ふーん?」
「私たちの結婚は紛う事なき政略結婚。愛とか恋とかそんなもので結ばれた関係じゃないの。つまり私たちは仮面夫婦なの」
「……仮面夫婦、ねぇ?」
クロードは余裕な笑みでアンリエッタの長い蜂蜜色の髪を一房手に取り、毛先に口付けた。
アンリエッタは彼のその突然の行為にびくりと体をこわばらせる。
「や、やめてよ」
「アンリエッタ」
「な、何よ」
「素直になってよ。アンリエッタ」
クロードはアンリエッタの耳元で、妙に艶っぽく吐息混じりに囁いた。
アンリエッタは背筋を指でスッとなぞられたように体を震わせた。
「やめてよ……。耳元で喋らないで」
「弱いのか?」
「やめてってば……、ひゃっ!?」
クロードの大きな手がアンリエッタの耳に触れる。
アンリエッタはその冷たい手の感触に意図せず声を上げてしまった。
恥ずかしさのあまり、慌てて口元を塞ぐ彼女にクロードは満足げに口角を上げる。
「顔を上げてくれ」
「や、やだ」
「いいから。見たい」
クロードはアンリエッタの顎に手を添え、強制的に上を向かせた。
すると案の定、彼女の顔はりんごのように赤に染まっていた。
耳まで赤いリンゴは、きっと美味しいだろう。クロードはそのまま彼女に顔を近づけた。
「ア……」
「あのー。僕、出て行った方がいいですか?」
ドア前でそういうことをされると逃げ場がない。
この間、自分で淹れた対して美味しくもないコーヒーを飲んでいたミゲルは、生暖かい目線を二人に送った。
クロードはミゲルのことを忘れていたと苦笑し、アンリエッタは真っ赤だった顔色を真っ青に変えた。
そして、
「………………き」
「き?」
「キャァァアアア!?」
過去一番の叫び声と共に、大きな殴打音が書斎に響いた。