第3話 最下層の住人
フロアの一角で、突っ込んできたトラックが横転したまま炎上している。
消火用スプリンクラーが作動する中、月庵は衝撃でふっとばされたのか、自販機の筐体に全身をめり込ませていた。フレームがひしゃげるほどの威力だ。常人ならタダでは済まない。周囲では野次馬がいないにも関わらず、ざわざわと誰かが囁き合うような雑音が漂っていた。
「…………」
煙で燻された自販機から、翡翠の眼光が滲みでる。月庵の左眼から発せられる光は、彼がむくりと起き上がると同時に強くなる。
月庵は今しがたトラックの突っ込んできた方へと歩いていくも、そこにクロノの姿はなかった。
あの一瞬、トラックは間違いなく月庵の方に殺意を向けていた。これは事故ではない。明らかに『轢き殺そう』という意志が存在していた。月庵はちらりとトラックの運転席も見るも、もちろんそこに運転手などいない。
これだけの衝撃と炎上でも爆発しないということは、何も積み込んでいない空荷だったのだろう。不幸中の幸い。いや、何者かが意図的に爆発の範囲を抑えたのか。
月庵はしばらく考え込んだあと、シャワーでも浴びるような動作で髪を掻き上げ、消火中のトラックから身を翻すのだった。義体はそこまでダメージを負っていない。
「月庵院長――」
「……ん、なんだね?」
そのとき、ナース服を着ていた女性が月庵に近寄り、淡々とした表情で現状報告をしはじめる。
「申し訳ございません、逃げられました。上層の治安維持部隊が出動したようで、乗っていたホバーバイクを追尾ミサイルにて撃墜。大破したバイクと操縦者は最下層の下水処理施設へと繋がるチューブに入った模様です。――現在、捕獲には至っていません」
「……ふむ、侵入者の方は?」
看護師もとい義体技師の女性は、すこしバツの悪そうな顔で言葉を続ける。
「……そちらも調べたところ、清掃用ロボットが何者かに遠隔操作され、サブ管理制御室に直接接続されていました。幸いにも統合管理AIが危険を察知し、すぐに全館のシステムを一時的に凍結させたため情報は抜き取られませんでした。ですが、ダイバーの逆探知までは時間が足りず、その、逃げられました……」
「となれば、あの突っ込んできた空輸トラックも同じか」
「はい、そちらも無人運転車両だったため、ハッキングされたのは間違いないかと。……いま【S.S】の上層・統合管理システムにログの確認を要求していて……」
月庵は脳核に知能ブースターを入れていない。
義体者にそんなものは必要ない。入れても回路の邪魔になるだけだ。
「いかがなさいますか。今なら、追手をだしても……」
「……いや、大々的に追手を出すのはまずい。三ツ橋の連中に気づかれたくない」
「では、このまま泳がせるということで……」
そこで、月庵は妙案を思いつく。
「そうだ。下層の地下組織を使え。最下層は現地の連中の方が小回りが利く。……万が一、都市の外に逃げられたとしても周囲の集落に探りを入れればいい」
「承知しました」
ぱたぱたと女性がスリッパを鳴らしながら去っていく。
月庵もまた、消防車両がこのフロアに集まるのを察知したのか別方向へと歩きだす。
「それにしても、彼がこの都市の下層で傭兵として働いていたとは。灯台下暗しとはこのことか。……いや、さすがに外部から情報を改竄した者がいるか? ……だが、誰が……」
思い当たる節なら腐るほどある。
だが、月庵はそれを考えたところで、過去の出来事を言っても仕方がないかと頭をふった。
【■ル■ジ■■ド、□□解除――】
やがて、月庵は左眼から漏れ出る翡翠色の光を制御すると、周囲で誰かが口々に囁くような雑音も収まっていくのだった。月庵はふと、誰かにじっと監視されているような悪寒に襲われた。見られている方向へ視線を向けると、トラックが突っ込んで空いた穴の奥で、満月が晴天の青空の中をゆっくりと漂っているのだった。
「まさか、お前か、アヌビス――?」
***
「わあああああああああ――っ!?」
あらゆるパイプ管が張り巡らされた巨大な下水菅を、俺はウォータースライダーのごとき勢いで滑落していく。そうとうな急斜面なせいか、ちょっとした段差で体が跳ねては、ひたいを天井にこすりつけそうになっていた。滑るたびに下水道内部を照らす非常用電源が後ろへと去っていき、そのたびに空気を切る風音が耳元をよぎる。
「――がっ……!?」
その瞬間、内臓がぶわりと浮いた。
大きめの段差のようなものがあったらしい。しばらく宙を浮遊した体は、再び重力に従って滑るように流れる汚水へと着水する。どこかに掴まろうとするも、糞尿にまみれ続けた下水道はぬめりとしたヘドロがこびりついており、爪に排泄物が詰まるだけだ。脱出口となる扉も見当たらない。だが、このまま落ちていって無事で済む保証もない。
「――――ッ、なんだ!?」
そのとき、俺は聞きなれない動物の気配を感じ取った。
嫌な予感がする。俺は滑落した状態でゆっくりと天井に視線を向けると、さっきとは打って変わって天井にぶよぶよした卵が付着していることに気づいた。
かなり大きい。
加えて、下水管に充満する臭いが明らかに変わった。さっきまでは腐葉土にアンモニアを混ぜたような腐ったものだったのが、猛烈な腐卵臭のようなものに変わったのだ。
まさか有毒ガスか。
いや、この感じは違う。たしか以前、どこかで聞いたことがある。NMM都市内部にもひっそりと生息しているチルドレンはいるのだと。その中のひとつに『殺人スパイダー』とかいう種があったはず。情報によると、ひとつの巣から最低でも五匹の子を産むのだとか。
「おい、嘘だろ……」
直後、俺の最悪の予想のさらに上回る光景が目に入る。
下水放水路すべての天井に、びっしりと隙間なく蜘蛛の卵で埋めつくされていたからだ。衝撃を与えなければ大丈夫。そう思っていたのも束の間、その卵たちはまるで俺の気配を感知したようにして、いっきに脈動が早くなる。
そして、その卵の中から幼稚園児ほどのサイズの子蜘蛛がチキチキチキ――、とブキミな黒い脚を生やしながら一斉に飛び出してくるのだった。やつらは孵化した直後の好奇心と食欲よろしく、複眼で俺を獲物だと認識したようだった。汚水のウォータースライダーにいっきに蜘蛛どもが乱入してくる。
「――ああ――ッ!! くそぉッ!!!!」
やつらの立てる汚水しぶきと卵から排出された謎の粘液を浴びながら、ときおり耳元でカチカチと口の牙を打ち鳴らす音に俺は気絶しそうになっていた。
いつしか下水管の破損したパイプから高温の蒸気が漏れでてきており、自分の顔が何回か焼けそうになる。そのとき、遠くからしだいに聞こえてきた、カンカンカンカン――!! という甲高いブザー音と赤いランプが一瞬で上へと去っていく。何事かと思っていると、どうやら遥か先の方で巨大なスクリューのようなものが回っているのが目に入った。
(なんだ、タービン!? そうか水力発電用の――)
幸いにも回転はそう速くない。整備不良と経年劣化で刃もいくつか欠損している。だが、あの刃に巻き込まれれば肋骨が折れ、最悪の場合、後ろにいる蜘蛛どもの大群に追いつかれて喰い殺される。
――――南無三!!!!
俺は息を吸い込むと、意を決して、タービンの影響で捻りのかかった濁流の中へとダイブしていくのだった。
俺は数度の溺れかけ臨死体験から対処法を学んでいた。水中で上を向けば鼻の穴に水が入り込んでくる。体がすぐに上下逆さまになる状況で鼻をつままないのは自殺行為。だが、今回に限ってそれ以上に厄介なのは――
(くそっ、追いつかれる――)
無数の蜘蛛たちとの距離はしだいに縮まっていき、ついにやつらの鋭利な脚が俺の背中に突き刺さりそうになった。そのとき、ふっと体から重力が消えた。
いつしか俺は滝のように吐き出される汚水とともに、薄暗い空間へと飛びだしていた。サッカースタジアムが丸々すっぽりと入りそうなほどの巨大な地下空間。俺はすぐに、ここが最下層の下水処理施設の一部『沈砂池』であることを悟った。
遠くの方の壁で、航空障害灯のような赤い光が一面に瞬いている。俺は蜘蛛に追われるがまま汚泥溜まりの水槽へと着水し、水飛沫ならぬ汚水飛沫がドボン――と盛大にあがるのだった。
***
沈砂池。
それは本来であれば、下水処理場で最初に大きなゴミや砂、糞便を沈殿させることで取り除くための池だが、こと最下層ではまるで違った。
ズサンな管理どころか何十年も清掃・整備のされていない水槽は汚れに汚れきっており、下水の流入口に至っては、天井付近にあるせいで茶色の汚水がばしゃばしゃとかけ流し温泉のように垂れ流されている。
俺は急いで水面へと顔を出し、死に物狂いで泳いで人工岸に上がると、胃の中のものをすべてその場で吐きだすのだった。
【現在、体内から二十七のウイルス・バクテリア・腸内細菌・寄生虫を検出しました】
【ナノマシンによる除去を行いますか?】
「するに決まってんだろ。うッ……おえェ……、ああ、クソッたれ」
俺は四つん這いになり、口から唾液まじりのソレを垂らしながら、胃どころか内臓すべてを口から出す勢いで横隔膜を痙攣させる。汚水を飲み込んだせいなのだろう。ひどい胸焼けだ。
まるで食道に千本の針でも刺さったかのようにしてイガイガと痛みが走り、胃には沸騰した鉛が流し込まれたような感覚がしきりに襲ってくる。ふと、水槽に浮かぶ腸にウジが大量に湧いたドブネズミの死骸が視界の端に映り、俺は我慢しきれずその場でさらに嘔吐するのだった。
今晩は間違いなく峠になるだろう。
それまでに清潔な衣服と水、食料がなければ、最悪命を落としてもおかしくない。血中のナノマシンが悲鳴を上げるほどに、体内に侵入してきたウイルスや菌、寄生虫の卵の数はあまりにも多かった。
「……く、……っそ……、マジで、勘弁してくれ……」
俺は全身を複雑骨折した病人のような動きで歩き続けた。
今しがた流れてきた経路は、おそらく月庵や上層の彼らも把握している。
上層、中層、下層。そして最下層まで貫通している建造物は、なにもこの都市の三大企業の本社ビルだけではない。余分な浄水を排水するスプリンクラー以外にも、都市全体の緊急用の下水処理設備も当然ある。そこから追手のホバーバイクが数台来ているかもしれない。
「…………」
幸いにも、蜘蛛は生まれたてのせいかうまく泳ぐことができずに沈んでいったらしい。だが、油断はできない。チルドレンはすぐに環境に適応し、すぐに近くの生物を喰い殺しはじめる。
俺は急いで沈砂池脇の作業員用のメンテナンス扉を蹴破ると、壁伝いに奥へ奥へと歩いていくのだった。
***
かなり歩いたはずだ。
かれこれ、もう三十分は下へと歩き続けている。
そう、下だ。
初めてこの都市の最下層に流れ着いたときとは違い、追手から逃げるために下へ下へと降りていく。途中、何かの鉱山跡だったのか人工の地下渓谷のような場所が続くばかりで、人の気配はまるでないように感じる。にもかかわらず、無数の坑道の入口にぶら下がる赤い警告灯がずらりと立ち並んでいるせいで、無数の捕食者に監視されているような錯覚をしてしまう。
「…………」
あの月庵という男はヤバイ。
なにが、どう危険なのかは自分にも説明できないが、あれは一緒にいるとまずい類の人種な気がする。少なくとも、あの義体化手術の契約には俺の大事なものが奪われるような予感があった。そう分かっていたのに、俺はなぜ、あのときサインなんかをしようと――
「いまは、考えてる暇じゃない、か」
ここが最下層のどこなのかは分からない。だが、上層よりかはまだ最下層の方が土地勘は働く。話には聞いていたが、ネオミナトミライがここに都市を築いた理由のひとつに、ここら一帯の地下に採掘資源が見つかったからなのだと。
一瞬、東京湾の海底に眠る天然ガスや石炭の類かと推測するも、記事を見る限りその資源についての言及はされていないようだった。もしくは、誰かが検閲をしていて意図的にその部分だけを消しているのか。
「火気厳禁、か――」
周囲の断崖絶壁には、所々、奥の方まで古めかしいレールが続く廃坑の入口が点々としており、その周囲には『可燃物注意!』『転落注意!』といった掠れた警告文が貼られている。天井を見上げようにも、そこには靄がかかったようにして見通せない暗闇があるだけだ。
おそらくフラッシュライトか何かで照らしても、それが晴れることはないだろう。と、そのとき――
「――――ッ」
俺はその暗闇の奥から二つの光が降りてくるのを見て、すぐに脇の廃坑口へと飛び込んだ。
その単一の光はホバーバイクの前照灯だった。となれば、追手はすくなくとも二人。いや、二人乗りで四人の計算か――
ホバーバイクはすぐ近くで音を鳴らしながら降りると、ライダーと同伴者たちは特徴のある籠った声を響かせるのだった。
『オイ、逃げたネズミはどんな特徴だっけか?』
『男ダ。若イ。アト、生きて捕マエル。これゼッタイ。破ルト、金デナイ』
『チッ、生け捕りかよ。だりーな』
バイクから降りてきたのは、動物を模したようなフルフェイス型ヘルメットをかぶった男四人組だった。廃坑の入口からすこしだけ顔を覗かせると俺は息を呑んだ。
(スカベンジャー!? なんで、追手にあいつらが……)
暗がりでシルエットだけしか見えなかったが、あの喋り方と気配は間違いなくスカベンジャーだ。シルエットからしてペンギン、オオカミ、クマ、コアラ。順番に、運転役、追跡役、盾役、指令役だろう。全員、短機関銃を装備している。
『他ニモ、アナモグラも参加シテルって。オデ、負けたくナイ』
『チッ、デカブツが。……まぁ、いい。反応はこのあたりで消えたらしい。さすがに、ここより下には行ってないだろう。探せ!!』
いや、なにもおかしくはないか。
現にスカベンジャーは下層のゴキブリと揶揄されてはいるが、それは逆を返せば落ちてきたゴミや不要物を処理する役割ともいえる。それにやつらは金にガメツイ。組織的なポリシーもなく、金さえ積まれれば企業の仕事も引き受けると聞く。
俺は親指の爪をかじりながら思考し、足音を消しながらその場から逃げようとした。
そのときだった。
『オマエさん。どこへ行くつもりじゃ?』
耳元で囁くようにして、コヒュー、コヒューと掠れた呼吸音が聞こえてきたのだ。吐息の数は三つ。俺は前転しながら飛び退いてすぐに振り返ると、そこには暗がりでぼんやりと浮かぶ六つの赤い点がいるのだった。
(アナモグラ!? くそっ、なんで最下層の住民まで――)
『アナモグラ』
ここら一帯の資源採掘要員として、企業に酷使されていた者たちの成れの果てだ。最初は企業に対抗するための労働組合だったらしいが、資源をあらかた掘り尽くしてからはこの地下採掘場も放棄され、今では行き場のない者たちが集まって暮らしていると聞く。
輪郭しか見えないが、彼らはスコップかピッケルを持っているらしい。なぜか彼らの背中には酸素ボンベのような形をした携帯用暖炉があり、通電中の発熱体が中からじりじりと赤く暗い灯を放射している。遠赤外線が強い。傍にいるだけで皮膚がただれそうになる。
「くそっ!」
だが、俺が慌てて廃坑から飛び出すと、すでに騒ぎを聞きつけてきたスカベンジャーがこちらに指差しながら騒ぎ立てるのだった。
『ムッ、あいつだ。イタゾ! 追え、追え――――!!』
生け捕りが目的。
なら、撃ってくることはあるまい。そう思ったのも束の間、やつらはホバーバイクの前照灯をこちらに向けると、そのうちの一人が躊躇なく発砲してくるのだった。
『馬鹿ヤロー! テメーが殺しちゃマズいって言ったんだろーがよ!』
『アレ、ソーダッタカ。……デモ……オデ、熊。……鹿ジャナイ』
『うっせェー!!』
コアラ男がやたらと大きな図体の熊男を蹴り上げる中、俺はチャンスとばかりに下へと走りだした。
『あれ、意外と元気だな。……うん、あれだけ元気なら、一発くらいは当ててもイイカ。よし、作戦ヘンコゥー! 撃って撃って撃チマクレェ!』
『オデ、ブッパナス、ウマい!』
直後、明らかに殺意のある量の銃弾が飛んできては、さっきまでいた地面を穴だらけにしていく。俺は内心『知能ブースターの電源くらいちゃんと整備しとけよ!』と切れかけていた。
どちらにせよ、いま撃たれるのはマズい。強化服はおろか、防弾ジャケットも着ていない状態で被弾すれば、たとえ口径の小さな銃弾であろうと死にかねない。頭部は即死、内臓も失血死コース。せめて厚着してればマシかもしれないが、俺がいま着ているのは薄っぺらな病衣だけなのだ。
痛む喉と気道を酷使しながら、鉛玉の飛び交う地面を踏破し、ときにパルクールのような動きで簡易足場をするすると乱暴に降りていく。だが、どれだけ下に降りても、鉛玉を避けようと近くの廃坑に入ることはできないらしい。
というのも、廃坑のほとんどの暗闇でアナモグラが赤い目を瞬きさせながら待機しているのだ。やつらはスカベンジャーが追い込んだ獲物を、隙あらば横取りして拉致するつもりなのだろう。これではまずい。これだけ下に降りても、ここら一帯の地下渓谷の底がまるで見えてこない。追いつかれる――
「…………っ」
直後、嫌な予感が的中し、スカベンジャーたちのホバーバイクが浮遊しながら、断崖絶壁を難なく降りてきたのだ。ライダーとその後ろに乗る男は、片手でも扱える短機関銃をこちらに向けている。あとすこしで完全に横並びになる。これでは上と横からのクロスが組まれた状態になるため、被弾率が格段に上昇する。
俺はアナモグラの赤い眼光のなさそうな近くの廃坑の通路へと転がり込んだ。
だが、おそらくこの廃坑は奥で繋がっている。このまま資源搬出用の線路を辿って逃げるのは不可能だ。アナモグラの追手に包囲されて捕まるだけだろう。
そのとき、作業員用のプレハブ小屋が目に入った。当時、使われていた物置だろうか。俺はその脇の壁に設置された大型の蓋のようなものに目をつけた。
(……ダストシュート……?)
俺はためしに蓋を開けてみると、ぶわりと下から吹き上がる強風が顔を舐めあげた。大人ひとりは余裕で通り抜けられる程度の狭さだ。天井は見えない。底も真っ暗でまったく見えず、手から擦れていった砂がぱらぱらと落ちていく。
おそらく採掘場のときに、不要な土か砂をそのまま地下に捨てるための穴。ここよりもさらに下に、なにか別の施設でもあるのか。だが、曲がりなりにも最下層のさらに下へと続く穴だ。行った先でチルドレンが生息しているかもしれないし、安易にこれより下に行けば二度と太陽を拝めなくなるかもしれない。遥か地下でさまよった挙句、死ぬ可能性だって――
「…………っ」
そんな不安を和らげたのは、ダストシュート内の真正面の壁に描かれた落書きだった。
【GO DOWN! (下に行け!)】
それは暗い場所でぼんやりと緑色の光を放っていた。蓄光塗料だ。何者かがこのダストシュートを隠し通路として使うことを想定して、ここに隠しサインを残していったのだ。
そのことに気づいた瞬間、スカベンジャーが強引に廃坑に入ってきたのか、奥の地下道からフラッシュライトとホバーバイクの飛行音が近づいてきた。もうすこしで曲がり角から身を出して、この通路を照らしだすだろう。俺が通ってきた通路からも、別の追跡隊の足音が近づいてくる。もう時間がない。行くしかない。
「どうにでも、なれ――!!」
俺は大型の蓋をバカンと上に開くと、その中に身を捻じり込むようにして落下を開始した。
***
長い、長い落下だった。
人間、あまりにも長い落下時間を経験していると、上下感覚が分からなくなるらしい。
ときおり、ダストシュートの壁に当たった箇所が、摩擦熱で焼けただれそうになる。すでに何箇所か皮膚が持っていかれており、俺はしきりに胸の中央で祈るような仕草をしながら落ちていくのだった。
脚から血の気が引いていき、爪先に風が集中して当たっていることもあってか冷たくなっていく。かといって頭に血が上るわけでもなく、骨盤から胃あたりに血が集中するような妙な感覚だった。
やがて、俺は水ではない流砂のようなものに着地した。
あまりにもきめ細やかな砂の山は、全身に傷を作ったものの緩衝材として十分に機能したようだった。両足も骨折していない。俺は目を瞑ったまま大量の砂をかきわけて脱出すると、その場に倒れ込むのだった。
どのくらい、そうしていただろうか。
光ひとつ射し込まない深淵の地下道。
耳が痛くなるほどの静寂の中、自分の鼓動と呼吸音だけが鳴り響いている。
十分、ニ十分、一時間が経過した。
自分の呼吸が弱まってきているのを感じる。
体温も下がってきている。寒い。
ああ、もうダメだ。ここで死ぬのか。そう諦めかけていた、そのとき、ぼやけた視界の奥から足音が近づいてきた。ランタンだろうか。光源を腰にかけた人影が二つゆっくりとやってくる。
アナモグラの連中だろうか。
この際、これで捕まってもいい。また、月庵の治療を受けることになるが、死ぬよりはマシだろう。治療費をふっかけられても、院長とやらが言う義体化手術でも受ければいい。そう思っていると――
「おい、あんた――大丈夫か――⁉ 」
それはアナモグラ特有の枯れた声ではなかった。掠れた呼吸音も聞こえない。声の主はアナモグラに比べたら、比較的まともそうな老人のような声だった。やがて、ぼやけた光源がふたつ駆け寄ってきて――
『ム、こいつ。こいつか! 顔認証も確認した。……よし、回収するぞ!』
俺はその老人の顔を見る間もなく、意識を失うのだった。