不幸なエリザベスの幸福な結婚
授業の終わった放課後、学園の用務員さんが丹精込めて育てている美しいバラを臨めるベンチに腰掛けた二人。今日の授業の内容を話したり、友人の噂話を聞いたり、それは日常の他愛のない時間だった。
「エリザベスは学園を卒業した先のことって、考えてる?」
小首を傾げて聞いてくるのはクラスメイトのアーサー・ドリトル公爵子息。
艶めく黒髪は襟足で切りそろえているが、長く伸びた前髪がさらりと揺れた。見つめてくる瞳は美しい菫色。
「わたしの将来のことなんて聞いて、どうするというの……?」
これまでの打ち解けた雰囲気とは一転、怯えたように問い返すのはエリザベス・サーチェス侯爵令嬢。
柔らかなミルクティー色の巻き毛はハーフアップにして、賢そうな額を出している。長いまつ毛に縁どられた瞳はエメラルドグリーン。驚きに少し開いた唇は美しく綻ぶ花びらのよう。
「卒業したら今みたいに気軽に会えなくなってしまうだろう?それは寂しいから、良かったら俺と結婚を前提に付き合ってはもらえないかな?」
慣れない告白に恥ずかしさで頬を染めているが、これまで培った友情とも恋情ともいえる二人の温かな関係から、断られることはないだろうという確信がアーサーにはあった。しかし、目の前のエリザベスは喜びとは程遠い、いっそ腐った玉ねぎでも見るかのような目でこちらを見ている。
「わたしの何が望みなの?」
「へ?」
予想外の質問に、思わず間抜けな声が出てしまう。
「お金?お金が目当てなの?お買い物に行って試着した服を似合うと褒めると『ありがとう』って言って、当たり前のようにプレゼントさせて、レストランでご飯を食べた後は『ごちそうさま』って先にお店を出て行く相手にちょうどいいってこと?」
早口で捲し立てるエリザベスにアーサーはきょとんとしてしまったが、彼女の言葉を噛み締めて返事をする。
「一緒に買い物に行けたら、きみに似合いの服を選ぶのも俺に似合いの服を選んでくれるのも嬉しいな。揃いのアクセサリーも欲しいし。会計に関しては、これまで行った店では家に請求が来ていたから、きみに支払ってもらうことはないと思うけど」
公爵子息であるアーサーが立ち寄る店は決まっており、何も言わずともそこでの請求は家に寄せられるので、店舗で支払う、という概念が彼にはなかった。
「既製品の買い物もいいけど、今度家にデザイナーを呼んでエリザベスにドレスをプレゼントしたいな。紫色の生地に黒いレースを重ねたデザインとか似合うと思うんだ」
自分の瞳と髪の色を使ったドレスを着た彼女を想像して、アーサーは頬を染める。高位貴族の彼は、実際の店舗へ足を運ぶことは少なく、たいていの買い物は家に訪れる外商からの購入で済んでしまう。
それでも、自分と街へ買い物や食事に行くことを想像してくれたエリザベスの気持ちが嬉しくてたまらない。
これまでエリザベスがともに外出していたのは父の弟の息子。二歳年上の従兄だった。子爵家令息の彼は流行の服や帽子に目が無く、いつも彼女を誘って出掛け、買い物の後には出来たばかりのレストランに行きたがり、その全ての支払いはエリザベスがしてきた。
父が一緒の際は叔父にお金を出させることがないため、自然と彼女も従兄と外出すると自分が支払うようになっていたのである。
従兄もまた、それを当然と受け入れ、欲しい物が出来たら年下の従妹を誘いに来るのだ。時には自分の婚約者への贈り物も購入させて、何も知らない婚約者へプレゼントしていた。
エリザベス自身もまた高位貴族であるため、自分のドレスやアクセサリーは家に店の者を呼んで購入していたが、従兄に連れて行かれる店は初見も多く、その場で現金で支払わねばならなかった。エリザベスが自分で管理できるお金は多くなく、なかなか手痛い出費のため、アーサーまで自分の財布を狙っているのかと思うと恐怖が押し寄せてきたのだ。
だが、彼は国でも有数の公爵家の長男。裕福な彼がエリザベスの懐を狙ってくることはないだろう。
「では、まさかわたしを労働力として使うつもり?学園に提出する課題を明日までにやるように突然言ってきて徹夜させたり、天井に届くほどの書類の精査を三日三晩寝ずにさせたりするおつもりなの?」
「俺とエリザベスは同じクラスだから、きみに課題をやってもらったら先生にバレちゃうよ。三日三晩も寝ないでいられるなら、書類の精査じゃなくて、ずっと俺のことを見ていてほしいな。俺もずっときみを見ているから」
なるほど、確かに同じクラスでなので、同じ課題をやるように迫ることはないだろう。しかも、エリザベスは優秀だと言われているが、彼は学園始まって以来の天才だ、神童だと騒がれるほどで、学業で助けてもらっているのは彼女のほうだった。
エリザベスに学園の課題を押し付けていたのは彼女の一歳上の兄。昨年まで同じ学園に通っていた兄は、忙しい父に代わって領地経営の主軸を担っており、学業を疎かにしがちであった。そのため、時折どうしても提出しなくてはならない課題の提出を忘れていて、期限の前日に妹に「これやっといて、明日の朝まで」と軽くお願いしてくる。
一歳とはいえ学年の違う兄の課題をこなすことができるほど優秀なエリザベスは、なんとかそれを完成させてしまう。
三日三晩徹夜した時は、領地で不正の疑いがあり、信用できる者だけで書類の精査をする必要があったため、その人員に駆り出されてしまったのだ。
どんな時もその成果を「さすが俺のエリザベス」と満足そうに褒めて、妹の好きな焼き菓子を用意してくれるあたり、兄は人の使い方を心得ている。
「金銭的援助も労働力もお求めではない……?となると、まさか、アーサーは愛情にとても溢れた方?」
やっとわかってくれたのか、とアーサーの目が輝く。
「そうだよ、エリザベス。目覚めの時から夜眠りに落ちるまで、愛の言葉を捧げるし、きみが望めば流行りの歌劇のチケットだって一等席を手配するし、入手困難なパティスリーの焼き菓子だって手に入れる。俺はきみに惜しみなく愛を注ぐよ?」
愛情表現の一部を提示した彼を見て、目の前の可愛らしい顔立ちの彼女は「はっ」と皮肉気な笑いをもらす。
「一緒にいる時は、でしょう?」
悲しげに悟ったような表情で、遠くを見るように目線を外す。
「妻を一番に愛する。唯一無二の存在として大事にしてくださる。ええ、そうでしょう。けれど心は自由ですもの。素敵な女性と目が合えば恋に落ちますし、ともに過ごせば情も移るでしょう。『きみが一番だよ』と言いながら夜は違う家に帰り、花を贈り愛を囁く。たくさんの愛をそれこそ夜空の星のごとくバラまかれるのかしら?」
エリザベスのいう愛に溢れた男とは、自身の父親のことである。
彼女の父は侯爵という高い身分に整った容姿、剣も馬術もこなし、博識で話術もうまい。幼い頃から他人の懐に入ることが得意で、男女問わずいつも人に囲まれていた。
それは大人になった今も変わらず、夜会に出ても母とはファーストダンスが終わるとすぐに離れ、男性たちと政治談議をしたり、他の女性とワルツを踊ったり、人との出会いを楽しんでいる。
母にはいつも「一番愛しているのはきみだけだよ」と優しく髪を撫でたり、頬に口づけたりと愛情表現は惜しみない。結婚して二十年近く経つというのに、旅行に出れば気の利いたお土産を買ってくるし、誕生日の花も欠かさない。
しかし、一番以外の愛が、彼には溢れている。
宝石商の助手としてついてきた女性に「きみの瞳と同じ輝きのサファイアじゃないか!吸い込まれそうな美しさだ。どうかこの石できみの髪を飾っておくれ」と髪飾りに加工させて贈っていたし、完成された品物を持ち彼女に会いに行った日はもちろん帰宅しない。
庶民階級の家庭の温かさが心地いいんだ、と平民の女性とその子供が住む家にはたびたび泊まり込んでいる。
母は自分の趣味の工房を持っているため、その商談や社交で忙しくしていて、父が時々しか家に帰ってこないことも気にしていないらしい。「お仕事ちゃんとしてるならいいんじゃない?」と国の中枢で働く父に寛容だ。
しかし、お年頃のエリザベスは友人に借りた乙女小説での純愛に衝撃を受けたのだ。こんな一途な愛があるのだろうか、と。そうして、貪るように乙女小説を読み、色々な愛情を知った。
主人公の過去を包み込むような大きな愛。婚約者がいても揺るがず奪うような強い愛。姫を護り命すら捧げる献身的な愛。幼い頃から育み大きくなっていく揺るがない愛。
わたしにはどんな愛が待っているのかしら?と夢見てしまっていたのに、目の前に現れた求婚者は自分の父親と同じように博愛主義なのか、と絶望してしまう。
男運だけを見るなら不幸としかいいようのない彼女だって、幸せな結婚を夢見ていたのに。
わたしだけを愛してくれる、そんなのは物語だけのことなのかしら?
「エリザベス、俺の愛の星はすべてきみに降り注ぐよ?」
華奢な彼女の手を包み込むように握る。
「きみが許してくれるなら、時間が許す限りずっと傍にいたい。朝は迎えに行くからうちの馬車で一緒に学園に来よう。先生に隣の席にしてくれないか聞いてみるね。昼食は個室を用意して二人きりになれるようにする。帰りももちろん送って行くから、少しでも長く一緒にいられるように遠回りして帰ろうね」
エリザベスはそむけていた顔を彼のほうに向けた。アーサーの形の良い切れ長の瞳に熱が籠っている。
「結婚したら俺が仕事の時間以外はずっと一緒だよ。きみの髪を梳かしてドレスを着せてご飯を食べさせてあげる。きみの目に他の男が映るのはイヤだから、使用人も護衛もすべて女性を配置しようね。きみの行きたいところには一緒に行くし、食べたい物は各国どこからだって取り寄せる。全てのことから俺が守るから、ずっと一緒にいて?」
王子の従兄弟で、王家の血を引く彼は低いが王位継承権も持つ。全てから守る、というのはあながち不可能ではない。
お金も労働力も求めないし一途に自分だけを愛すると言ってくれる。
学園で知り合い、異性では一番親しいクラスメイトだったアーサーの顔をまじまじ見つめた。
いつも穏やかで学園に通う生徒の中では一番高い爵位だが驕ったところもなく、身分問わず親切。学業は教師が舌を巻くほどで、剣の授業でも負けなしと聞く。隣国の王女だった母を持ち、顔立ちはどこかエキゾチックで魅力的。
まだ婚約者のいない彼に言い寄る女生徒も多くいたが、その誘いに応じることもなく、気づけばいつもエリザベスの隣にいた。
彼を嫌いかと聞かれれば好きだと答えるだろう。彼の性格も容姿も好ましい。
え?アーサーわたしのこと好きなの!?
ぼぼぼっとエリザベスの顔が真っ赤に染まる。
素直で何事にも一生懸命なエリザベスがアーサーは大好きだ。恥ずかしくって最初は控えめな交際の申し込みだったが、逃がすつもりは毛頭ない。
「俺の愛はすべてきみに捧げるから、頷いて?」
こくり、とエリザベスが小さく顎を引く。嬉しさからアーサーは彼女を抱き締めて耳元で「ありがとう、大事にする」と囁いた。
そこからのアーサーの行動は速かった。瞬く間に婚約を整え、家政の見習いと称して早々と自宅へ彼女を住まわせた。もう手放すつもりはない。自分の全てをかけて彼女を愛しぬく。
愛情深いアーサーは幼い頃にペットの犬を構い倒し過ぎて十円ハゲにさせてしまった過去があった。いつも穏やかな彼だが、気に入りの物は他者に触れさせず自分だけで管理している。
幼い頃からの愛情の強さを懸念していた公爵家では、彼の縁談に慎重になっていたが、そんな親の心配をよそにちゃっかり自分で相手を見つけてきた。
彼の両親も古くから家に仕える使用人たちも、彼の愛する女性を守り抜こう、と一致団結して嫁に迎えたのは言うまでもない。
色とりどりの花びらの舞う結婚式、人々はエリザベスとアーサーを祝福し、様々な涙を流しながら二人の未来の幸福を祈った。
公爵家の面々の心配をよそに、エリザベスはアーサーからの愛情を受けて毎日が幸せだった。
従兄も兄も隙あらば彼女を誘い出そうとしたが、いつ何時もアーサーが傍にいるため以前のように気軽に頼ることができなくなったので悩むこともない。問題が起これば即座にアーサーが解決してくれる。
男運のないエリザベスであったが、ヤンデレ気質のアーサーに囲い込まれていることに気付くこともなく憂いのない日常で、夫に愛を囁かれる幸せな結婚生活を手に入れたのだった。
数ある作品の中から見つけてくださり、読んでくださり、ありがとうございます。
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