第10話 円環の盟約
俺がオペラキャットの死骸から降りるのと、転倒していた観客たちが目を開くのはほぼ同時だった。レベル1のオペラキャット。雑魚筆頭として扱われることの多いチルドレンとはいえ、それを対人用の小口径の銃で討伐されたという状況を理解しきれないようだった。
『な、なにが起こったんだアァァァ!? 霧で目隠しされている間に、あのオペラキャットが一匹討伐されているウゥゥゥ!!』
DJのわざとらしい実況の後、周囲から刺すような視線が降ってくる。
状況をいまいち把握できていないのだろう。どちらが勝っているのか、自分たちの目の前に広がる景色から情報をかき集めようとしているらしい。彼らの中には、ちらちらとホテルの外壁に投影された制限時間を見ている者もいる。『7:28』。これだけやって、ようやく半分らしい。
俺は場内を見渡してみる。
あれだけいたのに、今や68人のうち立っているのは俺含め20人ほどだった。
不良品のナノマシンを飲んでいるとはいえ、このままでは失血多量でショック死する者が出かねない。死者を出さないためには、あと七分半をのんびりと待つことなどできない。指示を出すべきか。だが、リーダー格を倒した今が攻める時だと言ったところで協力者がいるのか――。
「…………」
俺が次の一手を決めあぐねていると、瞬間、視界の端で黒い物体が横切るのが見えた。
それは一羽の黒いフクロウだった。
どこかで見た覚えのあるそいつを俺が目で追っていると、そいつはいきなり残りの二匹のうち一匹のオペラキャットの顔に向かって爪でひっかきはじめた。眼球を潰しているのか、フクロウはオペラキャットの抵抗を躱しながら巧みに飛行している。速度の緩急からしてただの自然動物という線は低い。
そのとき、最後の眼を潰されたオペラキャットに跳躍して飛びかかる者がいた。俺と同じような格好をしたそいつは、道中、ブラスターを軽やかな宙返りで躱すと、そのままサンダルをそいつの顔面へと叩き込む。
軽そうな体格に対し、確かな重みのある蹴りで牙ごと鼻面を陥没させると、衝撃でボンッとひっかかれた眼球がいくつか飛びだす。直後、そいつが脳震盪でよろよろと倒れそうなところに、最小限の動きで持っていたリボルバーを弱点であるコアへと密着させる。
いくらチルドレンの皮膚が厚く、対人用の銃弾がチャチであろうと、零距離からの弱点射撃はさすがに無傷ではいられなかったらしい。たった一発でコアを貫通したそれは、すぐに破砕して全身を黒く溶解させていく。
「お前は――」
そのとき、一連の動作の中で目深にかぶったパーカーの中の顔が露わになる。
そこにあったのはブラウン管テレビのような箱型モニターで、画面にはピクセル状のエモティコンが表示されていた。黄色い顔はひっきりなしに心情の変化を表すようにして勝手に動いている。
俺はそいつを知っていた。一年前、ステラの位置座標をよこしてきた張本人。アナログな筐体にパーカーをかぶせたそいつの正体を知った瞬間、俺は息を呑んでいた。
(フード野郎……、あのとき、下層の天井を爆破したやつがなんでこんなところに――)
直後、他にも機会を伺っていた動けるやつが数人いたらしく、すぐに最後のオペラキャットが討伐される。三体のレベル1の死骸から蒸気が立ち昇る中、残すはレベル3だけとなった。これで雑兵という邪魔者がいなくなり、レベル3のグミトカゲの討伐だけに絞られる。
『これでェ、残りはあの半透明のトカゲ野郎だけだアァァァ!! まさか、まさかあるのかァ! 数年ぶりの新たなニューフェイスが現れようとしているのかアアア!!!!』
人間側が勝つ。
席にいそいそと座り始める観客、五体満足な参加者、司会者までもがそう思ったに違いない。大穴狙いの観客たちは歓喜に湧き、それを声で発散しようとする。
だが、そのときだった。
――――――――ッ!!!!
グミトカゲが突然、背中から生えた砲塔を震わせると、ろくに照準もしないままブラスターを乱射してきたのだ。先の目潰しでかなり頭にきているのか、赤い光球の弾幕はところかまわず、観客席にまでぶちまけられていく。
ホテルの一室がベランダごとふきとび、ようやく観客席からウワァと悲鳴があがった。歓声ではない。逃げ惑う人々が、ようやく薬漬けの頭で危険だと理解したのだ。
あれだけの高威力な光線銃を埋め込まれたチルドレンを、人が飼いならすことなどできるのだろうか。おそらく、何らかのショックで使用不可になる緊急措置があるはず。しかし、あれが兵器と新生物を合成したただのキメラなら手を付けられない。
(観察しろ。今ある要素を繋げろ。なにか、なにか――!!)
真っ赤な光弾のブラスターを避けていると、俺の足にこつんと当たるものがあった。視線を下げると、そこには他の参加者が持っていた短機関銃が落ちていた。だが、肝心のマガジンが刺さっておらず、銃身も錆びついてボロボロだった。
それでも、俺は銃弾と規格が同じことを確認すると、片手で何とか薬室に一発だけ込めて銃口を向けた。すでにグミトカゲ野郎の左側面に回っていたこともあり、距離はさっきよりもずっと近い。だが、その瞬間、ヤツの脇腹にある眼球がぬとぬととした緑色の粘液ごしにギョロリとこちらを睨むのが分かった。俺は照準ごしにその眼球を睨み返すとトリガーを引き絞った。
「――っ」
予想通り、今度は距離が近いことで警戒されていたのか、やつは撃たれると察知した眼球を保護膜で閉じると、上から粘液で二重に保護しはじめる。俺は弾切れで再びスライドが後退した薬室に、ポケットの中の最後の弾を込めると左側のもうひとつの眼球に照準を向ける。
そちらも撃つときに保護膜と粘液で防がれたが、今はそれでいい。
やつは一度、保護膜を粘液で覆うとそれが乾くまで目を開けなくなる。今はやつの左半分の視界を塞げればそれでいい。
俺は盲目状態のグミトカゲに短機関銃を投げつけると、やつの後ろにある広告パネルに向かって走りだした。パネルには俺が最初に躱したブラスターの弾痕があり、基盤が赤くどろどろに溶けて漏電している。
そこにナイフを突っこむと、配線コードをぶちぶちとさらに引き摺りだしていく。背後で銃のフレームや部品、無機物が溶ける音がする中、通電中のそれを地面までだらりと垂れるまでひっぱっていく。途中、右手に鞭で叩かれたような痛みが走るが、漏電した電気が皮膚を裂いただけだろう。血がぼたぼたと腕を伝う中、俺はようやく設置を完了し、観客の投げた空き瓶を手にとった。
「時間さえ稼げれば――」
この勝負において、俺たちがこのレベル3を討伐する必要はない。
制限時間いっぱいまでに逃げ切れればそれでいい。幸いにも、こいつの攻撃手段は背中から生えた光弾と全身の強酸粘液、そしてあの光学迷彩による不意打ちだけだ。つまり、制限時間までにブラスターを機能停止にし、やつを行動不能にさせればこちらの勝利が約束されているということ。
俺は闘技場内の地面に設置された蓋のようなものに注目していた。
あれはグラウンドの砂が風にのって舞わないようにするための『スプリンクラー』だ。その下には水道管があるはずであり、それを何とか起動させればやつを感電させることができる。
そう、俺はやつを感電させようと目論んでいた。
いくらヤツの纏うそれが粘性とはいえ、あれだけ濡れているのであれば接触しただけで相当なダメージになる。今しがた、俺がオペラキャットの血で濡れていた手が裂けたのだ。それにあの粘液がもし、目論見通りの成分なら――
『3:55』
残り4分弱。
そうこうしている間にも、ホテルの外壁に投影されたタイマーは着々とその数字を減らしていく。
そのとき、まだ、左側面の眼球が開いていないにも関わらず、やつの背中の砲塔がこちらを向き始める。自分の顔が引き攣っていくのを自覚した直後、その砲口から高密度の光弾が俺の真上を通過していく。
「熱っ――」
遅まきながら姿勢を低めるも、頭皮を焦がすような熱がジンと脳にまで到達し、目の前が何度も点滅する。視界が白黒と明暗転する間も、砲塔からは無差別に光弾が発射され続けてくる。とはいえ、相手が盲目で射線が分かっている以上、躱すこと自体はそこまで難しくない。
だが、そのとき、グミトカゲの口がもぞもぞ、もごもごと不規則な動きをした。
歯に虫でも詰まったのかと思った瞬間、半透明のやつの体内で緑色の液体の塊が蠢くのが分かった。それは間髪入れずに、やつの食道を逆流し、咥内へと移動していき――
(――っ、嘔吐ったぁ!?)
グミトカゲの全身が痙攣するとともに、そいつの口から大量の吐瀉物がぶちまけられたのだ。先ほどまでやつの全身を覆っていた粘液が吐きだされ、ぶっかけられた地面がじゅうと溶けていく。残っている者たちが慌てて重傷者を引き摺って距離を取ろうとしている。
何をする気だ。
そう思っていると、突然、グミトカゲの全身に突き刺さっていた杭が一斉に騒がしく点滅し始めた。よく見ると、その杭の中からやつの体内に何かが注入されている。色のついた水入りの風船に、注射で別の色のインクを入れているような感じだ。――嫌な予感がする。
直後、グミトカゲの体の色が変わっていく。
今までは半透明の薄い黄色のような色だったのが、真っ赤に発光するものへと変わっていく。ヤツの原子核を巨大化させたようなコアが、赤、青、紫の光が螺旋を描きながら回転数を上げていく。
内燃機関のようなコアで作られたエネルギーは余すことなく、すべてエネルギー供給ラインから背中の砲塔へとせり上がっていく。限界以上に水を入れられた水風船のように、グミトカゲは全身の目玉を飛びださせながらぶくりと体を膨らませていく。
ついには背中の砲塔の接続部が耐え切れず、バガンと盛大にもげてしまう。そこから大量のエネルギー源の奔流が溢れるまで、そう時間はかからなかった。
「――っ、伏せろっ! 無差別攻撃が来る!!」
俺がそう叫んだ直後、空間を轟かすほどの爆音がし、ヤツの背中から花火の四尺玉を暴発させたような大輪が咲いた。上空ではなく超至近距離でぶちまけられた高熱の塊は、すぐに菊型に広がって闘技場全体を覆っていく。
ヤツの下に潜り込もうにも、さっきの酸性の吐瀉物でヤツの唯一の死角である懐は潰されている。このままでは逃げる場所がない。
「ぐっ――」
何とか落下地点を予測しながら、俺はその範囲攻撃を避けていく。
地面に落ちたそれは溶けた鉄のようになっており、盤上の砂をぶすぶすと焦がしていく。触れれば皮膚が骨まで焼けるだろう。俺は持っていた空き瓶を割ると、尖った箇所でそれを拾いあげた。
狙うはヤツの左脚の下にある散水機。
おそらく、あれは運営の人間側が全滅した際の救済処置のものでもあるはず。水道管の大元に栓さえしていなければ、破損した時点でスイッチを押さずとも勝手に使うことができる。
(頼む――)
そんな祈りとともに拾い上げられた高熱の塊は――放物線を描きながら――スコップで放られた犬の糞のような挙動でぽとんと蓋に落ちた。溶岩をも凌ぐほどの熱のおかげか、それはバターのように蓋を溶かしながら下へと落ちていく。
ぷしっ、ぷしっ――。
水しぶきが漏れる。
そこから大量の水が噴射されるまで、そう時間はかからなかった。
『おおっとォ、これはァァァ!! ヤツの攻撃でグラウンドの散水機が破損したァァァ!! 大量の水がトカゲの体を覆っていくゥゥゥ!!!!』
DJの実況通り、大量の水が蛇口の壊れた水道管から噴出し、グミトカゲの巨体を覆っていく。それと同時に、ヤツの体から大量の蒸気が爆発的に膨れ上がっていく。いまや、ヤツの全身すべてが沸騰したヤカンのような状態になっていた。
(やはり、あれは濃硫酸だったか――)
濃硫酸に水をかけると発熱反応が起こり、急激に沸騰することで水蒸気爆発のようになることもある。加えて初夏の熱帯夜という条件も重なり、通常よりも水が沸騰しやすかったのだろう。
よく見ると、ヤツの右手のあたりに別の散水機の蓋がある。ヤツはそれを操作することで水蒸気爆発のような現象を生みだしていたことが分かった。
「っ、くっさッ、……げほっ、げほっ……」
そのとき、やつから腐った卵のような刺激臭が漂いはじめる。
俺がぶっこ抜いた広告パネルの配線が、水に濡れたグミトカゲの皮膚に触れていた。奇しくもそれは、不揮発性の希硫酸を酸素と水素に電気分解させ、ヤツの体内から漏出する三百度を超える熱が三酸化硫黄と水に分解させていたのだ。
つまり、今のグミトカゲはいつ暴発するか不明の巨大爆発物。
わずかな火種で容易に爆発する――。
そうなればヤツを倒せはするだろうが、爆発でどれだけの被害が出るか想像もつかない。
「――っ、……なっ……」
と、そのとき、やつから離れようと走りだした俺の前に、グミトカゲが再び吐瀉物をぶちまけたのだ。今度は俺の退路を塞ぐような場所にまんべんなく広がっていき、やがて完全に逃げ道が潰されてしまう。濃硫酸の水たまりの上をサンダルで歩けば、下手すれば骨まで溶かされて二度と歩けなくなるだろう。
まずい。
ヤツを倒す布石を打っていたはずだった。だが、事がこうも悪い方向に進むとは思っていなかった。せいぜい、やつを全身火だるまにさせて時間制限まで逃げ切ってやろうと思っていただけなのに――。
「――っ」
観客席に退避しようにも壁は三メートル近くある。強化された身体能力で、広告パネルの突起があっても、さすがにその高さを登ることはできない。ヤツの全身から噴出する蒸気で視界が悪く、他の参加者たちは重傷者を運搬するので精一杯らしい。
自分の隣にタイマー付きの爆弾が置かれているような状況に、俺はぴたりと闘技場の壁に背中をくっつけた。それでも、ほとんど死骸になりつつあるグミトカゲから噴き出る蒸気は止まらず、刺激臭はさらに場内へと立ち込めていく。
――――死ぬ。
逃げ道のない環境下で、俺は脳の奥底から湧き出るノイズを聞いた。
正体不明のそれは、どうしようもなく耳障りで自分という人格を全否定しているような気がした。ノイズの音量が上がっていく。意識が遠のいていく。
【■■■■■■、□□□□――】
視界が青く変わっていく。
青く、暗く、藍色に染まっていく――。
だが、そのときだった。
『そこまでッ――!!』
突如、闘技場内にキィ――ンとマイクがハウリングする音が響きわたった。瞬間、全身から蒸気を噴出させていたグミトカゲがぴたりと凍りついたように停止した。
いや、よく見ればその体には薄く線が走っており、しだいにぷつんと小さな緑色の粒が流れてくる。しばらくして、ヤツの体内で突然コアが破砕したかと思うと、三枚おろしにされたような体勢でスライドしていき、ずちゃりと肉のような音を立てながら絶命するのだった。
ヤツの陰から現れたのは、これまた人外極まりない外見の義体者だった。シガーソケットのような赤い単眼が三度笠の隙間から見えている。剣のように細い両足は僅かに地面から浮いており、その義体者はその機械刀を無駄のない動きで納刀した。
その場にいる全員がこの男には太刀打ちできないと即座に悟る。――敵か、味方か。そんなヒリついた空気を払ったのは、先ほど進行役のDJからマイクを強奪して制止させた男の声だった。
『――時間だ』
気づけば、ホテルの外壁にある時計は『0:00』と制限時間いっぱいになっていた。直後、闘技場内にあるすべての散水機が作動し、地面にぶちまけられた液体を洗い流していく。
だが、いきなりの制止に戸惑う者たちも多く、いまいち状況を掴み切れない者たちも多いらしい。群衆のざわめくような声がこちらまで聞こえてくる。
『あれ、クナイ団長じゃないか?』
『団長、あのクナイ団長!? 普段、滅多に姿を現さないのに……』
一部、観客席からホテルの最上階を見上げながら、指をさす者たちがいる。だが、グラウンド照明の眩しさのせいもあってか、ほとんどが目を細めながら上を仰いでいるだけだ。そこに、クナイ団長とやらは結果発表とばかりにアナウンスを続ける。
いつしか俺の聞いていたノイズはなくなっており、視界のフィルターも通常時に戻っていた。
『ご苦労だった。今回は人間側の勝利らしい。立っている者は――12名だ。彼らは我々の新たな仲間となる。……人単、枠連、ワイド、その他の投票券は失くさず、すぐに換金か物々交換するように。それじゃ、くれぐれも強盗とスリには気をつけろ。今回の入団テストはこれで以上だ、――ご苦労だった』
直後、密かに大穴に賭けていた観客たちが一斉に立ち上がり、紙の投票券を握りしめながら大歓声をあげる。外れたと悪態をつく者たちもいたが――全財産を賭けたやつはいなかったのか――そこまで怒り狂っているやつはいないように見えた。もちろん、中にはそういうやつもいたが、すぐに会場のスタッフに目をつけられ連行されていく。
「……クナイ……」
俺はスプリンクラーの雨を浴びながら、観客の言う団長の名前らしき単語を呟いた。
どこかで聞いたことがある気がする。
だが、記憶が曖昧で何かまでは分からない。いや、今はそんなことよりも――
「そうだ、フード男は、どこに……」
あのとき、ステラが売られている場所を俺に教えた張本人。なぜ、俺にあの子を預けたのか。どうして下層であんな爆発を起こしたのか。聞きたいことなら山ほどある。他の参加者たちが歓喜する中、俺が慌てて周囲を見るもパーカーを目深にかぶった者はおらず、フクロウを肩に乗せたやつなど――
「――っ」
いや、よく見ると俺たちが出てきた待機室に――負傷者を医務室に運ぶための救急隊員に混じって――足早に戻っていくやつを見つけた。遠目からでは雰囲気はすこし違う気がしたが、パーカーをかぶり肩に黒いフクロウを乗せている。
気づけば、俺は濃硫酸の水たまりを避けながらその後を追いかけていた。
「おい、待てよ、パーカー野郎!!」
「…………、……なに?」
俺がそのパーカーの肩に手をかけるも、返ってきたのは青年の声ではなく、不機嫌そうな女性の声だった。俺はてっきり、変声機で別人を装っているのかと思ったが、仕草から滲みでる雰囲気からして完全に別人らしい。
もう片方の肩に止まる黒いフクロウが『ホホー』と威嚇するような声をあげる。
「何か用?」
「……あんた、俺と前に会ったことないか」
彼女は女性らしいエモティコンを表示させながら振り返った。
突然、初対面の相手に話しかけられて不審がっているらしい。新手のナンパだと思われたのか、彼女はムッとした表情の絵文字で腕を組む。
「なに? 残念だけど、わたしはアンラック・ジュエリー。……あなたとは初対面よ」
「えっ」
確かに、よく見ると一年前に会ったあのフード男よりも一回り小柄だ。筐体にも女の子らしい髪留めのシールが貼られている。だが、体格や性別、外見など義体者ならすぐに変えられる。演じているのかどうかまではまだ分からない。
「一年前、あんたと同じような格好をしたやつと会った。白いフクロウを肩に乗せたやつだ。ネオミナトミライの下層、セクター4あたりにいた……」
「……もしかして、ラック・ジェフティーのことを言ってるの?」
「そ、そうだ。それかもしれない。そいつに会いたいんだ。なにか知らないか」
俺たちの脇を重傷者が担架で運ばれていく。
いまだ闘技場の熱気が立ち込める待機室の通路で、俺はじっと彼女の返答を待った。だが、アンラックは何かを思い出すような仕草をしたのち、筐体の頭を横にふった。
「残念、わたしも知らないわ。ここ数十年、連絡もとってなければ会ってすらないもの。最後に会ったのは、それこそ東京決戦がはじまる前よ」
「……そうか……」
分かってはいたが、俺はすこし落ち込まずにはいられなかった。
掴みかけていた手がかりが霧散したようなやるせなさを覚えていると、ラック……ではなく、アンラック・ジュエリーはタメ息らしきノイズを発して踵を返す。
「もういい? それじゃ、わたしはもう行くわ」
せめて連絡先でも、と話しかけようとしたとき、今度は俺の肩が誰かに叩かれた。振り返ると、そこにはいかにも研究職のような白衣を着た青年が立っていた。やけに薬品のような臭いが漂っている。俺は塩素のようなそれに眉を顰めながら相対した。
「あんたは?」
「やぁやぁ、そう警戒するな。きみが68番のクロノだね? 僕は李、案内役さ。……クナイ団長が呼んでる。付いてきたまえ」
眉の濃い研究職然とした青年はそう言うと、自前の白衣のポケットに両手を突っこんだ。口に咥えているのは煙草ではなく、棒付きの飴玉らしい。
俺がさっきのアンラックとやらにもう一度、話しかけようと顔を向けるも、すでに待機室とその通路に彼女の姿はなかった。代わりに、破損した広告パネルの残骸や観客のゴミを回収する搬入班でごった返しており、そこに担架を使った医療班も入って混雑し始めていた。
早々にここから離れたほうがいい。
そう判断した俺たちは、研究職の青年に連れられるがまま別のフロアへと移動し始めた。すでに右腕の止血はナノマシンがやってくれたらしく、道中、ガラス窓に反射した自分は汚水と血で汚れて落ち武者のようになっていた。
廃棄されたホテルの入り組んだ階段を上がっては下がり、別棟を何度か経由したのちに目的の部屋へとたどりつく。そこは他の階と比べて薄暗くも、廊下に豪華なカーペットが敷かれており、整備もきちんと行き届いているように見えた。俺は研究職然とした青年に促されるがまま、暗い木目調の扉を開けて中に入った。
***
暗い基調のフローリングの執務室で、団長らしき人物が書斎机の向こうで腰かけている。男は黒紋付の羽織袴を着ていた。
珍しい。本棚がある。紙の本だ。多少、日に焼けているとはいえ、表紙と裏表紙が揃って糊で整えられたものはこの時代では高級品だ。とても、こんな廃棄されたホテルの一室にあっていいようなものではない。
それとも、このクナイ団長とやらの手腕で集めているのだろうか。
間接照明とブラインドカーテンの隙間から漏れる明かりだけが光源の部屋の中で、書斎机の前で座る男は唐突に口を開いた。
「やあ。きみが、うちの情報屋にコンタクトしてきた、クロノくんかい?」
「……ああ、そうだ」
そう答えるや否や、クナイと呼ばれるこの男はサングラスを外し、こちらを一瞥してくる。瞳孔の奥で青い点滅を繰り返す義体者の男は、こちらの全身を吟味でもするようにして観察してくる。
部屋の中には、俺とクナイ団長以外誰もいない。
いや、廊下にさっきの研究職然とした青年がいる。他にもどこかは分からないが、別の人の気配がする。だが、場所までは特定できない。
「ほほぅ、やっぱり偽物じゃない。見間違えじゃなくてよかったよ」
「…………、……あ?」
自分でも肝が冷えるほどの殺伐とした受け答えに、クナイは怒るでもなく微笑んだ。
なにも威嚇しているわけではない。ただ、人命を賭け事に使うその性根が気に食わなかっただけだ。どこか月庵の現院長と雰囲気が似ているのも原因だろうが。
「そうだ、自己紹介が遅れたね。僕の名前は『宮内』。呼ぶときは、分かりやすくクナイとか団長とかで構わないよ。数少ない純血の日本人同士、仲良くやろうじゃないか」
「……数少ない?」
「ああ、きみはまだ知らないのか。ほら、ネオミナトミライの上層って、ほぼ日系人しかいないんだよ。中層、下層と下がるにつれて不法移民の血筋が増えていく。首都三大企業の内、月庵と三ツ橋も元々は純日系企業だしね」
「…………」
「隕石が降ってくる前の負の遺産だよ。増長された血統主義の成れ果てさ」
エディ・テイラー、アト・フェムト、リリー・キャンベル。
確かに、今まで会ってきたやつらはみんな名前が日本人らしくなかった。俺がコールドスリープする前には実質的な移民政策が施行されていたが、なにか関係でもあるのだろうか。と、そのとき――
「す、すみません。今日、連れてくるはずだった例のひとですが、途中で失踪してしま――」
俺が入ってきた扉が開け放たれ、そこからあの顔のない少年が姿を現す。真っ白なマネキンのようなのっぺらぼうは、どこの器官で把握したのか、俺の顔を指さすと「ア――!」と声を出す。
「ああ、何でも屋の息子か。この通り、彼ならすでに回収している。無論、きみたちが頑張ってくれたことも知っている」
「つ、つまり――」
報酬の減額を恐れているのだろう。
だが、クナイはあたふたと慌てる少年に対し、ニコニコと微笑みながら頬杖をつく。
「チップは弾んでやる。今回の調教と捜索、見事であった。次も期待しているぞ」
「あ、ありがとうございます! では――」
クナイの両目が再び点滅する。
少年はしきりに左下に視線をちらちらと向けながら、喜びを隠しきれないとばかりに頭を下げ、退出していった。廊下で『ひゃっほぅ!』と奇声が響く中、クナイは再び俺の方へと顔を戻す。
「ああ、そうそう。ちなみにだけど、きみの通っていた医院のディールくんとは昔から仲が良くてね。時々、きみの情報を流してもらってたんだ」
「……何のために……?」
「んー、教えてもいいが、今のきみにはまだ早いかな。もうしばらくしたら話してあげよう。今はお互いに信頼関係が築けていないようだし」
クナイは微笑みながら、俺の右手に視線を向けた。
ポケットの中に隠していた瓶のガラス片を知っているのだろう。バレているのならば仕方ないと、俺は観念するようにしてポケットからそれを落とし、サンダルで脇にどける。
「さて、きみには我々『円環の盟約』の正式な構成員になってもらう。なに、お試し期間ってやつだ。嫌ならいつでも蒸発してくれて構わない。が、常に監視がつくことだけは忘れないでくれ」
「……俺に、選択肢はないと?」
「うん、そうだ。きみは、きみ自身が思っているよりも危ない存在でね。しばらくの間、うちで匿わせてもらう」
まるで核兵器でも扱うような言い方に、俺は複雑な気持ちになった。
ただの一般人の自分がなんだというのか。ただ普通に生きてきたはずだ。他人から危険視されるようなことは、なにも――
【■■■■■■、□□□□――】
「いっ……」
左眼に痛みが走り、俺は僅かに下瞼を痙攣させた。
『そのノイズが何なのか。キミがどうしてこの時代で目覚めたのか。……キミの知りたいことはすべて、私が答えてあげられるはずだ』
ノイズに混ざって、月庵の声が脳内で響いている。
それは誰かに、自らの存在意義を諭されているような気さえしてしまう。
と、そのとき、クナイが書斎机から万年筆を手に取り、空中に何かを描き始めた。元々、透明なガラスがあり、そこにホログラム用のインクで描いているのか。どちらにせよ、クナイは神妙な面持ちで筆を置くと、その書面を投げてくる。
「最後に君に問わなければいけないことがある。昔から人を見定めるのによく使う質問のひとつでね。聞かせてくれ、『凡人は見栄を張り、秀才は謙虚に振る舞い、天才は馬鹿を演じる』――キミはどれだい?』
「…………」
どんなメカニズムなのかは分からないが、空中に描かれた書面がツーと平行移動しながら俺の目の前までやってくる。どうやら何かの宣誓書の類らしい。下には自分の名を書く署名スペースが空いている。入団テストを受ける際のタブレット同様、指で書けということらしい。
ずっと、自分のことについて考えてきた。
自分はいったい何者なのか。どうして、三百年も時間の経った時代で目を覚ますことになったのか。そこに何か意味はあるのか。自分は何のために生きているのか。一寸先も見えない暗闇に伸ばした手が虚空を掴む。
「俺は……、その、どれでもない」
それでも、俺の答えは決まっていた。
「俺は、自分だ。そんな形式的なタイプに分類できるほど簡単な人間じゃない。――悪いが、あんたの質問には答えられない」
自らの名前を書き終えると、宣誓書はまたもや音もなくクナイの手元へと戻っていくのだった。しばらくの間、クナイは考えるような素振りをしていた。だが、最後にはまたしても微笑むと、その書類に調印をする。
「ニンゲンね。やはり……、……まぁいい。歓迎するよ、クロノくん。今日からここが、きみの還るべき場所だ」
執務室内の照明が暗転する。
ブラインドカーテンの向こうで煌々と明かりを灯していたナイター塔の明かりも消え、電力供給元が変わったのかブレーカーが落ちるような音が響きわたる。仄暗い暗闇の中で、ぼんやりとクナイの両目だけが青く点滅している。
直後、発電機が復旧したのか、いっきにホテル全体がライトアップされる。執務室内はもちろんのこと、闘技場にまわしていた電力が他のホテル内の照明に注ぎ込まれていく。【円環の盟約】。いつしか、執務室の壁には、そう描かれたホログラムの旗が「宮内」と名乗る男の背後で漂っていた。
「ようこそ、――円環の盟約へ」
「ラック・ジェフティー」
(第31話参照)




