摘花事情
安宿が立ち並ぶ街路。かつては華やかだったであろうその町並みは寂れ、人の足は少ない。中にはやけにけばけばしい色が塗ってあるくせに、誰も居ないような建物があるが、それは元は娼館であったのが、客足がなくなったせいで潰れてしまい、そのまま放置してあるものである。
そんな寂しい街の中を歩く女性が居た。いや、良く見ると男性である。黒く艶やかな髪を腰くらいまで伸ばして、それをまとめもせずにおろしている。身に纏った目立たないながらも朱子織の見事な袍に、歩くたびにその髪が波打つ。彼の名を、麗花という。身長の高い彼には裾の長い袍が良く似合う。その、袍の色は今、喪に服す黒だった。手には美しい百合の花が一本。微かに憂いを帯びた表情で麗花は歩いていく。ゆったりと、もったいぶる様に。今歩いていく先に本当は行きたくないとでも云うかのようだ。
麗花は溜め息をついて目的地を見上げた。
――娼館に来るのはこれで何度目だろうか……?あの子と別れてから……。
悲しそうに目を細めて、麗花は娼館へと足を踏み入れた。もう、潰れてしまった娼館に。
****
大陸から隔離された島。そこは李の一族が君臨し、支配する他国からの侵入を拒む独立地域である。この話は、その李島で、もう何年も前に起きたできごとだ。
日暮れもそろそろ近い時間、華やかな店が建ち並ぶ街路の前で、黒髪を肩程度まで伸ばした少年が立っている。年のころは十七、八。身長も結構高いので、少年と言うよりは青年と言ったほうがいいかもしれない。その髪は綺麗に手入れをされており、風が少年を撫でつける度にさらさらといい音を立てて靡く。身に纏った袍は上等の品で、一目で少年が育ちの良いお坊ちゃんなのだと知れる。少年は華やかな空気を持っていたが、その空気は微妙にこの街とはそぐわないような思われる。この街が虫を引き寄せる花の艶やかさならば、少年は花には違いないが、虫など来ない温室の花を思わせた。
――ここが、噂に聞く……。
街に圧倒されそうになりながら青年は立ち尽くす。
「麗花坊ちゃん、本当に娼館に来るのは初めてなので?」
少し後ろに控えた男が声を掛けてきた。彼は麗花の家に仕える使用人だった。今日この場所に麗花が来ているのは、彼が麗花をからかった事による。『坊ちゃんは本当に初心でいらっしゃる』そんな言葉に乗せられて麗花はここにやって来た。つまり、今麗花が立っているのは娼館街の前だった。麗花の華やかな空気とこの町の華やかな空気が微妙に違うのはそのせいである。
「……お前には関係無いだろう」
少しばかり間抜けな顔で街路に見入っていた麗花は咳払いをして、顰め面でそう言った。実際のところ、麗花が娼館に来るのは初めてである。
「確かにそうですね。失礼しました。……では取り敢えず一度、入ってみましょうか」
使用人は悪げも無く言って街路に踏み込む。
「え」
麗花は戸惑った顔で使用人を見ながらも、一応はその後に付いて行く。
――今日は見に来るだけの筈だったのに……。
「さ、ここが宜しいでしょう」
朱塗りの柱が立つ上品な店構えの前で、使用人が止まり、麗花を入るように促す。ここまで来てしまったら仕方が無い。覚悟を決めて店に入るほかはない。
「何事も経験で御座いますよ」
とん、と無礼な使用人に背中を押されて麗花はとうとう娼館に足を踏み入れた。
「よくいらっしゃいました。どの娘でもお好きな娘をお選びください」
入ると、店のオーナーらしき男が麗花に声を掛けてきた。男が言いながら指し示した先には等間隔に並べられた椅子に娘たちが愛想笑いを振り撒きながら座っていた。今日は店を開けたばかりで、客もまだあまり来ていないようで、椅子の空席が少ない。店の中は甘い華の香りが仄かに漂っており、なんとも妖しげなムードを醸し出している。ただ、全体的に上品な空気を作るこの店が高級娼婦館なのだと言う事は判る。
「あ……」
言われて麗花はどきりとした。娼館で娘を選ぶ、その行為が意味するところは、幾ら麗花が娼館に来た事が無くて、初心だったとしても判っていた事だった。だけど、現実に娘を選ぶとなると。
たじろぎながら麗花は娘たちの顔を見ていく。麗花にはどれも変わらない愛想笑いに思われた。皆変わらない黒髪。並んだ娼婦の中から選ぶことのできないままに、一番端の娘の椅子まで辿りついてしまう。……と、その最後の娘に麗花は見とれた。娘の髪の色は栗色だった。この島で黒以外の髪は珍しい。娘は麗花が顔を向けても周りの娘と同じように愛想笑いを振り撒くことは無く、どちらかと言うと困ったような曖昧な顔をした。
「お客様、お目が高くていらっしゃる! この子は今日おろされたばかりの、いわば新人。初顔見せなのでございますよ」
麗花が見入っていると、店の主人が割って入って説明をし始めた。すると、娘はとても不安そうな顔つきになる。
「しかもこの子はこの李島では珍しい栗色の髪です。名は添鈴と言いまして……」
娘――添鈴の顔が助けを求めるように顔を上げ、麗花と目が合った。
「この子にする」
半ば無意識に麗花は呟いていた。
「は……?」
急に麗花が喋ったので、主人は聞き取る事が出来なかったようだ。口走った事を麗花はしまったと思いながらも再びこういった。
「私は、この子にする、と言ったんだ」
麗花は添鈴の方を向いてはっきりと云った。
「あ、そうでございますか。では、添鈴。お客様をお部屋に」
一礼して主人はティエンリンを促す。
「はい……」
あまり乗り気では無さそうな声がそれに答えた。
「では坊ちゃん、私は二時間ほど後にお迎えに上がりますので……」
成り行きを見守っていた使用人は礼をして店から出て行った。そして、麗花は店に取り残されてしまった。
「お客様、こちらにどうぞ……」
添鈴は柔らかく、と云うよりは力無く微笑んで麗花を部屋へと案内した。部屋は3階に上がってすぐの部屋だった。添鈴によって少し重そうな扉を開かれて、麗花が部屋に入ると、添鈴が再び扉を閉じた。部屋の中は質素ながらも上等の品のベッドと小さな机があるだけである。
「お客様……、こちらへどうぞ……」
添鈴がベッドに腰掛け、麗花を呼んだ。その顔は緊張しているようで、硬い表情である。
「……私は麗花だ」
麗花もまた緊張した面持ちで言いながら、添鈴が腰掛けた隣に腰掛ける。ただ、二人の間は五十センチほどあいている。
「お客様……?」
添鈴は首を傾げる。麗花はどうしてよいか判らなかった。添鈴同様緊張の面持ちでベッドに腰掛ける。暫くの間、無言での時が過ぎる。気まずい空気にのって漂うのは甘い華の香りのみである。
「……歳は?」
急に麗花が添鈴に向き直って尋ねた。添鈴は良く見ればさきほど周りにいたどの娘よりも歳が若そうだった。もしかしたら、麗花より一つ二つ年下かもしれない。
「え……?」
問われた意図を測りかねて添鈴がもう一度云うように促す。
「歳は?」
「……十七です……お客様、あの、それが何か……」
いかにも不安そうな顔で添鈴が麗花に問う。
「私は……いや、僕は十八歳だ。君は僕より一つ歳下だね」
添鈴の不安な顔を見て麗花は息を吐いた。
―――何をあんなに気を張っていたのだろう……。
麗花は首を振ってもう一度添鈴の顔を見た。やはり添鈴は不安そうな顔をしている。
「お客様……」
「僕は麗花だ。そう呼んでくれ」
言って、麗花はベッドから正面の椅子に座りなおした。
「添鈴、君は今日が初仕事らしいね。……実は僕は娼館に来るのは初めてなんだよ。女性を一度も抱いた事が無い」
情けなさそうに笑って麗花はもう一度添鈴の顔を見た。すると、添鈴は気の抜けたような顔になっていた。麗花は厳格な父の元に育てられた坊ちゃんであるので、このような事になってしまったわけだが、それが添鈴にとっては大きな救いになったようだ。
「二人とも初心者なんだ。……今夜くらいは何もしなくたっていいだろう……?」
麗花はぎこちなく微笑む。が、それで十分だった。
「ええ……ごめんなさい。私、緊張していて……」
ほっと、肩の力を抜いて、漸く添鈴が笑顔を見せた。
「……やっと笑ったね」
麗花がそれに安心して今度はぎこちなくない笑顔を向ける。
「え……そうだったかしら……」
首を傾げて添鈴がいうと、なんだか急に二人は可笑しく思えて、笑えてしまった。
そうして、添鈴と麗花はそのまま後の二時間を喋り明かした。
***
それから、麗花は毎日のように添鈴に会いに行った。正確には彼女を買っていたのだが、麗花は添鈴と喋るだけで何もしなかった。不思議と麗花以外の客は添鈴を指名しなかったので、添鈴は麗花ばかりに買われる事となった。今の所、麗花にとって添鈴との会話が一番楽しい事だった。そして、その日も麗花は添鈴に会いに、娼館へと向かった。
店に入ると、がしゃぁん、という大きな音と女性の高い叫び声が聞こえてきた。
「どうかしたのか?」
入りながら、麗花は叫んで店の中を見ると、大きな花瓶が一つ倒れて、ばらばらに割れており、その傍らに女の子に絡む酔っ払いがいた。
「添鈴!?」
絡まれているのは添鈴だった。叫んで麗花は酔っ払いに歩み寄り、添鈴から引き剥がしに掛かった。
「何だ貴様は……」
酔っ払いは不機嫌そうに麗花を見る。
「お客様、おやめください……」
添鈴は酔っ払いの腕の中から必死に逃げ出そうとしている。その顔は今にも泣き出さんばかりだ。
――添鈴!!
「その汚い手を離せ!!」
叫ぶのと、身体が動いたのはほぼ同時だった。ごつんっと豪勢な音を立てて麗花は酔っ払いを殴り飛ばす。酔っ払いはそのままどぉっと床に倒れこみ、気を失ってしまった。
「あ……麗花……」
安心の顔を添鈴が見せる。それを見て麗花もほっと息をつく。
「……大丈夫?怪我はないかい?」
「ええ、ないわ……ありがとう」
言いながら添鈴が目を閉じると、白い頬につ、と涙がこぼれた。
「……支配人!!」
麗花は優しく添鈴の肩を寄せて店の奥に向かって叫んだ。店の主人は酔っ払いに怖気づいて店の奥に逃げ込んでいたらしい。主人は麗花の呼び声に慌てて出てくる。
「は、はい。何で御座いましょう、麗花様」
主人は怯えながら麗花の顔を覗く。いつも温厚そうなお得意がものすごい形相で睨んでいる。それは店の主人にとって恐怖でしかない。
「どうして添鈴を他の人間に買わせたりした」
麗花は添鈴の肩を寄せたまま、静かに押し殺した声で主人に詰め寄る。
「……あの、添鈴は麗花様専用ではありませんので……」
恐る恐る主人は答える。
「これより後、私以外の人間に添鈴を買わせる事は許さない!」
「ですが……」
主人は口篭もる。何の特権もなしに、一人の娼婦を一人の客に占領させるわけにはいかない。客は一人だけではないのだ。
「……この店で一番高級な娼婦は誰だ? 誰でも良い。私はその娼婦の3倍の値で添鈴を買う。これで文句は無いだろう」
良い返事を出さない主人に麗花はとうとうそんなことを言い出した。
「はぁ、それなら……」
吹き出た汗を拭いながら主人は曖昧に頷く。
「頷いたな?これより後に添鈴を他の人間に買わせることは断じて許さないぞ! 李家頭首・李飛万が第一子、李麗花の名において、だ!」
そう宣言して、麗花は添鈴を伴って部屋に引き上げて行った。こうして、添鈴は麗花だけのものになった訳である。
部屋の扉を閉じてから、麗花は力が抜けたようにずるずると崩れた。
「どうしたの、麗花」
添鈴が心配して麗花の顔を覗き込む。先程まで心配されていたのは添鈴の方だったのに、今麗花はその添鈴に心配されている。……だから麗花は添鈴に適わないと思っている。
「……御免、勝手なことして……それに、君を買う、とか買わせない、とか……」
情けなく笑って麗花が言う。さっき支配人に詰め寄った時とは大違いである。
「麗花は私の為にやってくれたんでしょう?」
微笑を漏らしながら添鈴がたずねる。そんな事、添鈴は答えを聞く前から判っていた。けど、聞いた。すると麗花は軽く頷いた。
「だったら、謝らないで。……私は嬉しかったわ。ありがとう」
にっこり笑って添鈴がお礼を言う。添鈴は麗花に好意を持っていた。それは恐らく恋愛感情としての。そして、麗花もそれは同じである。
それから後は麗花はなおさら足しげく添鈴の元に通うようになった。相変わらずのお喋りだけど、前とは少し違う関係で。麗花や添鈴にとってそれはとても大切な時間に違いなかった。けれど、その時間は無駄で、寧ろ有害なものだと考える人間も居たのだ。
***
「麗花が最近、娼館に出入りしていると聞いたのが……これは本当か?」
数人の人間が頭を垂れる中で、前に一人座った男が数人の人間に問い掛けた。男は白髪混じりの黒髪で、まだそこまで歳は取っていないようだが、醸し出す風格が彼を年齢以上に見せる。彼の名は李飛万。李島に住む全ての李家の頭首、麗花の厳格な父である。麗花の娼館通いをよく思っていない人物でもある。飛万の目の前に並ぶ数人の人間は屋敷の使用人だ。使用人たちは飛万に怯えて問いかけには答えなかった。
「……ふん、まあいい。麗花を呼んできなさい」
答えない使用人たちを暫く睨んでいたが、飛万は手を振って指示を出した。すぐに使用人は散って、部屋から消えて行く。しばらく一人で待っているとこんこんと扉がノックされる音が響いた。
「入りなさい」
少し間があって「失礼します」と言う言葉と共に麗花が部屋に入ってきた。
「参りました。父上、なんでしょうか?」
夕暮れ時のこんな時間に飛万が麗花を呼び出す事は滅多にない。何かよほどのことである。ちなみに今日もこれから麗花は添鈴の元に向かうところだった。
「急な話だが、明日からお前に一週間ほど大陸に渡ってもらいたい」
よどみなく飛万は麗花に言う。飛万は添鈴について追及する為にここに麗花を呼び出したのではないらしい。
「……本当に急な話ですね……」
驚きながら麗花が口を挟む。
「準備はしてある。逆らう事は許さない」
そう、言うだけいって飛万は麗花にされ、とでも言うかのように見る。すると麗花は息を吐いて何の反論をしようもなく部屋から出て行くだけだった。その姿を見送って、飛万は満足そうにして、使用人をまた呼び、今夜は休むと言って寝室に下がった。
麗花は、飛万の部屋を出たその足で、添鈴の元へ向かっていた。今日は飛万の呼び出しだ会ったから、何時もより少し遅くなってしまった。添鈴が心配しているかもしれない……そんなことを考えながら添鈴の元に向かった。行くと、添鈴は何時ものように優しく麗花を迎え、ゆっくりと時を楽しむように部屋へ誘った。そして、部屋の扉を閉めると、そこから麗花と添鈴は客と店の人間ではなくなる。
「……今日は遅かったのね。何かあったの?」
遅かった事を怒るのではなく、純粋に何かあったのか心配して添鈴は麗花に尋ねる。同じベッドに腰掛けながら麗花はそんな添鈴に何となく安心しながら答える。
「父上が僕を呼び出して……明日から大陸に行かなくちゃならない」
思い出して急に麗花は真剣な顔になった。
「……急な話ね。……どのくらい?」
麗花の肩に手を置いて添鈴は尋ねる。もしも気の遠くなるほどの期間だったら、もしも麗花と会えなくなる事になったら……。李家の当主の言うことは、この島では絶対だ。理不尽に人が処刑されることだってあるし、嫡男といえども大陸に送られて戻ってこないということだってあるだろう。なにしろ、今までずっとこんなふうに大陸に行けと命じられることなどなかったのだから。
添鈴は不安を隠しきれない。
「……一週間、だって」
肩に置かれた手を握り返して麗花が答える。
「一週間……? たった一週間……そっか。一週、間……」
力無く添鈴は繰り返した。気の遠くなるほどの長い期間ではなかった。でも一週間だった。ここのところ、毎日会っていたのを思えば、長い期間ではある。
「添鈴……」
「なんか、私、変ね……。麗花と一生会えないような気がして……どうしてだろう。麗花はちゃんと一週間で帰ってくるのに……会えないなんてそんな訳ないのにね……」
綺麗に顔をゆがめた添鈴は言う。何故か、涙が溢れて仕方が無い。言いようのない不安が添鈴を襲うのだ。
「添鈴」
言いながら麗花は添鈴を抱きしめた。
「私……麗花のことが好きみたい……」
ふふ、と涙を零したその顔は、麗花が見た添鈴の顔の中で一番綺麗な顔だった。麗花はきつく添鈴を抱きしめた。そうして腕を緩めると、どちらからともなく唇を重ね合わせながら、ベッドへと倒れこんだ。
***
明け方に麗花は屋敷に戻り、彼は翌日無事に大陸へと出航した。船旅は片道だけで二日ほどかかる。一週間のうちの半分以上は船の上だったが、一日一日が長くて、麗花は早く李島に戻り、添鈴に会いたかった。そして、気の遠くなるくらいの長い船旅が無事終わって李島に帰れたかと思うと、飛万は度々麗花を呼び出し、用事をことつけて暇を与えなかった。
そうして、島へと戻ってきてから数日が過ぎて、麗花はようやく添鈴に会いに行く時間ができた。最後に添鈴に会ってから、もう十日もたった日のことである。
「いらっしゃいませ。麗花様。お久しぶりでございます」
店に入ると、いつものように娼館の主人の折り目正しい挨拶が来た。ただし、今日の顔つき少し意外な物を見るような眼差しであったが。麗花はいつものように添鈴に声を掛けようとする。しかし、添鈴はいつもの指定の椅子に座っていなかった。どうしたものかと支配人を振りかえる。
「支配人、添鈴は?」
問うと、主人はますます意外そうな顔をした。
「麗花様、今夜は別の娘を買いに来たのではないのですか?」
主人は首を傾げながら持っていた帳簿を閉じた。
「……何が言いたいんだ?」
麗花は静かに問い返した。麗花が添鈴以外の人間を買うことなど一生ない事など判っていながら、どうしてこの主人は麗花にそんなことを聞くのか不審に思う。
――判りきったことを、判ってないように聞くのは……?
「……添鈴は御頭首が屋敷に迎え入れると連れてお行きになられたではありませんか」
言って、主人はまた訳が判らないと言ったふうの顔をする。
ふと、よぎったいやな予感。添鈴がもう会えないのではないかと、訳も無く不安に思ったこと。
疑念が頭によぎった瞬間、麗花はすぐに娼館を出て、屋敷に帰った。どうしていきなりの大陸への使いに疑問を持たなかったのだろう。大陸に一週間程度行くだけなら他の人間を向かわせることもしばしばだったのに。何故、今回に限って麗花がいかなければならなかったかをもっと疑問に思うべきだった。
いやな予感は拭いきれない。あの厳格な父が、娼館の娘などを招き入れる筈など無いのだから。思い過ごしであってくれと願いながら麗花は屋敷へと急ぐ。
「父上!!」
ばん、とノックもなしに麗花は飛万の部屋に入って行った。
「何だ、騒々しい」
書類を片付けていた飛万がつい、と顔を上げて不機嫌そうに言った。
「お聞きしたい事があります」
いつもは冷静に徹し、父である飛万の前では決して取り乱す事のない麗花が取り乱している。飛万はその様子を見て、書類の影で口元を笑ませた。
「何だ」
書類を降ろして――口元はまた元に戻して――飛万は質問を促す。聞かれる事は判っている、とでも言うかのような態度の飛万。
「私が通っている娼館の娘を、一人連れ出したでしょう? 娘を……添鈴を……貴方はどうしたのですか……?」
小さく、やっとの思いで麗花は問う。聞きたくない答えを飛万は握っている筈なのである。それを聞かなくてはならない。厭な予感が渦巻いて、目の前がぐらぐらとする。だが、ここで気を失ってはならない。添鈴と再び会う為に……。
「……ああ、あの娘の事か」
惚けながら、飛万はとうとう耐え切れなくなったように口元を歪ませた。その途端に麗花はどうして良いのか判らなくなる。がくがくと膝が震えて今にも床に崩れ落ちそうだった。
「添鈴を……どうしたのですか……私に返してください……」
「……麗花、お前は良い時間に来た。いいものを見せてやろう。付いてきなさい」
すっと飛万が立ちあがって飛万は麗花の前に立った。添鈴を返せ、と言っているのに話をいきなり変え始めた。
「父上……!」
麗花の懇願に対して、飛万は愉快そうにするだけで答えようとはしない。
「逆らう事は許さない。……ついてきなさい」
鋭く冷たい目に睨まれて、麗花はゆるゆるとその後ろに従った。飛万が向かっているのはどうやら地下牢のようだ。ゆっくりと階段を降り、一段一段下って行くたびに地下牢独特のかび臭い臭いが立ち込めてくる。そして、血生臭い臭いも……。李家の地下牢は呪われている。そこに入れられた者は数こそ少ないが必ず死ぬのだ。いや、頭首によって殺される。何日かいたぶり、そして処刑される。だから、李家の地下牢は覗いてはならない。一生後悔し、自分もそこから出られなくなるからだ。
「麗花、最初に言っておく。お前はまだ若すぎるのだ。だから何が重要で、何がいけないのかがあまり良く判ってない」
地下牢に向かう途中に、飛万は何者をも受けつけない厳格な声音でそれだけ言うと、地下牢に続く廊下の鍵を開けた。その牢かに入ると、血なまぐさい臭いとかび臭さが増した。地下牢の独房は合計で六つある。処刑が行われるのは、必ず決まって一番奥の独房で行われる。その独房の前に頑強な男が一人、片手に得物を持って立っていた。男は、処刑人だ。彼がいると言う事は、独房にこれから処刑される人間が居るのだろう。何日かいたぶられている人間が居る筈の廊下は不思議と静かだった。どこか、寒々しい空気が流れているような気がする。
「……父上、ここで私に何を見せるおつもりなのですか?」
肌寒さを感じながら一番奥の独房に向かって進んで行く飛万に麗花が問うが、その答えは無い。処刑人は独房の鍵を開けて、飛万に挨拶する事も無く独房に入って行く。
「……麗花、見なさい」
独房の前に着き、飛万は麗花を促した。処刑人が入って行った後に独房を見せるということは、やはり飛万は今から行われる処刑を麗花に見ろと言っているのだ。
見たくないが為に目を閉じて、麗花が恐る恐る独房に足を踏み入れると、血生臭さが一層強くなった。そして、ゆっくりと目を開く。……そこにあったのは。
「……あ」
思わず、声を上げた。処刑人はまだ刑を執行していなかった。だが、飛万が『やれ』と一言でも言えば、その得物を振り上げてすぐにでも命を奪おうとしているのは明らかだった。その処刑人の足元に転がるもの。確かにそれは人間である。傷つき、血を流し、蹲っている。傷つけられる前は綺麗だったであろう長い髪が血で染まり、地面にべったりと貼り付いている。髪で顔は見えない。独房主は死んだかの様に動かず、ただほんの少しだけ呼吸の為に背中が上下しているのみである。微かに血に染まっていない部分の髪は黒ではなかった。暗くて見え難いが、それは栗色の……
「添鈴!?」
思い至って麗花はその名を叫ぶ。ぴくり、と独房の主が反応して、微かに首を動かした。……もう動けないほど弱っているらしい。
「……麗……花?」
力ない声が麗花の名を呼んだ。添鈴の声だった。必死に顔を上げようと試みているようだが、どうしても上げられない。ぎしぎしとと身体が悲鳴を上げるだけで、麗花の顔を見る事が出来ない……。
「やりなさい」
冷たい言葉が麗花の背後で響いた。すると、処刑人が頷いて得物を振り上げる。
「あ……リー……ホ、ア……」
又添鈴が麗花を呼ぶ。助けを求めるように。
「やめろぉぉぉぉ……っ!!」
としゃっ。そんな呆気ない音が、麗花の叫びを遮った。ぼたぼたと飛び散るもの。それは生温かい感触として麗花の服や肌にも飛び散った。
「あ……あぁ………」
目が、光を失ってしまったかのように。目の前が真っ暗になったようだった。ちかちかと目の奥が痛む。けれど、目からは鮮やか過ぎる紅が離れない。心が目の前の現実を否定する。こんなのは嘘だ。こんなの見たくない。……そう思うのに、麗花の身体は頑なに動かず、まるで石になってしまったようだ。
「……お前がこの娘に関わる事が無ければ、娘が死ぬ事は無かった」
冷たい声がそう言って麗花の背後から離れた。
「……」
麗花は何かいってやりたかったが、声が出なかった。麗花の身体は全ての能力を失ったかのように、そこから動く事が出来なかった。何がいけなかっただろう。
――どうして添鈴が。
何がいけなかったのだろうと麗花はぐるぐると考える。だが、全てもう取り返しがつかない。考えるだけ無駄だった。麗花はその夜、そこに立ち尽くしていた。
そうして、麗花は決心をした。
――このままではいけない。このままでは。
父、飛万の元にいては、何も出来なかった。だからといって今彼が選ぼうとしている道が、逃げであることを麗花は知っていた。けれど、今は飛万に抗うだけの力を持ち合わせていない。だから決心した。家出する事を。
「坊ちゃん……」
家での手引きをするのは、麗花を初めて娼館に連れて行った使用人だった。麗花は黙々と鞄に最小限の荷物を詰める。
「優人……止めても無駄だぞ」
使用人――優人の呼びかけに麗花は振り向きもせずにそう言った。屋敷の使用人が麗花の家での手引きをすると言う事は万死に値する罪である。少なくとも飛万はそう考えるだろう。だが、優人はそれを承知で麗花の家での手引きをしようとしている。
「……わかっておりますとも」
息を吐いて優人は廊下を見やった。
「あ……」
声を上げる。誰か来たらしい。
「失礼しますよ、兄上」
入ってきたのは銀髪の少年である。麗花は目もくれなかった。もう乗る船の手筈など、出奔する準備は整っている。今さら他の人間にばれたとしても大した問題ではない。次の日になれば必ずばれる事なのだから、荷物整理を今見られたってどうということはないだろう。
「……家出を、なさるそうですね」
無表情だった顔がすっと目を細めて楽しそうに笑った。
「……飛鷹……?どうしてそれを……」
麗花は初めて顔を上げて、銀髪の少年――飛鷹を振り返った。飛鷹……正確には李 飛鷹=アーレン。先程飛鷹が麗花を『兄上』と呼んだとおり、飛鷹は麗花の弟である。ただし、腹違いの。家出をする事がどうしてその飛鷹に知れているのかが判らなかった。知っているのは、麗花と優人だけのはずである。なのに。
「そんな事は今、問題ではありません。問題なのは麗花、貴方が家出をするか、しないか、ということです」
飛鷹は撥ね付けて答えを求めた。顔から笑みが消える。麗花はまずい、と思った。飛鷹は飛万のお気に入りだった。たとえ、その血の半分に大陸の名も無い娼婦の血が流れていようとも。お気に入りの飛鷹はもしかしたら飛万にこの事を告げ口するかもしれない。
「どうしたのですか?答えてください」
飛鷹が答えを促す。その顔は無表情だ。
「……私は、家を出る」
飛鷹に向き直って、麗花は恐る恐る答えた。すると、また飛鷹が笑った。しかも心底嬉しそうに。
「では、私を連れて行きなさい。そうすればあの人は怒り狂うでしょうから」
くすくすと笑い声を上げながら年端のいかない少年は言った。
「え……?」
麗花の顔が強張る。今、この腹違いの弟は何と言ったか。『私を連れて行きなさい』……確かにそう言った。そして、この少年の言うあの人とは。
「……私はあの飛万という存在がとても嫌いなのですよ。私の母親も彼によって殺されました……まぁ、私は母などと言う存在は覚えてなど居ませんがね」
ふっ、と笑みを消して辛辣な台詞を吐く。飛鷹はどこか大人びている。唐突に、麗花は彼の母が娼婦であったことを思い出した。
「……私を連れて行ってください。どうせ、貴方は独りでは生きていけないでしょう……?」
顔を歪めて、飛鷹はそう呟いた。
「ああ……そうだな」
そして、その夜の内に麗花と飛鷹は李島を発った。二人は、優人のおかげで飛万に見つかることなく家出する事が出来たのである。その優人がその後にどうなったのか、麗花は知らない。
***
過ぎ去った過去はもう戻らない。
すっと目を開いて、麗花は息を吐いた。埃を被ったベッドから立ち上がり、伸びをする。
麗花が、こんな風に喪に服して、潰れた娼館に足を運ぶのはこれで何度目だろうか。李島を飛び出し、大陸を旅をしているから同じ娼館には二度と行かない。年に一度、立ち寄った先で近くに潰れた娼館の中に入り、過去を思い起こす。別れた人の冥福を祈りながら。
二度とは帰って来ない日々。今でも麗花はあの添鈴の笑顔を鮮明に思い出せる。目を閉じれば広がる思い出たち。それを忘れてはいけないような気がして、彼女との楽しい思い出ばかりが詰まった娼館にはもう二度と行けないから、代わりの潰れた娼館で想いをはせる。……そして、今年もそれも終った。
麗花はずっと膝の上に乗せっぱなしだったゆりの花を据え付けられた机の上に置くと、入ってきた時と同じように音も無く娼館を後にした。
―――添鈴、また、一年後……。
娼館を改めて見上げてから、麗花が歩き出そうとすると、目の前に銀髪の少年が立っていた。麗花と同じく、袍を着ている。
「飛鷹」
あの時よりも随分と身長が高くなった弟の名を呼び、そして微笑んだ。
「麗花、ここに居たのですね……少し探しましたよ」
眼鏡をくいっと持ち上げて飛鷹は文句を言った。少し、と云う割には飛鷹の顔に疲労の色は強い。
「すまない……じゃあ、行こうか」
歩み寄って麗花は飛鷹の横に並んだ。そして二人は歩き出す。
「薬の注文がありましたので次はローラントに行きましょう」
鞄の中に入れていた帳簿を捲りながら飛鷹が言う。麗花は頷くだけだ。日暮れが近い寂れた町並み。二人はその中を歩いていく。ゆっくりと、二人で。
麗花と飛鷹は薬を売りながら旅をしている。旅の間で麗花には飛万に抗うだけの力がついたのかなんて判らない。もしかしたら全然足りないのかもしれないし、十分過ぎる程力をつけているのかもしれない。けれど、旅は続く。飛鷹と二人で。旅は、続いていくのだ。